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第六話:練馬のシルバーバック(後編)


 と、言うことで。


 先にネタバレだけしておきますと、前編でお名前の出て来た平良さん、平良絵美さんは、トモカズくんも言ってたとおり、茂木さんの幼なじみでご近所さんで、実は将来、茂木さんとご結婚される方だったりします。


 少女マンガが大好きで、絵もお上手。美術系の学校に進もうとしたこともあったらしいんだけど、ほかの勉強もよく出来たし――当人的にも想うところがあったんでしょうね――茂木さんとおなじ大学、おなじふつうの四年制大学に進学、そこそこちゃんとした会社にお勤めして、24才のときに茂木さんと結婚、お子さんをひとり授かることになります。で――、


     *


「彼女のことを好きな男子はいっぱいいたし、まわりの女の子の評判もよかったわね」


 と、先生がおっしゃるのももっともで、わたしも今回、はじめてお顔を拝見させて頂いたわけですが――、たしかにアレはカワイイですね、正統派の美少女って感じで。


「でしょう?」と、なぜだかほこらしげに先生。「親切でやさしくて、だけどけっこう、頑固なところもあったりして」


 あー、たしかに。温厚そうな笑顔のしたに、いっぽん芯のとおった感じもありましたね。


「コウさんとおなじ学年――私のひとつ上ね――で、ほんと頼れるお姉さんって感じだったんだけど……、って、ヤスコちゃんいまどこ?」


 平良さんのお家の屋根裏です。絵美さんのお部屋のちょうど真上で、サークルの皆さんが集まるのを待ってるところ。


「あー、はいはい、そしたらすこし時間を進めて、私が来たあたりまで飛ばしましょうか? たぶん、まだまだかかるんで」


 え? あ、はい、じゃあ、お願いします。


「オッケー、じゃあ行くわよ」


 くすくすくすっ


 と、先生がわらって、またふたたび、時間と空間――あ、いや、場所はそのままだから、時間だけが切り替わった。


「どう?」と先生が訊いて、


「あ、はい、大丈夫そうです」とわたしは応えた。


 そうして、それからわたしは、部屋の様子をのぞいてみようと、そのままそこにしゃがみ込んだのだが、その拍子に、


 ぽきっ


 と、運動不足のひだりひざが鳴り、


 やばっ


 と、わたしは想い、


 気付かれちゃったかな……、


 と、わたしは、天井のすき間から絵美さんのお部屋を見下ろした。見下ろしたのだが――、


「ねえ、どうする?」


「わたしたちもいく?」


「でも、まかせてって言ってたし」


 と、下の子どもたちはみな、なにやらちょっとざわついた感じで、わたしのひざの鳴る音など気付きもしていない様子であった。すると、


「いいの? 茂木さん?」


 と、絵美さんとはちがう、なんかフリフリレースな女の子が言った。


「あのヤワラって子、あの“イノクマ・タケシ”の妹なんでしょ?」


 なんか、先生もまだ来ていないし、さっきいたはずの絵美さんのすがたも、いまは見えない。


「うちの弟も、あのタケシのチームには泣かされたって言ってたし」


 と、こちらはまた別の、大きなアームカバーとベレー帽の女の子。


「絵美さんひとりじゃ、危ないんじゃない?」


 そう言って彼女は、部屋の中央に置かれたテーブルから立ち上がろうとするが、


「だいじょうぶだよ、イズミさん」


 と、同じテーブルにいた茂木さんに、その動きを止められることになる。


「お兄さんが、ちょっと風変わりだってのは、僕も聞いてるけどさ」


 と、つとめて明るい声になるように茂木さん。


「ヤワラちゃんはいい子だよ」


 と、こんどはフリフリレースの方を向きながら言う。


「僕を信用してよ、ヤマトさん」


 すると、フリフリレースのヤマトさん、


「まあ、」と言ってベレー帽の方を向きながら、「茂木さんがそう言うなら……」


 そう応えるが、ベレー帽のイズミさんは、いまだなにやら不満げな様子で、


「でも、急にだまってとび出していくってのは、どうかと想うわ」


 そう言ってふたたび机から立ち上がろうとする。


「絵美さんになにかあってもこまるし、やっぱり私も――」


 するのだが――、


「絵美ちゃんなら、大丈夫だよ」


 と、ここで茂木さん。笑顔と口調は穏やかだが、その下にははっきりと、彼女たちを抑えようとする意志が感じられる。


「彼女に、まかせておこうよ」


 そのため彼らは、皆がみな、所定の位置へともどって行くと、そのままだまって、各々の原稿の続きへと取りかかるのだが…………って、先生ー、すみませーん。


     *


「うーん? なにー?」と、こちら、仕事場マンションの猪熊先生。


 これ、なんか時間まちがってませんか?


