第一話:ときを見た少年(後編)
*
『神よ、願わくば私に、
変えることの出来ないものを、
受け入れるための落ち着きと、
変えることの出来るものを、
変えていくためのゆうきと、
そうしてなにより、
変えられぬものと、
変えるべきものを、
常に見分けられる賢明さを、
どうか、どうかお与えください。』
*
「ミスター?」それから三十分ほどがしてわたしは、こう彼に声をかけました。「どうしたの? はやく行きましょうよ」
というのも突然、地下二階のエレベーターホールで彼が、壁の額を見つめたまま動かなくなったからだったんだけど、
「ほんとうにここでいいの?」続けてわたしは訊きながら、彼の手にある石板――ほんとの意味での“タブレット”ね――をのぞき込んだんです。「その“かなしい時間に立ち会うひと”がいるのって」
すると彼は、「あ、ああ、すまない」ってわたしの目線のたかさにしゃがみ込みながら、「あくまでこれは、大まかな所までしか分からないんだよ」と、壁の額から目をはなしつつ応える。「本人のときもあれば、関係者のときもあるしね」
ミスター曰く、この石板とデジタル時計は連動しているらしく、それで、目的のひとがいそうな所までナビしてくれるらしいんだけど、
「でも、この階、プールしかないし、もうだれもいないんじゃない?」とわたし。
夜もけっこう遅かったし、ライトもほとんど消えてたからなんですけど、するとそこに、
「すみません、いいですか?」
って突然、外国の男のひとが、エレベーターに乗ろうと、わたしたちのうしろを横切ろうとしたの。
「きゃっ」
って、驚いたわたしがふり返ると、そこには、ミスターとはちがう白いバスローブを着た男のひとが、おなじ色のタオルをポケットに突っ込んで、ひとり立ってたんですね。
すると、そこでわたしは、ハッとなって、ミスターのほうをふり返ったんだけど、彼はちいさく指を口もとにあてて、その彼がエレベーターにはいって行くのをだまって見て待ってたんです。
そうしてそれから、動き出したエレベーターの停まる階を確認してからやっと、
「そうだね」ってミスターは応えてくれたんです。「きっと彼が、その“関係者”…………、いや、“原因”のようだね」
*
それから、彼を乗せたエレベーターは、いちどロビーで停まると、シンデレラに扮した女性を、ひとり乗せた。
女性は、無言のまま、仮装パーティーが開かれている四階で降り、彼を乗せたエレベーターは、そのあと七階にまであがった。
もちろん、その彼とシンデレラに面識はなく、ガラスの靴が落とされて行くこともなかったけれど、七階に着くと彼は、ローブのポケットから、ながほそい部屋のカギを取り出した。
そうして、へんに明るいホテルの廊下を、まるで素足で熱い砂のうえをあるくみたいに歩いて行くと彼は、七〇九号室の扉を開け、なかへとはいった。
仮装パーティーに向かった彼の恋人はまだ戻って来てなくて、でも部屋には、彼女が残した、マニキュアのにおいや、今回の旅行用に新調した仔牛皮のバッグのにおいなんかが、漂っていた。
部屋のまん中にある、ツインベッドのひとつに、彼は座った。
それから、まるでそこに、宇宙飛行士に扮した彼の恋人が、身を横たえて眠っているかのような笑顔を見せると彼は、足もとに置いておいた自身のトランクケースから、重なりあったパンツや、そのシャツのすき間から、ふるい形の、自動拳銃を取り出した。
弾倉を取り外し、またはめ込んで、撃鉄を起こす。
それから彼は、すこしだけ考えるフリをすると、ベッドの反対の端にすわり直し、まどの外を眺め、どこでもないどこか、とおい砂漠のまちを想い出しながら、その狙いを、自身の右のこめかみに――、
*
「ダメだ! ヤスコちゃん!!」ミスターが叫んで、わたしの目をふさぎ、石板のスイッチを切った。「ごめん、おそかった、見てないよね?」
うん。ってわたしは応えた。
だけど、それでも、ひざとかたは震えていたから、ミスターのローブをギュッとつかんだ。「あのひと、なんであんなことしたの?」
そう言って、彼の左腕のつけ根に、顔をうずめた。
