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第九話:香椎千里の青の時代(後編:その2)

 香椎千里に、師はいなかった。


 いや、精神的な意味での師ならば、無数にいた。


 メルヴィル、トウェイン、ヘミングウェイ――アメリカかぶれの父の影響だ。


 ホメロス、ジョイス、トルストイ――青年時代は誰にでもやって来る。


 漱石、安吾、小林秀雄――なぜ、死んでしまった人間というものは、ああもはっきり、しっかりして見えるものなのだろうか?


「しかし、ほんとに、私なんかでいいのかい?」


 昨夜のセリフを、くり返してみた。


 生きている人間ほど、油断のならないものなんていないじゃないか。


「ひとの小説、物語を読んで、批評だなんて」


 なにを考え、なにを言い出し、なにをし出すか、わかったものではない。


「それでも、構いませんよ」


 編集者は応える。


「送って来たひと達は皆、先生のファンなんですから、辛辣・毒舌は、承知の上でしょう」


「ふーん」


 香椎千里は、車窓から、雲間に覗く月を見ていた。――私に、ファンね。


「そりゃあ、いますよ」


 編集者は応えた。レンタカーのウインカーを、右に出しながら。


「ま、彼らは特に熱心ですから、ファンと言う呼び名が気になるようでしたら、先生を「師事されてる方々」とか、なんとか」


「ふーん」


 桜の花びらが二枚、月の方から降って来て、香椎千里の窓に止まった。


「しかし、」


 そう言いかけて、彼は口を閉じた。


「どうせ師事をするのなら、死んだ人間の方がずうっとマシだろうよ。彼らこそまさに、人間の形をしているのだからね。だってそうだろう? およそ生きている人間と言うのは、君も私も、所詮は、人間になろうとしている、一種の動物に過ぎないワケだからね」


 そこで雲が去り、香椎千里は、ひかり輝くしろい道、絹帯のような桜の園を見た。


     *


 ひとつ目の小説――と言うよりは、ファンレターに添えられた文字の塊は、苫小牧在住の二十代、自称主婦の女性からのもので、彼女の使うペンネームは、彼の小説の登場人物をもじったものらしかった。が、しかし、


「いったい、誰の名前をもじったんだ?」


 と、当の小説家本人にも、その謎は解けない様子であったし、また肝心の――と言ってよいかどうかももう分からないが――小説の方はと言うと、


『第六次元の朝食クラブ』


 という七千字ほどの短編で、文字数はおろか、そこからあふれ出る妄想と情熱は、問題のファンレターには遠く及ばず、更には、


「本当に、私の小説を読んだことがあるのか?」


 と、怪しまずにはいられない、派手やかな色彩と、大時代ぶったセリフまわしと、やたら難解な講釈が続くといった代物で、しまいにそのヒロインは、まるでなにかの骨軟化症にでも罹った病人のように見えて来る、といった仕上がりのモノであった。


 きっとミセス何某は、この少女を、悲劇に立ち向かう勇敢なるヒロインに仕立て、育て上げようと、持てる技術の粋を詰め込んだに違いないのだが、


 バサッ


 と香椎千里は、向かいのソファに、その紙の束を放り投げると、


 ドサッ


 と、そのままベッドに倒れ込んだ。


 天井を見上げ、あお向けに。


「が、しかし、」


 が、しかし、それでも彼は、老いた馬と従僕のことを想い出すと、ふたたび勇気をふり絞り、ふたたびムクりと起き上がると、ふたたび、ベッド横のナイトテーブルへと手を伸ばした。


     *


 ふたつ目の小説――こちらは一応、小説と呼んでもよいだろう。なぜならこちらには、ファンレターらしきファンレターは付けられていなかったのだから――は、広島県福山市在住の五十六才飲食店経営者のもので、謙遜を隠し切れない謙遜語で、どうやら自分には画才も文才もあるが時代に恵まれず、仕方なく親の跡を継いだのだ云々というメモが付せられていた。いたのだが、


「取り敢えず、自己紹介にあてる文才は持ち合わせてはいなかったようだ」


 と、この時点で既に、彼のこころを折るに十分な代物でもあった。


「が、しかし、」


 が、しかし、それでも彼は、どうにかこうにか、その紙の束をめくると、そこには、


『ジェイルハウス星のヴィーナスたち』


 という一万五千字ほどの短編――と言うよりはむしろ、なにやら壮大なスペースオペラの序章として描かれたような作品、文字の羅列があった。


「が、しかし、」


 が、しかし、それは、


「おいおいおいおい、おっさん」


 と、流石の彼も、眉をひそめずにはおられないような作品で、


 SF描写は雀の涙、取って付けたような宇宙船に宇宙基地、不気味な異星人に科学考証皆無の亜空間を舞台に、五十六才飲食店店主が描きたかったのは、牝牛のような乳房をもったピンク髪の美少女が、褐色の肌もあらわに、隠微な罠に陥ってしまうという展開だけのようであり、


「なるほど、文才ね」


 と香椎千里のため息も虚しく、飲食店店主は、持てる限りの技術と才能を駆使しては、問題の少女や、その友人たちの衣服の乱れや、滴り落ちる汗等などを、克明かつ繊細に、描き出そうとするのであった。


