第八話:こまった時には気軽に相談、あなたの街の法律家。行政書士の石橋さん(前編:その2)
*
ふたたび、目を覚ました少年の前には、ふたたび、ぼやけて見える慣れない天井があった。
相変わらず、腰には痛みと、足にはしびれ、両手の指先にはあまりに感覚がない。
埃まみれの机のとこまで、移動したのは憶えているが、そこからの記憶もない。
自力でベッドまで戻ったのだろうか、それとも――、
「朝食のご用意が出来ております」
ここで突然、ベッドの横で声がした。
なるほど。こいつがここまで、運んでくれたのか。
「いらない」
と、こどものように返した声が、八十いくつの老人のものであることに、少年はあらためて絶望し、
「しかし、すこしはお召し上がりになりませんと」
と言う彼の執事、従僕、あるいは“悪臭を愛する者”の言葉に彼は、
「うるさい」
と、ふたたび、年老いたこどものような声で返した。
「ほっといてよ」
あたまから毛布をかぶり、悪魔に背を向けた。しかし、
「失礼ですが、旦那さま」
と、まるで耳元でささやくかのように、悪魔は続ける。
「旦那さまのご容態は、まだ、寝たきりになられるほどではありません。
時間は、まだあります。
世界中の美食をお試しになられますか?
世界中の美女をお望みですか?
映画やサーカス、お好きな物語を、お好きなだけ、お好きなように、
お見せすることも可能です。
旅行にでも向かわれますか?
自家用の船も飛行機も、すべてご用意致します」
それから悪魔は、間を置いて、
「それから、お望みとあらば、すべての国と、その栄華を、お見せすることも出来ますよ」
が、しかし、この提案に少年は、
「いらない」
とだけこたえた。
「時間を、かえしてよ」
それからもう一度、
「僕の時間を、かえしてよ」
が、しかし、この要求に件の悪魔は、
「失礼ですが、旦那さま」
とだけ言って、そして嗤った。
「それだけは、出来ない契約になっております」
*
「ありがとうな、お嬢さん」
少年姿の老人はこたえた。
それから、すこしくぐもった声で、
「しかし、どうやらこれは、」
すこしためらい、こまった口調で、
「あまりにも、不公平な取り引きだったようだ」
*
と、言うことで。(四回目)
いつもながらの急激な場面移動で、読者の皆さまどころか、じっさい移動を行なっているわたし自身も、混乱まっただ中ではありますが、こちらは、前話のラスト、わたしとミスターが猪熊先生のタイムラインに引き戻される前の、石神井公園くぬぎ広場――の、つづきであります。
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「取り引き?」
と、老人のはなす言葉の意味が分からなかったのでしょう、八千代ちゃんはそう訊き返しました。が、それにつづけて、
「でも、あと半年もないんでしょ?」
そう彼に訊きました。すると、
「医師の見たてではな」
と、少年姿の老人は応えます。
「だからこそ余計に、この時間は、もとの持ち主にかえさなければならんよ」
そう言ってから老人は、少女の方を向くと、まるでなにか、とおく、見知らぬ人たちの願いでもかぞえているかのような、彼女のひとみに、自身の記憶のちっぽけさを想い知らされでもしたのでしょうか、
「うつくしい方だ、あなたは」
と、つぶやくように言いました。
「もし、この地獄に、希望というものがあるのなら、それはきっと、お嬢さんのようなかたちをしているんだろうな」
*
「はやく! 帰ろうよー」
と、ここで突然、グラウンドの向こう側で、ちいさな男の子が、大きなミルク瓶を手に、誰かを呼んでいる声が聞こえました。
そのため少女と老人は、しばらくの間、その男の子のもとに――あれはきっと、彼のお父さんなのでしょう――まるでながい旅から帰って来たばかりの男のひとが、ゆっくり近づき、その頭をくしゃくしゃっとするまでの、ながく、みじかい間、そちらをながめていました。
そうして、それから――、
*
「たった、六十億だ」
そう言うと老人は、ゆっくりと立ち上がり、あるいて行く彼らの背中から、意識的に目をそらしつつ、
「あまりにも、世界はうつくしい」
そう言ってふたたび、少女の方を向いた。
「それを私は、たったの六十億で、あの少年からうばい取ってしまった」
それから彼女に、かるく頭を下げてから、
「きょうは、本当にたのしかったよ」
と続け、そうしてふたたび、
「ありがとうな、お嬢さん」
と言ってわらった。
「やはり、この時間は、もとの持ち主にかえさなければいかん」
が、しかし、
「でも、契約書があるんですよね?」
と、ここで突然、八千代ちゃんはつぶやきました。それまでジッと、閉じていたくちを開いて。
「そんな簡単に、元どおりに出来るのかしら?」
「いやあ、しょせんはアイツと私、それに彼の――」
と、そう言いかけて、少年姿の老人はくびを傾げます。
「なぜ……、“契約”のことを知っているんだね?」
しかし、この問いに八千代ちゃんは答えない。いや、答えられません。なので代わりに、
「あと、おじいさんは、本当にそれでいいんですか?」
と、なんの悪意もなく続けると、
ぴょんっ。
と、ベンチから立ち上がり、
「ちょっと、ここで待ってて貰えませんか?」
「え?」
「私、そーゆー契約書とかにくわしいひと知ってるんですよ」
「は?」
「この時間ならきっと、七丁目のスーパーでお買い物してるハズなんですけど――」
「スーパー?」あっけに取られた顔で老人は訊いた。「いったい、誰の話をしているんだね? お嬢さん」
すると八千代ちゃん、ながい手足でいまにもはしり出しそうなかっこうで、
「行政書士さんです」
「行政書士?」
「『こまった時には気軽に相談、あなたの街の法律家』 うちのお店によく来るんです。行政書士の、石橋さん」
(続く)