ミスターは、しばらく無言で、石板のなかの時間をすすめていたようだけど、たぶんあれは、あのひとの恋人の悲鳴だと想うんだけど、女のひとの、ちいさな悲鳴、だけど、どんなとおくにいてもひびき伝わるような悲鳴が、石板のなかから聞こえて来て、そうして彼は、「きみたち人類は」と言って、そのなかの時間を止めた。
「たしかにきみたち人類は、集団になると、ロクでもないことをしはじめる、愚かなサルの末裔だ。 だけれど、それでもきみたち人類は、きみも含めて、本来とても善良で、希望にあふれ、どんな絶望をも、乗り越えられるちからを持っている」
それから彼は、「まだ、時間はあるよ」そう言ってわたしの肩を二・三度なでると、わたしを立たせ、わたしの顔をまっすぐ見てから、「いっしょに来て、くれないかい?」
わたしの肩を持つ彼の指さきが、震えていたのを、いまでもおぼえてるわ。
「いいわよ、ミスター」そんな彼の、ふるえる指さきを握りながら、わたしは応えた。「なにか、作戦はあるの?」
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「ただ、お話するだけ?」
さっきの石板で見た、へんに明るいホテルの廊下を歩きながら、わたしはきき返した。
「もちろん、おいしい食事といっしょにね」
そうミスターは応えた。
わたし達の手のうえには、パーティー会場から盗んで来た、大量のパンやお寿司やワインゼリーなんかが乗っていて、ミスターは、それらを落とさないよう注意しながら、
コンコン、コンコン。
と、問題の七〇九号室の扉を叩いた。だけど、
シーーーーーン。
と、部屋からもどこからもなんの反応もない。しかたがないので、
コンコン、コンコン、コンコン。
ともういちど、こんどはすこし強めに、扉を叩く。だけど、
シーーーーーーーーン。
と、これにも、どこからもなにからも、反応はない。
そこでミスターは、もっとちからを入れてドアを叩こうとしたんだけど、コーヒーゼリーが落ちそうになるのにおどろいてそれを止めると、すこし考えてから、
「ヤスコちゃん、ぼくの手をにぎって」そう言って、左手をこちらに差し出して来た。
「どうするの?」と、彼の手をにぎりながらわたしが訊くと、
「すこしの間、目をつぶって、」とミスターはこたえる。「それから、あるく」
「壁があるわ」
「壁もぼくらも、量子のゆらぎさ」
「“りょうし”?」
「いいから、目をつぶって」そうミスターは続け、「ぼくを信じて」
わたしは目をつぶり、彼を信じて、何歩かあるいた。
「いいって言うまで、目を開けちゃダメだよ」
途中、壁があるはずのところで、からだがぶるぶるっていうか、なんだか、かみなり前の雲みたいな感じになって、
「いいよ、目を開けて」って彼が言ったときには、そこはもうお部屋のなかだった。
「どうやったの?」おどろいてわたしが叫ぶと彼は、
シーッ。
って、口に指を当ててから、そのままその指を、部屋のまん中、さっきのツインベッドの片方へと向けた。――「彼だ」
おんなの人のマニキュアと、仔牛皮のバッグのにおいが、なんだかやけに、いやに鼻についた。
*
それからの数時間――と言っても、これもあとで猪熊先生のマンガで知ったんだけど、このときミスターは、タイムバブルって秘密道具で部屋全体をおおっていて、その部屋の時の流れを遅らせていたらしいんですね。
そうそう。
だから、その中にいたわたし達には、数時間に感じられたその時間も、実際には、二・三十分ほどしか経っていなかったわけなんですね。
わけなんですけど、それでもまあ、その二・三十分の数時間、ミスターは、ときに優しく、ときに激しく、彼に自殺を止めるよう説得していたんです。していたんですけど――、
*
「そうやって、やっと届いたほしのかけらたちから生命がうまれ、君たちみたいな人類に進化するのに、どれほどの奇跡が必要だと想う? そう。それはたとえば、アミノ酸百個からなるタンパク質があったとして、それをひとつ作るのに必要な分子は十の百三十乗――きみ達は、そんな奇跡的な確率のうえに、いま、こうして、ここで生きているんだよ?」
とか、
「未来は可能性にあふれている! きょう仮に死んでしまいたいと想っても、明日ものすごくよいことが起きるとしたら? あさ、目が覚めたら、とてもきれいな朝日が、昇っているかも知れないじゃないか!」
とか、