「え?」そう言ってこちらを向く。「いま、そこ、私が部屋に来たところじゃないの?」


 あ、いえ、茂木さんと他の女の子ふたりが、部屋を出て行った先生と絵美さんについて、なんか色々はなしてるところでした。


「え? あら? そうなの?」と先生。「献立のこと考えてたら、ちょっと進め過ぎちゃったみたいね、ごめんなさい」


 そう言われてよくよく見ると、なにやら台所で大根の皮をむいているようなのだが――、もう、これ、いま、いったいどんな状況なんですか?


「ああ、それね、」と続けて先生。持ってた包丁を台のうえに置くと、


「かんしゃく起こした……って言うか、そこにいるのがツラくなった私が、とつぜん部屋を飛び出して行ったのよ」そう言って、鼻のあたまをカリコリと掻く。


 いるのがツラいって、やっぱ茂木さんと絵美さんの仲を嫉妬してってことですか?


「え? それはちがうって、前編でも言ったでしょ?」


 うーん? でも、そしたらどうしましょう? おふたりはいま、どこにいるんですか?


「たぶん、そのお家のお庭か、ちかくの路地とかじゃなかったかしら? 泣いてたからよくおぼえてないんだけど」


 ってことは、この屋根裏からだと探せませんね。


「ああ、そうね。そしたら外に出してあげるからさ、そこで探してみてよ」


 え? あー、はい、それじゃあ、そうしてみますか――ってか、先生、その前に。


「なに?」


 さっき茂木さん、女の子たちから先生のことかばってたんですけど、なんか、こう、ちょっと、カッコよかったですよ。


「え? そうなの?」と先生。すこし照れながら、「もの腰やわらかだけど、それでもピシッて言う感じ?」


 そうそう。「ヤワラちゃんはいい子だよ」とか、サラッと言っちゃいますしね。


「え? ほんとに?」


 ほんとほんと、やっぱいい男は、こどもの頃からいい男ですね。


「でしょー?」


 あの、ふつうにピシッと言うところとか、最高っスね。


「ねー、ほんと、そういうところがねー」と、先生。さらに口もとをゆるめそうになるが、しかし、それでもしかし、そこで言葉を切ると、


「ま、それも、」と、つぶやくように言った。「絵美さんを信用してのことなんだけどね」


 え? なにか言いました?


「別になにも」と、ふたたび包丁を手に取る先生。「ほらほら、外に出してあげるからさ、さっさとふたりを探してあげてよ」


 あ、はい、じゃあ今度こそ。よろしくお願いします。


「うん。じゃあ、いくわよ」


 くすくすくすっ


 と、ふたたび先生がわらい、わたしは、絵美さんちの屋根裏から、その屋根の上へと…………って先生! こっ! こっ! こっ! ここっ! ここっ! 屋根! 屋根! 屋根のうえ!!


「ええ、そこからなら、まわりがよく見えるでしょ?」


 わたッ! わたッ! わたしッ! こっ! こっ! 高所ッ! 高所ッ!! 高所恐怖症ッッッ!!!


「え?! そうなの」


 そうなんですよ!!! 子どものころ空から落ちる夢を見てそれ以来――、


「ご、ごめんなさい、そしたら――」


 あ、は、は、はい、お、落ち、落ち着いて、や、やす、泰子、お、おち、おち、おち、落ちることは、な、な……、先生! はやくおろして!


「う、うん、ごめん、すぐおろしてあげるから――」


 は、は、はや、はや、はやくッ! おろして…………って、って、って! って! ちょっ、ちょっ、ちょっと待った! 先生!!


「なに? みつかったの? 私と絵美さん」


 あ、いえ、おふたりも見つけましたけど……、それとは別に、それよりずっとマズいひとも見つけてしまいました……、


「……だれ?」


 ……タケシさんです。


「お兄ちゃんが?!」


 なんか、肩いからせて、こちらの、絵美さんのお宅に、向かって来ているところなんですけど……、


「ウソ?!」


 ど、ど、どうしましょう?


「トモカズさんは?!」


 あっ! なんか必死でお兄さんを止め…………てないですね。すっごいいきおいで地面ひきずられています。


「もう……、ごめん、ヤスコちゃん」


 ……はい?


「お兄ちゃんを止めて」


 ムーリムリムリムリ、ムリですって、先生。 アレ、なんか、暴走するゴリラみたいになってますから!!


