第九話:香椎千里の青の時代(後編:その1)
「はじまりは、桜の園だったんです」
と、その男性、香椎千里 (SF小説家)は言った。
ある中部地方で見た実桜の畑、取材の帰り道、月に照らされ、まっすぐ、絹帯のように白くひかったその道に、彼はこころ打たれたのだと言う。
「その夜、私は夢を見ました。
ある病院の夢です」
夢の中で香椎千里は、現実の彼よりも更に狂っていて――現実の彼が、一滴もお酒を飲まないにもかかわらず――四六時中飲んだくれる自分と、その人生にうんざりし、『エリザベス精神収容所』なるところに入院していた。
大部屋のソファに座り、目の前ではちいさな男の子たちがふたり、なにやら意味の分からぬ言葉で四幕の喜劇を演じている。
そうして、そんな彼らを見ながら香椎千里は、頭も冴えていたし、ふしぎなくらいに気分も爽快だったので、机の上に置いてあった旧式のタイプライターを手もとに引き寄せると、ひとつ、皮肉にあふれた短編でも書いてやろうかと腕まくりをした。が、ここで、
「が、ここで、そこに白衣を着た医者と」
その医者そっくりの看護師が現われたのだと言う。
「また、そんなものを書こうとしているんですか?」
看護師の女性は言った。――それが高じて、ここに来ることになったんじゃないですか。
「よけいなお世話だ」
香椎千里は応えた。――皮肉と皮相と悲愴、それが私の小説の持ち味で、読者はそれを望んでいる。しかし、それでも、
「しかし、それでも、」
と、看護師そっくりの顔で中年の医師は応えた。――あなたは、狂っているんですよ?
そんなひとに、“本当の意味で”、読者がなにを望んでいるものか、分かるものなのですか?
「どいつもこいつも、皮肉と皮相と悲愴ばかりを欲しがるふりをしてはいるが、どいつもこいつも本当は、日常的な節度ある物語と、そこに現れ立ち消える奇跡をこそ、望んでいるのではないですか?」
喫茶店の片すみで、その人は続ける。
周囲の目を気にし、ささやくように。
どこか遠くの方で、天から降り来た、
何かの弦の切れて、おちる音がした。
紅茶をひとくち、猪熊先生は啜った。
小説家の珈琲は、テーブルの片隅で、
湯気も立てずに、出番を待っている。
子供らの喜劇は、ふるぼけた舞踏会、
の情景場面へと、フツと移っていた。
「もしもなにかを書くのなら、」
医師と看護師が同時に続けた。
「こころない人々の物語ではなく、そう、たとえば、年老いた従僕についてお書きなさい」
主の消えた、ふるびた屋敷の、
独り残った、老従僕のお話を。
「彼には息子がいた、ひとり息子だ」
香椎千里が言った。バラと毒ガスと、巨大なホットドッグのガスを吐き出しながら、
「しかし彼は、不意に、そう例えば、あの地震のような不幸に見舞われ、死んでしまっている」
一瞬、先生の雰囲気が変わった。
勿論、彼女も気付かぬ一瞬だけ。
だからもちろん、そのことに小説、家は気付かない。
だから代わりに、先生の隣に二人、の男の子は座る。
彼女のこころを、そっとしずかに、はげますために。
「春が来る。白い花が咲く。」
香椎千里は続ける。
これは彼の、青の時代の記憶だ。
「老人はひとり息子のことを想い出し、そのことを誰かに話したいと希っている。
誰かとこの悲しみを分かち合いたい、と想っている。
しかし屋敷の人々はどこかに消えて、もう誰もいない。
かれの言葉に耳を傾ける人々はもう、どこにもいない。
“ああ、こぞのゆき、いずこにありや?”」
そこで老人は立ち上がり、厩舎へと向かう。
そこには年老いた馬が一頭、屋敷の新しい主人が、その行く末を決めるのを待っている。
「その馬は、彼と同じような目つきをしていた。」
馬は辛抱強い動物だ。老人は考えた。