「ああ、もういいさ! ここまで言ってもダメだってんなら、もう止めやしないさ!! だけど最後に! どうしても死にたいってんなら!! ぼくを倒してからにしろ!!!」
みたいな感じで。
最後の方では、いまにも相手に殴りかかりそうなミスターだったけれど、問題の相手は、聞いているのかいないのか、片手に拳銃と、ベッドであお向けになったまま、ずーっと、天井を見詰めてるだけだったんですね。
「あのさ……」と、つかれ果てた様子のミスター。「すこしは聞いてくれてるのかい?」窓際の椅子に腰かけながら、「ごめん、ひと休みする。声がかれちゃった」
でも、男のひとの応える様子はなかった。
「お水かなにか飲む?」とわたしは訊いて、
「ごめん、たすかるよ」とミスター。「たしか、持って来たペットボトルがリビングに」
それからわたしは、お水を取りにリビングに行って、しばらくしてもどって来たんですけど、そのときミスターは、どこかよく分からない外国のことばを使って、彼に話し掛けてたんです。
たぶん、ずっとその言葉を使ってたはずなんですけど、例のデジタル時計の、なんとかって翻訳機を切ったんでしょうね、その場で、ミスターの話している言葉を、わたしだけが、理解出来ないでいたんです。
男のひとは、ミスターの問いかけに、相変わらず言葉を発したりはしなかったけれど、何度かうなずいたりして、それから、壁の方にむかって、寝返りをうったりした。
「お水、もって来たわよ」彼のことばが途切れるのを待って、わたしは言った。
「あ、ありがとう」翻訳機のスイッチを入れながら、ミスターは応えた。
「なんで、翻訳機を切ってたの?」この質問に彼はこたえず、ただ、「いまは西暦20※※年だったんだね」って、つぶやくように言った。
「彼は、兵士だったんだよ」手に、なにか手帳のようなものを持ってた。「ある、砂漠のまちでね」
それから彼は、ギュッて唇をかむと、「愚かなサルの末裔どもが」って、怒ってるような、憐れんでいるような、そんな声で続けた。「これは、彼なりの贖罪らしい」
「“しょくざい”?」
言葉の意味が分からないでいるわたしを、わたしの肩を、ミスターはやさしく抱き寄せると、それでもきっと、きっとひとりでは抱えきれなくなったんだと想うんだけど、それでもとても、とても慎重にことばを選ぶと、わたしに、わたしにも分かるように、その砂漠のまちで起きた、そのひとが犯してしまった悲劇について、やさしく、でもウソは吐かずに、教えてくれたの。
そうして、その悲劇のなかには、わたしと同じ、九才の女の子や、弟とおなじ、五才の男の子なんかが、何人も、なんにんも、何人もなんにんも、何人もなんにんも、何人もなんにんも、含まれていて、
「ごめん、ヤスコちゃん」そう、ミスターは言ったんです。「ぼくには、彼を、止める資格がないよ」
そう言う彼の声は、とても悲しそうで、とても寂しそうで、もっとしっかり、もっとしっかり、誰かが彼を抱きしめてあげなくちゃいけない。そう想えるような、そんな声だったんです。「ぼくは、彼を、許せそうにない」
そんな声だったんですけど、だけれどそれは、同時に、
「ふざけないでよ、ミスター」って、すごくわたしを、怒らせる声でもあったわけ。「だれかが死のうとしてるときに、そんなの関係ないじゃない」
気が付いたらわたし、彼の肩を、バンバン、バンバン、叩いてたわ。
「“かなしいひとがかなしいままって、なんだかかなしいじゃないか”って、あなた、言ったじゃない。 それだけの理由で動いているんだって、あなた、言ったじゃない。 だからわたし、あなたについて来たのよ? “しょくざい”? “しかく”? あなたが彼を許せるかどうかなんて、このさい関係ないじゃない。 とめてよ、ミスター! 彼を、とめてあげてよ! ミスター!!」
って。
で……、それから後は、自分でもなにを言ったか覚えて……、おぼえていないんですけど…………、猪熊先生のマンガでもわたし、ここでセリフが終わってましたしね。
で……、でも、ただただ、ただただ、かなしくて、くやしくて、やり切れなくて、つぎからつぎへと、なみだがあふれて来て、
「ごめん、ヤスコちゃん、ごめん」