「いいからッ! 私が泣いてるところでも見られたら、たいへんなことになるわ」


 ……たいへんなこと?


「いま、私といっしょにいるのは絵美さんでしょ? 彼女に万が一のことでもあったら、それこそ取り返しが付かないわ」


 で、でも、さすがに女の子に手は――、


「うちの! 兄を! あまくみないで!! 飛ばすわよ!」


 え、ちょ、わたしもかよわい、女の――、


 くすくすくすっ


     *


 と、ここで、本日何度目になるか分からない先生のわらい声がして、わたしはタケシさん (と、彼に引きずられるトモカズくん)の前にいた。


「もう……、冗談でしょ……」


 先ほどわたしは、彼のことを、「暴走するゴリラみたい」と書いたが、正面から見るタケシさんは、どちらかと言うと、闘牛用のウシかアメリカバイソンにちかい。


「タケシくん! 止まりなさい!」


 わたしは叫び、直後、


「いや、ムリだろ、これ」


 と想った。


 彼は、突進していた。


 目を見開き、すさまじい形相で。


 いとしい妹がいるであろう場所へ、


 まっしぐらに。


「妹を泣かすやつは、ただじゃあおかねえ」


 と、なにかしらの直観、天啓、兄妹のきずな的なものが働いたのだろうか彼は、とおく、見えない場所にいるはずの、猪熊先生の困難に、気付いている様子であった。


 きっと、天使や悪魔の軍団を前にしても、彼はこうして、先生の下へと向かおうとするのだろう。


「タケシさん……」


 わたしはすこしく感動をおぼえ、


「ごめん、正直、目がこわい」


 と、それ以上の、身の危険をも感じた。


 きっと彼の目には、こんなオバ――きれいなお姉さまの姿など見えてはいないはずだ。


「お姉さん! よけて!!」


 泥まみれ砂まみれのトモカズくんが叫ぶ。


 わたしは横に一歩ずれ、タケシさんをかわした。


 闘牛のマタドールよろしく両手を天に向ける。


「タケシくん! 止まりなさい!!」


 ふたたびわたしは叫び、直後ふたたび、


「いや、ムリだろ、これ」


 と想った。


 彼は大きく、強く、つかまるトモカズさんをふり落とそうともしないまま、そのままの勢いで歩いて行く。


 まさか本当に絵美さんに手を出すことはないだろうが、ただでさえ悪評の絶えない彼が、こんな格好で彼女たちの前に立ちでもしたら、それだけで絵美さんと先生の友情は壊され――、いや始まりもしないかも知れない…………、って、あれ?


 と、突然、わたしは妙な気分になった。


 たび重なる時空間跳躍で感覚がにぶくなっていたのだろうか、それとも…………、って、そもそも、これ、なんか時空がゆがんでない?


 と、わたしがそれに気付いた瞬間、


 ドンッ!


 と、こんどは突然、うしろの方で、なにかの地面に落ちる音がした。


「いっててててて」


 ふり返ると、そこには赤毛で丸顔の青年――いや、わたしの、《ときを見た少年》――が、派手なコーラルレッドのダウンジャケットに、変な虹色のフライトキャップをかぶって、倒れているのであった。


     *


「ミスター?!」


 つい、わたしは、声を上げた。


「どうしてここに?!」


 彼は、肩にも腰にも雪が積もり、手には空になった金属製の灯油缶を持っている。まるで真冬のカナダかミネソタ辺りから飛ばされて来たような格好だが、


「いや、ノース・ダコタだよ、お嬢さん」


 とミスター。からだ中の雪を落としながら、


「……前にどこかで会ったかい?」


 するとわたしは、とたんに九才のおんなの子にもどって、


「ちょ、ちょっと、くるしいよ、お嬢さん」


 と言う彼のことばは無視して、


「ハグは大好きだけど、こんな道の真ん中で、」


 と言う彼のことばも無視して、


「なんで勝手に行っちゃったのよ?」


 と、そのまま彼を、数十年分の想いを込めて、ぎゅっと、つよく、抱き締めていた。――「さよならも言わずに」


「勝手に?」


 すると彼は、ようやく気付いてくれたのだろうか、


「ヤスコちゃん?」


 そう言ってわたしの肩をつかみ、すこしく距離を取ってから、


「きみかい? 僕のかわいいピーター・パン?」


「そうよ!」


 とわたし。彼に顔をよく見せながら、


「先生のマンガで読んではいたけど、わたし、ずっとあなたが心配で――」


 そう続けようとして、ここでわたしは、ふたたび、妙な気分に襲われることになる。そうして――、


     *


 先生?


