第十話:香椎千里の薔薇色の時代(前編:その2)
さて。
ミス・マリアが香椎千里に送った、あるいは贈った短編小説の数は合わせて六作、そのすべてが「完璧だった」と香椎千里は言った。
そうして、特に、その中のひとつの作品については、
「そこには、私の望むものが全て入っていた」
パンッ
と言って突然、彼は両手を叩き合わせた。
「両手の鳴る音は知る。」
彼は続けた。
左腕を背中にまわし、今度は右の手のみを、猪熊先生の前に差し出しつつ、
「片手の鳴る音は如何に?」
そうして彼は、そのままその右手をタキシードの内側に入れると、その内ポケットから、一通の封筒を取り出した。
「※※※※さんに宛てた手紙です」
彼は、続けた。
「これが、どうしても、出せないのです」
*
ピロン。
と、それからほどなくして、わたしのスマートフォンが鳴った。
このときわたしは、森永さんの持って来た絵のサンプルを見せてもらっていたところだったのだが、その届いたメッセージに、
「あれ?」
と、ついつい声を出し、小首をかしげることになった。
「なにか?」森永さんが訊いた。
「あ、いえ、別に」わたしは応えた。きっと、なにかの誤送信だろう、「猪熊先生、もうちょっと遅れるかも」
届いたメールには、こう書かれてあった。
『来客予定あり。
電車遅延。
あがって待っていてもらって下さい。
――猪熊』
そうして、ここでわたしは、ふたたび、なんだか不思議な感覚に襲われると、読者の皆さん――の方ではなく、森永さんの方を向きながら、
「このくだり、前にもやりませんでした?」
が、このとき彼女は、なぜだか口を半開きにし、左手のティーカップは胸の高さに上げたまま、その三白眼も丸くして、わたしのうしろ、応接室の窓の方を、ジィッと見詰めていた。
「なに?」わたしは訊いた。「どうかした?」
「あ、あ、あの、あの、あの、あの……」クールそうな見た目からは想像し難い、ふるえるような声で、彼女は応えた。「う、う、うし、うし、うし、カ、カ、ガ、カ、カシ、ヤマ、さ……」
「うし?」
「う、う、うし、うし、うしろ……、です」
「うしろ?」
とここで、
コンコン。
と、ここのガラス窓を叩く音が聞こえたのだが、ここは八階建てマンションの七階部分である。
ミスター?
一瞬、あの丸顔スケベ親父のことが頭を過ぎったが、いやいや、アイツはどっか別の時空に飛ばされたばかりである。
ミアさん?
いや、彼女なら普通に玄関から入って来るだろうし、パウラちゃんやアーサーも、流石に窓からは入って来ない。
「ドドドド、ドドドド、」森永さんの動揺は続き、「ドッドー!」
と、このまま行けば、またなにやら怒られそうなアニメの主題歌を歌い出しそうな雰囲気であるが、それはさておき、他に、こんな所から登場しそうな猪熊キャラと言えば……、
いやいやいやいや、いやいやいや、
と、出来ればうしろをふり返りたくないわたしであるが、ここで、
「ねー、ちょっとー、あなたヤスコちゃんでしょー?」
と、窓の外から女性の声。うん。この声には聞き覚えがある。
「ゴメンだけどー、ここの窓開けてくんない?」
と言うことは、彼女の相棒も一緒に来ているということで、それなら、森永さんのこの狼狽ぶりにも説明がつく。
つくのだが、だからと言って、
「だからと言って、アメリアさん」そうしてわたしがうしろを向くと、「窓からは入らないでって前にも――」
「ドラゴンッ?!!」と、森永さんの叫びが聞こえ、
デデンッ
とそこには、巨大な翼竜、メスドラゴンのエレクトラちゃんの、黄色と緑の大きな瞳があった。
しかも彼女は、よほど、この久々の再会が嬉しかったのだろうか、ふり返ったわたしの顔を認めるや否や、
ギャエェーッス!!!!!