ってミスターがわたしを抱きしめてくれて、そしたらよけいに、かなしくて、くやしくて、やり切れなくて、なみだがよけいに、なみだがよけいに流れて来ちゃって、だれかが、ミスターとはちがう誰かが、おびえたような、ゆるしをこうような、そんな手の誰かが、わたしの背中を、そっと、やさしく、なでてくれて…………、そこで、目が覚めたんです。
*
いや、ほんとうはそこで、ふかい眠りに、夢もないような眠りに、落ちただけかも知れないんだけど、気が付くとそこは、五〇七号室の、わたしたち家族が泊まっていたお部屋の、窓辺に作りつけの、ソファの上だったんです。
お父さんとお母さんは、まだ戻ってなかったけど、わたしのバズ・ライトイヤーは、ベッドのうえで、あお向けになったまま、しあわせそうな顔で、寝てました。
わたしは……、わたしはまだ、ピーター・パンの格好で、手にはかじり掛けのリンゴを持っていて、それでもそのまま、弟のベッドまで行くと、彼に布団をかけてあげてから、寝巻きに着がえて、それからこんどは、自分のベッドにはいって行った。
しばらくの間、さっきのあのひとみたいに、じっと天井を見つめていたんだけど、そのうちまた、まったく想いもかけず、吸いこまれるような眠気をおぼえて、つぎに目が覚めたときには、お父さんもお母さんも、部屋にもどって来ていて、わたしのバズは、あのすがたのまま、彼のベッドで、とび跳ねていた。
ミスターが着ていた、例のおんな物のオーバーコートや、ぼろぼろの服なんかは、すっかり消えてなくなっていて、お父さんのグレーの寝巻きや、ホテルのバスローブも、なぜか一緒に消えちゃってた。
「朝食、どうする?」テレビを点けながらお父さんが訊いた。なんとかって国の神父さまが老衰でなくなって、戦闘での死者が※※※※人を超えたって、テレビのひとは言っていた。
「バイキングだー」って、弟がさけんで、「わたしはいいわ」って、お母さんは応えた。「ヤスコは? どうする?」
わたしは、ナイトテーブルに置いておいたかじり掛けのリンゴを見てから――彼、おっきな口で、かじるんですよね――わたしもいらないって返した。「ゆうべはなんだか、食べ過ぎちゃったもん」
「無限の彼方へ、」ベッドから飛び降りながら、弟がさけんだ。「さあ行くぞ!」
それから、お父さんと弟のふたりは、ふたりだけでホテルのビュッフェに行って、それからわたしたち家族は……え? なに? なんですか? …………「けっきょく、ミスターと男はどうなったのか?」?
あ、そっか、すみません。
そうですよね、そこ話さないといけませんよね。わたし、いっつもこんな感じで、編集のひとにもよく言われるんですけど……、
えーっと?
まず、男の人の方は、ミスターの説得が効いたのか、それともわたしのわがままに毒気を抜かれたのか、けっきょく、自殺は想いとどまってくれたようでした。
そうして、それから、勤めていた軍隊も辞めて――ってところまでは、猪熊先生のマンガにもありましたけど、そのあとどうなったかまでは、正直、分かりません。
ミスターの方は、それこそ猪熊先生のマンガを読んでもらうのがいちばんなんですけど、きっと、いまもどこかで、また別の、“かなしい時間に立ち会うひと”を、救っているんだと……はい? こんどはなんですか? …………「それで結局、いつになったら、その猪熊先生とやらのお話になるのか?」?
あっ!
そっか!
そうでしたよね!
これってそもそも先生の……って、ちょっと待って下さい。
えーっと? ひい、ふう、みい、よぉ……、あー、紙数もけっこうオーバーしちゃってるじゃないですか、わたし。
え? あ、どうしよう? こっから先生のお話をいれようとしても全然いれられな……え? なに? 推敲? ……推敲で文字数を減らせばいいじゃないか?
あのね、わたしですね、推敲とか書き直しとか、確定申告やブロッコリー並みに苦手でして……、
うん、そう。
だからー、うーーーーーん?
あー、そしたらー、このお話はー、このお話で一旦終わらせて頂いてー、つぎのお話。つぎのお話で、もう少し猪熊先生のお話を盛り込むよう努力しますんで…………、そんな感じでどうですかね?
うん、そう。
先生のお住みになってる町とかも紹介したいですし、つぎのお話の主人公たちも、そこにちかい場所に住んでいるんで。
(続く)