「きっと、こんな自分の話でも、最後まで聞いてくれることだろう。」
ここまで語ると香椎千里は、不意に身体を、
ポスッ
と、ソファの背もたれにたおして預けた。
「そこで、看護師が私に言った。」
彼女の声もからだも、その老人のものにとって代わっていた。
彼女の肩に、桜の花びらが二枚、ひらひらと落ちて来た。
「ぜひとも、聞いていただきたいのです。」
そう言って、看護師はほほ笑んだ。
「とても悲しい、お話なんです。
でも、話さずには、おられないのです。」
当然ながら、そこに馬はおらず、
「あなたなら、私の気持ちを、分かって下さると想ったのです。」
そう言う老人に向かい香椎千里は、居住まいを正すと、その晩見かけたしろい道に囚われたかのように、
「ああ、」
と言って応えた。
「もちろん、よろしいですよ。時間なら、いくらでもありますから」
そうして彼は、
「そうして私は、」
辛抱強い性質ですから、
「そう応えた。」
これが、マズかったんです。
冷え切ったコーヒーを彼は、
ゴク。
と飲んだ。
どこか遠くで、天から降って来たような、なにかの弦の、切れる音がした。
*
コンコン。
と、扉をノックする音で香椎千里は目を覚ました。
時間は、本日午前六時ぴったりだったし、きっとそうなることだろう。
老いた馬になり、老いた従僕の話を聞こうとした記憶があった。
が、その話の内容はまったく憶えていなかった。
「先生? 起きてますか?」
扉の向こうで、彼の編集者が訊いた。
「あ、ああ」
扉のこちらで、彼はそう応えたが、ここがどこなのか? どうも居場所がはっきりしない。
天井を見上げる。
「七時半には出ますからね」
編集者は続けた。
「うん? ……ああ」
香椎千里は応えた。
自宅の寝室でないことは確かだ。
が、いつも避難先として使っているホテルでも、同じく逃避先として使っている恋人――ではないか――おんなのマンションでもない。
「食事を取るなら早めがいいですよ、ここの食堂、激混みですから」
編集者は続けた。
「ああ、わかってる」
香椎千里は応えた。
「じゃあ、七時半に」
「あ、ああ、七時半に」
寝返りを打つ。
真新しく白い壁に、『大道軽業師』のちいさな複製画が掛けられている。
「ピカソのこまった点はですね」
耳元で誰かがささやいた。
「他人の意見にまるで耳をかさないことなんですよ、親友のわたしの意見にすら、まったく、耳をかさないことなんですよ」
これは、いつの記憶だ?
それとも、なにかで見た? 読んだ? ニセモノの記憶か?
もういちど、寝返りを打つ。
ベッド脇のナイトテーブルに、いくつかの紙の束が置かれていた。
「わかった、そしたら読んでおくよ」
また、誰かが耳元でささやいた。
「しかし、ほんとに、私なんかでいいのかい?」
いや、これは、昨日の、私のセリフだ。
と、ここで香椎千里は、やっと、自分がどこにいるのかを想い出した。
《テンポ・ルバート石神井台》
ナイトテーブルに置かれた、ぼんやりとした、このホテルの名前が見えて来た。――“テンポ・ルバート (盗まれた時間)”?
香椎千里は、記憶をたどった。
「取材? ……パーティー?」
ここは、桜の園の翌日。
昨夜は、千葉の自宅に戻れないこともなかったが、翌日朝から都内で取材だし、同じ夜には出版社のパーティが控えている――いつものことながら、なんのパーティーかは分からなかったけれど――であるならば、
「であるならば、と頼んだのは…………、そうか、私か」
ふたたび、ナイトテーブルに目をやった。
紙の束を見つめた。
「これが、交換条件?」
そのひとつに、手を伸ばした。
どこか遠くで、天から降って来たような、なにかの弦の、切れる音がした。
(続く)




