第七話:ガールフレンズ・ワンダーランド (前編)
さて。
いまからン十年前の一月、猪熊先生は、ある結婚式への招待状を受け取った。
式の日取りは同じ年の四月十八日。場所は、東京からすこし離れた、とある地方都市。
「なんでそんなところで?」
と、一瞬彼女はいぶかしんだが、それでも、花嫁のことも、花婿のことも、こどもの頃からようく知っていたので、たとえばこれが、飛んでイスタンブールだったり、ひかる砂漠でロールだったりしたとしても、行けないことはない、いや、行っておくべきだと――彼女の胸がいたんだのは事実だが――そう考えていた。
「四月になれば彼女は、きっとすてきな花嫁さんになるだろう」
が、しかし、みなさまよくご存知のとおり、われわれ物書きやマンガ家の先生たちが暮らす、この出版業界というヤツは、なかば反社会的勢力の総本山のようなところであり (*個人の見解です)、しかもそのころ先生は、子ども向けマンガ界のホープでエースで連載をいくつも抱えたしがない個人事業主で、いちおう担当の編集者 (複数)に、スケジュールの相談をしたりしてはみたものの、
「そんなことより先生! 次回はぜひ! 扉絵巻頭カラーで!!」
とか、
「初版の売れ行きがよくてー、これならすぐにー、増刷がー、かかりますよおー、サイン会開きません?」
とか、
「この前も印刷会社の専務がほめてましたよ、ここまで締め切りを守るのは、カトリーヌ・ド・猪熊先生ぐらいだって」
とか。
結婚式の「け」の字はもちろん、スケジュールの「ス」の字を出す暇もなく、とにかく、こう、雰囲気的に? 行かない、行けない、行ったら末代まで祟られる、みたいな感じに話は決着してしまったらしい。
らしいんだけど、しかし、そうは言っても、こんなときに、花嫁・花婿両名のお幸せを祈念せずにはおられないのが猪熊先生なワケで、彼女は――自身の胸のいたみは、いったんどっかにさておいて――その結婚式に合わせ、一枚のお祝いイラストと、のちに公表することになる、短編のネームを描くことに――、
*
「ヤスコちゃーん、どこー?」
と、ここで突然、先生の呼ぶ声が聞こえ、わたしはパソコンを打つ手を止めた。
「なんですかー、先生―?」
ここはいつもの、先生の仕事場マンション。前回のドタバタ&ミスターとの再会を受け、ひと晩泊めてもらったわたしなのだが、
「あら、そこにいたのね」と先生。「お仕事するなら、こんなリビングより作業部屋つかえばいいのに」
「あ、いえ、ちょっと想い出したことを書き留めてただけですんで」とわたし。ソファから立ち上がりながら、「それで? どうかしましたか?」
「ああ、そうそう」と先生。わたしのノーパソをのぞこうとするが、「ミスターが、飛ばされる前に『シグナレス』でお茶したいって」
「あ、もう、そんな時間ですか?」とわたし。ファイルを保存し、先生に見えないようパソコンを閉じると、「って、あれ?」と訊いた。「なんで彼、『シグナレス』を知ってるんですか?」
*
「まえに日本に飛ばされたとき、先生のマンガで見たんだよ。うーん、どいつもこいつも美味しそうだ」
と、いうことで。
こちらは、第三話にもちょっと出て来た喫茶店、石神井公園駅前からすこし入った? それとも離れた? ところにある、町のちいさな喫茶店、青い扉の『シグナレス』である。
ここのお店はほんとうにちいさくて、なかなかたどり着けない場所にあって、ともすれば、前をとおったはずなのに気が付いたら見落としてしまっていたような、そんなお店であるのだけれど、
地元の方々にはたいへん愛されているし、ここの壁には、このお店のおんな主人――彼女は、
「しかし社長。資産価値という意味では、この絵描きの絵にはまったく、ぜんぜん、これっぽっちも、価値はないそうです」
