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第十話:香椎千里の薔薇色の時代(前編:その1)

 ピロン。


 と、机に置き忘れていたスマートフォンが鳴った。


 このときわたしは、やっと愛用のノートパソコンの前にすわり、やっと猪熊先生の過去パートの続きを書こうとしていたところだったのだが、その手を止めると、


「こんなんだから、お話が進まないのよ」


 と、物語が進まない理由を、自身の才能の無さや、怠惰で取っ散らかった性格のせいにはせずに、たいへん便利で、いちど持ったら手放せない、手のひらサイズのコンピューターのせいにした。そうしてそれから、


「いつでもどこでも、誰とでもつながられるのって、それってほんとに便利なの?」


 と、ひとり愚痴ってから、その手のひらサイズコンピューターの画面を確認した。するとそこには、


『来客予定あり。

 電車遅延。

 あがって待っていてもらって下さい。

 ――猪熊』


 との文字が書かれていた。一瞬、


「あれ?」


 と、小首をかしげたが、それと同時に、


「もうさ、ヤスコちゃんさ、地獄よ地獄、地獄なのよ」


 と、このスタジオのアシスタントのひとり、《プレミアムホワイトのカズ》こと野崎和江さんに肩つかまれ泣訴されていた時のことを想い出してもいた。


     *


「いままでも地獄だったけどさ、さらに一層、いや三層ぐらい? より深い地獄に堕とされた感じ?」


 と和江さん。どうやら、その数ヶ月前に、アシスタントさんのひとりが独立したらしいのだが、


「それじゃあ、昔みたいに三人で頑張りましょうね♡」


 と、その“昔”とやらより数倍した仕事量を前に猪熊先生、人員を補充する気もないらしく、


「大丈夫よ、いざとなったら私が描くから」


 と、全盛期の手塚治虫先生みたいなことを鼻歌まじりで言い出す始末で、


「駒江さんの方は? なんて言ってるんですか?」


 と、わたし。ひき続き泣いている和江さんを慰めながら質問するが、


「あのひとはさー、あのひとでさー、先生との付き合いが長いからさー」


 と言って彼女は応える。まるで、宇宙人との会話に苦労する、テレビドラマのお母さんのように、


「「まあ、でも、やってみましょうよ、楽しいかもよ」って、軽い感じなのよね」


「はあ」


 いや、ほんと、つくづく、絵が描けなくてよかったなあ、と胸をなで下ろすわたしですが、それでもやっぱり、和江さんがあまりに不憫だったこともあり、


「望月さんとか、他の編集の方は?」


 と、無い知恵をふり絞ってみる。


「猪熊スタジオが止まったら困るのは、皆さん同じでしょうし」


 すると和江さん、


「いちおう探してくれてはいるみたいなんだけど……、ほら、ここ……、これでしょ?」


 と、どうやら、猪熊スタジオのブラック&ブラックというか――いや、お給金や福利厚生とかはよろしいらしいんですよ、食事や仮眠室も充実していらっしゃいますし。が、それでも――ハード・デイズ・ナイト&ナイト・ナイト・ナイト的労働環境は、マンガ家界隈ではかーなーりッ、有名らしく、