と、天にも届かんばかりの雄叫びを上げてくれたもんだから、
「ドラゴンッッッ?!!」と、森永さんもふたたび叫んで、
ふっ、
と、客室ソファに気絶し倒れることになるのでありました。
*
と、言うことで。
ミセス・アメリア・リンディはアメリカのひと。19世紀生まれの飛行機乗りで、あの頃まだ珍しかった大西洋の単独横断飛行を、リンドバーグに続き成功させた、すご腕パイロットでありました。でありましたが、
「ゴメンね、まさか普通の子が来てるとは想ってなかったからさ」
とアメリアさん。床に倒れた森永さんの顔をのぞき込みながら、「よほど、アイツの顔が怖かったのかな?」
と、問題の“アイツ”こと、メスドラゴンのエレクトラちゃんは、流石に部屋には入れないので、マンションの屋上で待機中である。でもって、
「まあ、それももちろんあるとは想いますけどね」とわたし。アメリアさんの肩越しに彼女を見つめながら、「それ以前に、かなり緊張してたんだと想いますよ」
「緊張?」
「猪熊スタジオの面接で来たんですよ、その子」
「面接?」
「新しいアシスタント候補なんです、彼女」
「そんな変わり者がまだいるのか?」
「まあ、まだ実態を知らないでしょうし……」
「しかし、それではどうしようかな?」とアメリアさん。森永さんの頬をそっとなでながら、「このまま、寝かせておいてあげた方がいいかな?」
「そうですね」とわたし。「取り敢えず、仮眠用のベッドに移して、変な夢でも見たことにさせましょうか」
「うん、そうだな」と、ここでアメリアさん。森永さんを担ぎ上げながら、「場合によっては、長くなるかも知れないし」そう言って、仮眠室の方に向きを変える。
「長くなる?」とわたし。アメリアさんの前を横切り、扉を開けながら、「なにかあったんですか?」
「なんだ、気付いてなかったのかい?」
「なにがですか?」
「このあたり一帯、なぜだか周囲から切り離されてるんだよ」
*
さて。
ミス・マリアがつづった六つの短編、この六作品を読んだ香椎千里が、なにより先に、これらを持って、朝食会場でしなびたパンケーキを食べているであろう彼の担当編集のところへ、よろこび叫んで飛んで行こうとしたのは事実である。
であるが、しかし、
「待てよ」
と、香椎千里は考える。玄関脇の姿見をのぞき込みつつ、
「あいつに盗られたらどうする?」
あの編集者は結局、ミス・マリアを含む三名の小説を、一読たりともしていないだろうし、仮に読ませたとして、この傑作の価値にあいつが気付けるとは、どうも想えない。
サリエリにはサリエリなりの、矜持と能力がある――鏡の向こうで男がわらった。
なので男は、奥へと戻ると、まずは、先ほどソファに投げ捨てた、ミセス何某と福山在住五十六才の紙の束を拾い上げ、机に向かい、おどろくほどに寛容な、むしろ親切といってもよいくらいの、仁愛・善意を発揮しながら、彼らの文字の羅列に対する丁寧な反応と、いくつか実用的なアドバイス――有益な辞書の選定方法や、如何にしてあからさまな猥褻表現を回避するのか等など――を、情理を尽くし、簡易なことばで、ホテルの便箋一枚に収まるように、書いてやることにし、みごとそれを成し遂げたのであった。
*
「どうしたんですか先生? その格好は」
ホテルの朝食会場に現れた彼の姿を見て、香椎千里の編集者は目を丸くした。というのも、
「いや、すまない、靴を忘れてね」
と言う彼の足もとが、昨日と同じ厚底スニーカーだったからではなく、
「あ、いえ、そうではなく、」
彼の服装が、既に、今夜のパーティー用に準備したというライトグレーのタキシードだったからである。
「工場の取材も、その格好で行くつもりですか?」
しなびたパンケーキのような顔で編集者は訊いた。
「いや、取材先には断りの電話を入れておいたよ」
ちいさなフランスパンに大量のマスタードを塗りつけながら、SF作家は応える。
「ちょっと、アイディアを想い付いてね」
ミセス何某と福山在住五十六才の紙の束、それに、彼らに宛てた応答書きを取り出しながら、「なかなか、興味深かったよ」
「はあ、」と担当編集者、それらを受け取り、「それじゃあ、今日はこれから?」
「ホテルに残ってすこし書くよ」これに応えて小説家、大量のマスタードパンを口につめつつ、「それから靴と、バラの花束でも買いに行こうかな」
(続く)