と、絵に資産価値以外の価値を認めないかわいそうな人たちから言われてしまうような、そんなステキな、油絵描きでもあるのだけれど――そんな彼女が描いた、とってもステキな絵やスケッチが飾られていたりするような、そんなステキなお店で、
もちろん、パンもケーキも食事もお紅茶もたいへん美味しいステキなお店なのだけれど、ここでなにより重要なのは、
「あの、赤毛の子だろ? あのマンガの主人公」
とミスターも言うとおり、このお店ってのが、猪熊先生の大人気漫画『ガールフレンズ・ワンダーランド』のメインヒロイン兼主人公、長身赤毛の佐倉八千代ちゃんがウェイトレスを務めているお店でもあって、
我々カトリーヌ・ド・猪熊ファンにとっては、特別も特別、侵されざるべき聖域にしてメッカ、誰もみな行きたがるが遥かなる世界、愛の国ガンダーラ的お店なのでもありました。
*
「ほんとに、そんなに食べるんですか?」
と、そんな我々のうっきうき気分には気付かないまま、我らが赤毛のヒロイン――八分の一くらいスコットランドの血が入ってるんだっけ?――佐倉八千代ちゃんがわたし達に訊きます。いましがたとったばかりの注文を見返しつつ、
「半分くらいにしときません? 胸やけしちゃいますよ」
お店の売り上げより、まずはお客さんの体調を心配してくれるのが、なんとも彼女らしいが、
「だいじょぶ、だいじょぶ」と、わらって返すミスター。「君たち地球人とは、身体組織も細胞構造もちがうからね」
そうしてそれから、うれしそうに自分と彼女の髪を交互に指差しては、
「それよりぼくたち、おそろだね」
そう言ってニヤニヤ笑いをくり返した――んだけど、それ、カワイイ女の子にちょっかい出すおじさんみたいだからやめて。
「だってさ、赤毛なのは事実じゃん」
「あなた嫌がってたじゃない、その赤毛」
「最初はね。でも、あれからちゃんと調べて、赤毛もいいもんだって想ったんだ。《赤毛連盟》とか、《マグダラのマリア》とか、《スペイン異端審問》とか」
「……それ、わざと言ってる?」
「なにが?」
「どうせ出すなら、ハリポタのロン君とか、イギリスのエリザベス一世とか、ほかにも色々あるじゃない」
「え? あ……、いや、リズとはいろいろあったし――」
「は? あ、あと、有名どころだったら、《赤毛のアン》とか――」
と、わたしは続けようとするが、ここで、
「あのー」と八千代ちゃん。手にしたペンとメモ帳をひらひらさせながら、「それじゃあ、これ、注文ぜんぶとおしちゃいますよ?」
「あ、ごめんなさい」とわたし。「あと、わたしにレモンティーも」
「あ、はい、了解です」と八千代ちゃん。注文を加えつつ、「まあ私も、この赤毛のせいでいろいろ言われたりもしましたけどね、それこそ、《赤毛のアン》だとか」
「あ、いや、ごめんなさい」とわたし。しまったとばかりに口もとを押さえつつ、「べつにそういうつもりはなかったんだけど」
すると、
「あ、いえ、こちらこそすみません」と八千代ちゃん。「でも、ほら、たとえば、エマちゃんとかも、この髪の色がキレイだって言ってくれてますし」そう言って、まるいお鼻をトントンとたたく。「なんか、創作意欲? が湧くとかとかなんとか――」
ちなみに。
この「エマちゃん」と言うのは、このお店のオーナーの姪御さんで、絵画が趣味の八千代ちゃんのお友だちで、なんなら今も、ここの厨房でお皿を洗ってたりするイケメン風美少女 (*諸説あり)だったりします。
するんですが、まあ、彼女の話も、し出すとやったらと長くなりますし、今回は割愛させて頂くとして、それはさておき、ここでミスター、
「ほらな?」と、なぜか得意げに自分の頭を指差します。「やっぱり赤毛だよ」
はいはい。八千代ちゃんの方がずっときれいな赤毛だけどね。
「でも、それはそれとして、」と、ここで八千代ちゃん。手元のメモを閉じながら、「それこそエマちゃんとか、そちらの方が女の人だったとき? みたいな? そういう黒髪にも、あこがれたりはしますけどね」
……え?