「興味を持ってくれるひとはいるらしいんだけどさあ――」


 皆さん腰が引けてっていうかガタガタ震えていらっしゃるそうで――ま、あの化け物が相手じゃね。でも、


「でも、にしては、和江さんも駒江さんも、ほんとよく続けられてますね」


 と、わたしは訊き、


「それは、ほら、やってる時は、修羅場も地獄も楽しいし、先生が近くにいるとなぜか、出来なかったことも出来るようになるしね」


 と、和江さんは応える。苦笑まじりに、


「詢子ちゃんも、出来れば辞めたくないって言ってたしねー」


 あ、“詢子ちゃん”ってのは、その独立して辞められたアシさんのことらしいです。らしいですが、


「辞めたくなかったんですか?」とわたし。かーなーりッ本気で驚いて、「仕事のハードさに耐えられなくなったんだとばかり」


 すると和江さん、


「ちがう、ちがう」と右手をふりながら、「彼女はただただ、自分の仕事が忙しくなっただけ」


「へー」


「ホントね、これがね、やってる間は楽しいのよ」と和江さん。苦笑の苦の字を高めつつ、「ほんと、楽しいの、こまったことに」


「はあ……」


「いや、「楽しい」より「気持ちいい」がまさる感じかな? なんて言うの? ランナーズ・ハイ? みたいな?」


『それ、違法なナニカが入ったりしてませんか?』


 と、ついつい本音を漏らしそうになるわたしだが、そいつはギュッと、胸にしまうと、


「あー、でも、それなら、」と、代わりに想い付いたアイディアを口に出してみる。「その詢子さん? に誰か紹介して貰うってのはどうですか?」


「え?」


「あ、ほら、このスタジオの内実を知っていて、それでも「辞めたくない」って想えた方なら、ここに合いそうな人とか、知ってたり、判別出来たりするんじゃないですか?」


 すると和江さん、


「あー」と、口を大きく空けながら、「たしかにそれは……」としばらく虚空を見上げつつ、「たしかにね、大学で漫研に入ってたって言ってたしね、その手の人脈とかあるかもね、彼女」


「そうそう」とわたし。本当に見付かるかどうかは分からないが、「若いひとの方が、(ブラック企業に対する)順応性も高いでしょうし」と適当なことを言う。


「あー、」と、それから和江さん、いつかの悪魔もドン引きしそうなわっるい顔をすると、「たしかに。他のアシ先を知らない方が、猪熊カラーにも染めやすいか……」そう言ってから、


 ポンッ


 と、右のこぶしを左の手のひらに当てた。


「うん、よし、分かった。ちょっと連絡とってみるわよ、詢子ちゃんに」


     *


 と、言う感じで。


 たぶん、この 《来客》ってのは、その流れで選ばれた、新たなる犠牲者――じゃなかった、アシスタント候補のひとりなのだろうが…………あれ?


 なんか……、胸がいたむ……、と言うか……、頭がいたい気がしないでもないのだけれど…………あれ?

ま、まあ、その辺は気にしてもしかたがないし、無理ならその子も、さっさと辞めるでしょうし、わたしが気にしてどうなることでもないでしょうし…………うーん?


 が、まあ、それよりなにより。


 そんなことよりわたしは、わたしの作品の続きを、書かなければいけないのでしたよ。


     *


「さて」


 というワケで、その辺のナンヤカンヤもなんとかひと段落、やっと愛用のノートパソコンの前にすわることが出来たわたくし、樫山泰子であります。


 電源を入れ、ワードを立ち上げ、冷たいコーヒーをひと口すすって……って、はい? いま何か言いました? …………「ミスターとはちゃんとお別れ出来たのか?」?


 あー、はいはいはい。


 あの赤毛なら、それこそ、例のお別れ会のあと、ちゃーんと、…………って、あれ?


 と、ここで不思議な感覚に襲われるわたし。読者の皆さんの方をふり返りながら、


「このくだり、前にもやりませんでした?」


     *


「脱け出せなくなった?」


 と、猪熊先生は訊いた。右手の人差し指を、テーブルと、その下の地面の方に向けながら、


「今日? この日から?」


 するとこの言葉に、目の前の男性――その顔にはすこしだけ生気が戻って来ていたが、


「セ・イグザクト」と応え、先生の背後に目をやった。「あれは……ホットドックですか?」


 ここは、上石神井の駅と、先生の仕事場マンションを結んだ、そのほぼ中間地点にある古びた喫茶店。

男性の視線の先には、この喫茶店と同じくらいに古びて色あせた紙が、《コニー・アイランド風》の文字とともに壁に貼られ、あまり美しくないホットドッグのイラストを彼らに見せている。