 ムクリッ


 と、ここで香椎千里は、ベッドから起き上がると、12ラウンドを戦い抜いたボクサーのような足取りで、どうにかこうにか洗面所へとたどり着き、


 ガラガラガラガラ、ガラガラガラガラ


 ガラガラガラガラ、ガラガラ、


 ペッ


 と、打たれ続け鉄の味がし出した口腔内を丹念にすすいだ。しばし天井を見つめ、


「ひょっとして、飲食店店主とミセス何某には、なにがしかの血縁的関係があるのではないか?」


 という推理を働かせた。ピンク髪の美少女の胸が揺れる描写に、ミセス何某の手が加えられているような、そんな気がしたからである。


「いやいやいやいや、いやいやいや」


 天井から目をそらし、鏡に映った自分の顔を見る。


 私の編集者は、きっと今ごろ、ホテルの朝食会場で幸福に浸っているだろう。


 鏡の中のやつれた男は、ちいさな痙攣を起こしている。


「いやいやいやいや、いやいやいや」


 きっとこれは、彼らなりのユーモアなのだ。


 私の作品にそっと忍ばせておいたユーモア、それを彼なり彼女らなりは、咀嚼解釈、拡大解釈させてみせ、それを私宛てに送って来てくれただけなのだ。


 私の編集者はきっと、いまごろはきっと、ホテルの朝食会場で、しなびたパンケーキに、この世の栄華を見ているだろう。


 彼にしっかり、抗議すべきか?


 いや、どうせ彼は、一行も読んではいないだろう。


 私が編集者なら、きっと読まない。


 そんな彼らの代わりに、こんな※※※※を読むために、我々作家は、存在を許してもらえているのである。


「ハイホー!」


 誰にも聞こえない声で、彼は叫んだ。


 彼は、彼がこれまでの人生で学んだ最も重要なことのひとつ――それはつまり、黙って坐って、絶望の手前で、わらって叫んで、深呼吸をすることなのだが――を想い出し、実行し、褐色の柔肌も露わなピンク髪の美少女たちを向かいのソファにほうり投げると、みたび、ベッド横のナイトテーブルへと手を伸ばした。


「はいほー!」


 こんどは、平仮名で叫んでみた。


     *


 みっつ目の小説は――これこそまさに小説、いや、芸術と呼ぶべきものであったが――、ナザレの大工をその名に冠した女学校職員からのもので、彼女の名前は明かせないが、便宜上ここでは、“ミス・マリア”としておこう。


 無論、彼女の婚姻の有無について、香椎千里には、知る術も、知る由もないが、それでも、彼女はきっと、いまだ未婚に違いない。――と、そのとき彼は祈願し、直感し、天啓を受けた。


 そう。


 近畿地方のある都市、その郊外に位置するこの一貫校でミス・マリアは、主にその小学部の生徒たちを相手に、「国語と外国語」を教えていると言うことだった。


『はいほー!』


 こころの中で、快哉を上げた。


 生まれた場所はもう少し西だが、七つの年に家族と引っ越しをし、いまいる県にやって来た。そうして以来、ずっと、ここで暮らしている。


 正直なところを告白すると、国語も外国語もそれほど好きではないのだが、進路に迷っていた高校時代、部活の先輩の助言――この部活動がどのようなものであったのかは、ついぞ語られることはなかったが――に従ったがために、いつの間にやら、こんな所にまで来てしまったのだと言う。


「先生との作品の出会いは、」


 と、ミス・マリアは続ける。


『はいほー!!』


 と、香椎千里は、ふたたび快哉をさけんだ。もちろん、こころの中で。


 香椎作品との出会いは、まったくの偶然であった。


 演劇部の部室に――そのとき彼女は、産休の先輩職員の代わりに、仮の部活顧問を引き受けていたのだが――中等部の生徒が彼の『キリンたちとのダンス』を置き忘れて行ったのが、そのはじめだったのだと言う。


「ときに皮肉なユーモアや、ときに性的なトピックを挙げられはするものの、」


 と、ミス・マリアは続ける。


「それでも、そんなドタバタの中に、ときに哀れを、そうしてささやかな奇跡を見せてくれるこの短編集は、まるで晩年のアルトマン映画を想い起こさせるものであり、」


『はいほー!!!』


 みたび、香椎千里は、快哉をさけんだ。みたび、こころの中で。


「私も、こんな素敵な奇跡が描けたらと、」


 拙いながらも、いくつかノートに短編を書き溜めていたところ、今回の企画を知り、応募してみました――と言うことだった。


     *


「“本職の方にお見せ出来る代物でないことは重々承知しておりますが、”」


 と、バラと毒ガスとホットドッグサンドが混ざり合った声で、香椎千里は続ける。


 彼のコーヒーにも、猪熊先生のココアにも、ちいさな澱が出来始めていた。が、それでも、


「“是非、ご笑覧頂ければ幸いです。”」


 そこまで語ると香椎千里は、残ったコーヒーを、ちいさな澱ごと、


 ぐびぐびぐびっ


 と、飲み干し、満足げに、喫茶店の窓からのぞく通りを見つめた。


 しばしの沈黙があった。


 そうして、


「そうして?」と、猪熊先生は訊いた。


「そうして?」と、香椎千里がこちらを向いた。


「それで、」先生は続けた。「肝心の、彼女の小説は? というか、いまの話が、どういまの状況に繋がるんです?」


「ラ・パーフェクシオン!」香椎千里は応えた。「三千字から五千字ほどの短編が六つ。確かに拙い部分もいくつかあったが、それでも」そう言ってからウェイターを呼んだ。「それでも、そこには、私の望むものが全て――」


「はい? お呼びでしょうか?」ウェイターがテーブルに着いた。


「コーヒーを、もう一杯」香椎千里は応えた。「望むものが全て入っていた」


 そうして、ソファに深くすわり込んだ。


 それから、


「それから?」と、猪熊先生は訊いた。


「それから?」と、香椎千里は応えた。すこし、考え込んでから、「そうそう、それから、」


 今日、この日から、脱け出せなくなってしまったんです。



(続く)

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