「うん?」とミスター。「ぼくが? なんだって?」
「はい?」と八千代ちゃん。「私、いま、なにか言いました?」
*
「なるほどね」
と、それからすこしして、八千代ちゃんが厨房にはいって行くのを確認してから、ミスターは言った。声のトーンを落とし、猪熊先生の方に身を乗り出しながら、「あれが、あの子の能力?」
「あれだけじゃないけどね」と、それに応えて猪熊先生。こちらも声のトーンを落としながら、「しかも、当人は無自覚」
わたしもマンガで読んで知ってはいましたけど、目の前でやられるとビックリしますね。
「南銀河のストラル人にも似たような種族がいるけど」と、これはミスター。「あそこまでシームレスにはいっていくのは初めて見たよ――しかも、ぼくの前のすがたを言い当てた」
「いちおうマンガの方じゃ、」と先生。なんだかこちらも自慢気に、「超感覚的知覚――ESP的能力な感じでぼやかしてはいるけど、じっさいのところ、なんで彼女があんな能力を持ってるのかはナゾ」
「しかも、無自覚・無意識にか」とミスター。鼻の頭をつかみながら、「いやはや何とも、スゴイねえ」
「それに加えて、彼女の本当の能力は、そこにはない」
「たしかに。これじゃあ、あのメフィストフェレスも、あんな目に合わされるハズだ」
「でしょう?」と言ってふたりは笑い、
「“メフィストフェレス”?」と、ふたりの会話に付いていけなくなったわたしは訊いた。「そんなお話、ありましたっけ?」
するとミスター、こちらを向いて、「うん?なんだい? 読んでないのかい?」
すると続けて先生が、「あ、そっか」と言って、口を押さえた。「そのお話は、まだマンガにしてなかったんだったわ」
「え? そうなのかい?」
「ネームにして、いまはどこかの引き出しにしまってあるはずだけど……、でも、あなたが読んだのなら、いつかどこかで描くんでしょうね」
と、まあ、先ほどのわたしの質問はさておかれ、
「いやあ、でも、あの悪魔のあわてふためきようと言ったら、傑作だったよ」
「まさか、あんな風に自分の計画がバレるとは想ってなかったでしょうしね」
「しかも、バカにしていたはずの人間たちにいいようにやられるんだから」
「で、それもこれも、彼女の本来の能力がね――」
「そうそう、そこなんだよなあ、結果としてアイツをやり込めたのはあの人、名前は忘れたけど、あの男性だけど、彼を引っぱり込んだのも結局は彼女の――」
みたいな感じで、ふたり勝手に盛り上がって行くんだけど……、ねー、置いてけぼりにしないで下さいよ。
「あ、ごめん、ヤスコちゃん」と先生は言い、「でも、これ、まだマンガにしてないし」
「いずれマンガにはなるんだからさ、それまで待ちなよ」と、ミスターは続ける。なんだかこちらを無視したまま、「そう言えば、あの子が公園でキャッチボールをするくだりだけどね――」
なので、わたしは、
「ちょっと!」と、彼の袖を引っぱりながら、「ふたりだけで盛り上がらないでって言ってるの」と、九才の女の子みたいに駄々をこねる。
すると、先ずは先生が、
「でも、そうは言ってもね」と言ってこれに応え、続けてミスターが、
「ぼくのタイム時計は修道士のコントロール下にあるし、」と、例のだっさい時計を見せながら言うのだが、「他のタイムトラベルマシンは色々故障中だし、未来のマンガを持って来るってのは――」
「あ、でも、ちょっと待って」と、ここで先生。「マンガは持って来れなくても、そこの時空に飛ばすことなら出来るわね」
…………うん?
「あー、その手があったね、よかったじゃない、ヤスコちゃん」
……は?
「うん。あ、だったら今回は、ミスターも付いて行ってあげてよ、その方が安心だし」
え?
「あー、いいよ、いいよ、ぼくも実際の場面を見たいとは想ってたんだ」
……えっ?
「それじゃあ行くわね」と、唐突に先生。「ミスター、ヤスコちゃんにつかまって」
…………えッ?! ちょ、ちょっ――、
「無限の彼方に!」わたしの肩に抱きつくミスターを待ってから、「さあいくぞ!!」
くすくすくすっ
と、いつものとおりの、時空間跳躍を発動させた。
*
さて。
たとえば、西暦2022年の一年間における、日本国内での失踪者・行方不明者の数は、警察庁に届け出・受理がされているものだけでも、延べ8万4910人におよぶ。
もちろん。
その後、そのおよそ八割ほどは、なにがしかの所在確認がされているそうなので、本当の意味で失踪・行方不明となった人の数は、だいたい1万6~7千人といったところだろう。
が、しかし、それでもこれは、一日当たり、およそ50人ほどの人間が、どこかに、しずかに、消えたままであることを示しているワケでもあり、
また、当然というか必然というか、これら失踪者・行方不明者の割合は、それを年齢層別で見ると、20歳代がもっとも多く、次いで10歳代、10歳代および20歳代の合計数は、失踪者・行方不明者全体のおよそ四割ほどを占める計算になるそうである。
で、まあ、もちろん。
彼ら彼女らの失踪・行方不明の原因については、それぞれに、それぞれの個別の事情があるのは確かだろうが、それでも彼らは、少なくとも、いまの現実における、自分たちの未来に絶望し、失望し、その将来に見切りを付けては、周囲との縁を切り、どこか、あるいはいつかへと、消えることを望み、実際に、その場から消えてしまったワケであるし、
結果見付かっていない彼らの周囲も、あまり表に出しはしないだろうし、当人たちも否定するかもしれないが、それでもそれを――彼らが静かに消えて行くことを――きっと望んでいたのだろう。
だって、そうだろ?