「え?」と先生は応え、「あ、はい、そのようですね」と、うしろを向きながら、「《コニー・アイランド風》がなにかは分かりませんが」


「ウェイター!」と突然、香椎千里は叫んだ。左手を鷹の爪のように立てながら、「あれを四つ!」


「四つ?」おどろいた顔で先生。「《特大》と書かれてますけど?」


「私、ホットドッグには目がありませんで」と彼は応えた。お腹をさすりながら、「今日はまだ……、あー、つまり、これまでのどの今日でも、今日はまだ、って意味ですが……、今日はまだ、なぜか食べていないもので」


 そう言って、ながい中指と薬指で、充血しかけの左眼を押さえる。「なにしろ、手紙を書くのに必死で」


「手紙?」と猪熊先生。彼女にしては珍しく、「すみません、どうも、話の流れが見えて来ないのですが――」


 と、どうにかして、いまのこのシーンを想い出そうとするが――それでもやはり、彼とは、会ったこともなければ、会うことになったこともない。ないのだが、


「あ、これはすみません」と香椎千里。そんな彼女の困惑には気付かぬ様子で、「なにしろ、別の今日で、すべてお話していたものですから」


 と、さらに先生を困惑させて行く。が、これに対して先生は、


「あー、それでは、とにかく」と、なんとか平静を保ちつつ、「とにかく順を追って、お話の続きを、お聞かせ頂けませんか?」そう、たしか話は、途中で止まったままだ。「三人目の方、その方の小説が、なにかのキッカケ? みたいなものだった……ということですか?」


「キッカケ?」


「「そこには、私の望むものが全て入っていた。」――先ほど香椎さん、そう、言われましたよね?」


     *


 さて。


 物語を描くとき、そこにはいくつかの類型がある。


 それは、我々のような物書きならば、素人玄人を問わず、古今東西、さまざまなお話から、意識的あるいは無意識的に、引っぱり出してくることの出来る、そういう類いのものなのだが――うん。いくつか例を挙げてみよう。


     *


 その1:落ちて、上がる。


 ある裕福な、あるいは幸福な、またはそのどちらでもある男性なり女性なりが、ある日突然、穴に落ちる。


 もちろん、この“穴”は比喩であるが、要は、貧乏になったり、不幸になったり、なにかを奪われたり、どこかに流されたりするという意味の“穴”である。


 そうしてその後、本人の努力とか、隣人の助けとか、いとしき恋人の愛の力とかで“穴”から脱出、以前よりも裕福になったり幸福になったり、またはそのどちらにでもなったところで、物語は終わる。――”Happily ever after.”


     *


 その2:ボーイ・ミーツ・ガール


 ここにひとりの男の子……って、まあ昨今は様々な政治的配慮が求められる時代でもあるし、別に出会うのを、男の子と女の子に限らせる必要もないし、男の子と男の子とか、女の子とおばさんとか、あるいは、人間とナニカ (犬とか猫とか宇宙人とか)とかが出会ってもよいワケですけれど……、という注意書きを入れないといけないわけですけれど、


 要は、その辺にいるあなたやわたしのような平凡な人間が、上がったり下がったりの日常の中で、その下り坂の途中で、なにやら素晴らしい人やモノに出会い、その出会いをきっかけに人生が好転、なにやら幸福な感じになって行き、その上り坂をのぼっている途中で、物語が終わる。――”Happily ever after.”