いやいや、隠さなくても分かっているよ。
そうでもなければ、ある日とつぜん、
ひとがひとり、消えることなどあり得はしないし、
我々のような、
悪意、あるいは悪戯を持った、
何者かが生まれ、
そちらの世界に介入することなど、
出来るハズが、
ないのだからなあ。
だろう?
愚かな、人間どもよ。
*
『少年老いやすく、
学成りがたし、
一寸の光陰、
軽んずべからず。』
*
「どうしたんですか? いきなり?」
と、少年は訊いた。
ここは、あるさびれた地方都市の、そのさびれた郊外にある、さびれた町の、さびれた古い、さびれた教会の、さびれた椅子のうえである。
この日はさびれた土曜日で、かつ、はげしい雨の降るさびれた土曜日でもあった。
が、この少年は、この町の人間ではなかった。
そうして、この少年は、安物の服とコート、それに手にした薄いバックパックに、なけなしの希望あるいは絶望を、詰め込めるだけ詰め込んで、ずぶ濡れで、雨に打たれ、そこら中で光っている稲妻から逃れるように、このうす暗い、だれもいない、さびれた古い、さびれた教会の椅子の上へと、はいり込んでいた。
「座右の銘だよ、わたしのね」
と、老人は言った。少年の質問にこたえるように。
「学問、学問、学問、の人生だったよ、わたしの人生はね」
老人は背がひくく、腰はまがり、うすい頭にまっしろな髭をたくわえ、目には分厚い眼鏡をかけていたが、身なりはよく、またよく肥えてもおり、ずぶ濡れすがたの少年と比較すれば、あきらかに、地位と名誉と財産とを手にいれた、成功者のように見えた。
が、しかし老人は、
「春も、夏も、秋も、冬も、気付かぬうちに過ぎて行ったよ、わたしの前をね」
と言って続け、
「きみがうらやましいよ」
そう言って、となりに座る少年の方へ、その老いぼれた顔を向けた。
「きっと、きみの人生には、ゆたかな未来が、待っているんだろうな」
それから老人は、教会の入り口に立つ彼の使用人あるいは召使いに、「だれも入れないように」との目くばせをひとつしてから、
「ゆたかな未来?」
と、敵意に満ちた目でこちらを向く少年の、
「この僕に? この国に? この時代に?」
と言う質問あるいは主張に、深くうなずき、納得したフリをしてから、それでも、
「それでも未来は、それがあるというだけで、ゆたかで、素晴らしいものなのだよ」
と、これから自分が犯すであろう罪を誤魔化すかのように、答えた。
「それを、あの――天にましますあのお方は、“希望”と名付けた」
「“希望……”ね」
少年は返した。まるで、老人の罪を数えるかのように。
「そりゃ、おじいさんみたいに恵まれたひとのための言葉だよ」
「そうかね?」
老人は応えた。更に何かを誤魔化すように。
「希望は、誰の身にもあるのではないかね?」
「ないね」少年は返した。「おじいさんみたいな、りっぱな、財産のあるひとの未来になら、希望もあるだろうけど」
「なるほど」老人は応えた。まるでほんとうに感心したかのように、「つまり、きみは、こう言いたいのかね?」しわがれた口に、しわがれた大きな手を当てながら。「未来も、希望も、お金次第だと?」
「そりゃそうさ」少年は返した。「お金がなければ、希望も、未来もないよ」
この言葉に老人は、またふたたび、深くうなずくと、教会の入り口に立つ彼の使用人あるいは御使いに、「交換の準備を」との目くばせをひとつしてから、
「では、どうだろうか?」と、少年に訊いた。「きみの寿命をわたしが買おう。人生をやり直したいんだ。一年を一億円。六十年を、六十億円で」
(続く)