     *


 その3:不幸なプリンセス


 この辺になると話はもう少し込み入ってくるのだけれど、要は、『シンデレラ』である。


 お話の始まりは、「不幸」。


 実母に先立たれたシンデレラが、継母と義理の姉たちにイジメられ、床を磨いているところから始まる。


 ゴシゴシゴシゴシ、

 ゴシゴシゴシゴシ。


「なにをいつまで床を磨いているのよ、シンデレラ、はやくお洗濯ものを済ましてしまいなさい」


「あ、はい、お義母さま、すみません」


 ジャブジャブジャブジャブ、

 ジャブジャブジャブジャブ。


「そんなところでなにをしているの、シンデレラ、かまどの掃除が残っているじゃない」


「あ、はい、すみません、ドリゼラ義姉さま」


 パタパタパタパタ、

 サッサ、サッサ、


 パタパタパタパタ、

 サッサ、サッサ。


「あ、ねえ、ちょいと、シンデレラ、舞踏会に行く準備をするから、ドレスを着るのを手伝ってちょうだい」


「あ、はい、少々お待ちを、アナスタシア義姉さま」


「え? あ、ちょっと、やあねえ、シンデレラ、あなた、かまどの灰まみれじゃない。そんな汚らしいかっこで私にさわらないでよ」


「あ、す、すみません……」


「あー、もう、いいわいいわ、自分でやるから、あなたはあっちへ行って、シンデレラ」


 と、つらい日々と仕事の果てに、粗末なわらの布団の中で眠りにつくシンデレラ。想い出すのは、楽しかった子ども時代、やさしかった実の母。


 くすん、くすん、

 くすん、くすん。


 するとそこに、なみだを流す彼女の前に、ちょっと太めの魔法使いが現われて、


「なにを泣くことがあるんだね、シンデレラ」


 と、魔法の杖をサッとひとふり。


 するとなんとも、あーら不思議。


 ぼろぼろ服の灰かぶり姫、ステキなレディに大変身。


 カボチャの馬車とネズミの御者で、舞踏会へと赴きます。


 すると、現れ出たるはイケメン王子。


 碧い瞳に、さらさらヘアー、かがやく白い歯、王子さま。


 そんな彼に彼女は見初められ、たのしい時を過ごしますが――ここで話は複雑になり――ちょうどいいところで、お城の時計が真夜中を告げます。


 すると当然、魔法は解けて、我らが愛しのプリンセス、スタート地点――というか、ステキな想い出が増えた分だけ少しだけ――スタート地点よりも、少しだけマシな「不幸」へと戻されます。そうして、


「ああ、もう二度と、あのステキなひとには会えないのかしら……」


 みたいな感じに我が身を嘆いていると、そこへ何故だか城の大臣たちが家に来て、


「王さまはお触れを出した!」


 と、云々かんぬん。


 するとこれまた、あーら不思議。


 ガラスの靴がピッタリ合って――なんでガラスの靴の魔法は解けなかったかって? それはこれが、作り話だからなんだけど――、だけど、それでも、


 ふたりは再会、手と手を取って、瞳と瞳が重なって、唇と唇が――って、ところで物語は終わる。――「そうしてふたりは、末永く幸せに暮らしましたとさ、おしまい。」


     *


 と、まあ、これらの他にも、カフカ的、ベケット的不条理劇もあれば、これら三つを変奏させたり、絡み合わせたりする物語もあるにはあるが、それはそれとして、物語の基本構造は、大体こんな感じ。


 なんだけど、ここで大きな問題がひとつ。


 それは、いま上げたどの類型にも当てはまらない作品というものが、実はしっかり存在し、またそういう作品に限って、傑作と言わざるを得ない物語であったりする――という大問題なんですね。


 そう。


 それは例えば、ある種の神話群、歴史物語、シェイクスピアやドストエフスキー、平家物語やビルトモア・サーガ。


 そうして……、そうそう、そうして、これだけは、絶対に、忘れてはいけない。


 月のない夜、世界の終わりに、こころ優しきどこかの誰かが、泣いてる子どもを抱き締めながら、語ってくれた、すこし不思議な、おとぎ話。


 そう。


 もしもあなたが、物語の作者や、それに類する何者かであるのならば、これら奇跡としか言わざるを得ない物語群の構造を、試しに分析してみるといい。


 するとそこには、どうしても、いま挙げたような構造たちとは違うナニカ、どうしても、そこからはみ出してしまうナニカ、が見付かるはずだと想う。


 そう。


 そうして、この「ナニカ」が一体何であるのか?


 それは結局、どこの誰にも、よくは分からぬ代物だけれど、それでもここでは便宜的に、この手の話題でよく使われる、あの言葉を使って、その問いに答えを与えておくことにしよう。


 そう。


 その「ナニカ」とは、要は「真実」である。



(続く)

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