 と、上石神井の猪熊先生に向かって声をかけた。


 これ、なんか変じゃありません?


 すると、


「私もびっくりしたわ」と、料理の手をとめながら先生は返した。


 先生が呼んだんじゃないんですか?


「ミスターについては無理よ、こっちから連絡の取れるようなひとじゃないもの」


 え? でも、じゃあ、これって、ほんとにただの偶――、


 と、ここで、そんなわたしの言葉をさえぎるように、


     *


「お、おねえさーん!」


 と、ひき続きタケシさんに引き摺られたかたちのトモカズくんが、


「た、たすけてーー」


 と、こちらに助けを求めて来た。――そうね、ごめん、すっかり忘れてたわ。


 すると、ここでミスターが、


「なんだい? あの“どこも変でないけもの”みたいな子は?」と、わたしの肩に分厚い防寒用手袋を乗せながら訊いた。「なにか、手伝った方がいい感じ?」


 そうね、彼ならなんとか出来るかも。


「お願いミスター」とわたし。「猪熊先生の未来――じゃなかった、現在に関わることなの」彼の方に向きなおりつつ、「なんとかあの子を、止めてくれない?」


「猪熊先生?」と、ミスター。なにやらコンマ数秒ほど考え込むと、「うん、なら、ちょうどよかった」胸のあたりをゴソゴソさせつつ、「ちょうど、試してみたかったんだ」


 そう言ってから、ほほ笑んだ。


「“タンク・サブシスト・パルクラ・エス”」


 すると、とつぜん――、


     *


 不意に、


 四秒程度、


 と、止まったときを数えるのも妙な話だけれど、


 ミスター以外の、


 時が、


 止まった。


 そうして、


 それから、


 彼は――、


     *


「よっこいしょ」


 と、トモカズくんをタケシさんからひき離すと、


「これが、先生のお兄さん?」


 と、ポケットいっぱいのヒナギクをタケシさんに挿し、


「あんま、似てないんだね」


 と、彼をちかくの電信柱まで移動させたところで、


「ってか、重いな、この子」


 ふたたびとつぜん――、


     *


 今度も、


 不意に、


 ミスター以外の、


 時も、


 動き出した。


     *


 そうしてそのため、


 ごっちん。


 というにぶい音が、練馬の空にひびき渡り、タケシさんは電信柱へと激突、もんどりうって地面にたおれることになった。


 そうしてそのため――、


     *


 ごっちん。


 と、どこからかともなく、ナニカとナニカのぶつかり合う音がして、子ども時代の先生と、彼女の話を聞きに来ていた絵美さんの会話を止めた。


 ただ、このときの会話は、会話とは言っても、先生の方は、自分の不機嫌をことばに出来ず、ムスッとしたまま、


「でも、」とか、


「だって私は、」とか、


 それこそ、絵美さんにも背を向けたまま、だけれどそれでも、声になみだが混じらないよう注意をしながら、その気持ちの断片を、くり返し、くり返し、くり返していただけだったし、絵美さんも絵美さんで、そんな先生に対して、


「うん、」とか、


「でもね、猪熊さん、」とか、


 そんな、会話の糸口すら見つけられない応答をくり返すだけの、そんな会話であったので、このとき、どこからともなく聞こえて来た、


 ごっちん。


 という、ナニカとナニカのぶつかり合う音は、彼女たちにとって、なにがしかの、“福音”あるいは“両手の鳴る音”のようなものであった。


「なにかしら、いまの?」


 絵美さんはつぶやき、


 くすっ。


 と、子ども時代の先生はわらった。


「なに?」


 そう絵美さんは聞き、


「お兄ちゃんがね」


 と、先生は応えた。


 すこし、なみだが声に混じってしまいそうだったが、それは気にせず、あかるい声で、


「お兄ちゃんがね、お母さんになぐられるとき、あんな音がするの」


 すこし、間が流れた。


 子ども時代の先生――いや、イノクマ・ヤワラちゃんは――こんなことを話すと怖がられるのかも、と、言ってから気付いた。だけど、


 くすくすくすっ


 と、子ども時代の絵美さんもわらった。


 壁が、くずれた。


「それほんと?」絵美さんが訊いた。「いまの、すっごく大きな音だったわよ?」


「ほんとほんと、」ヤワラちゃんは応えた。「いっつもわるいことばかりしてるから、「私の手がもたないよ」ってお母さんが困ってるの」


 すると、このときのお母さんのモノマネがよほど面白かったのだろうか、


 くすくすくすっ


 と、絵美さんはわらい、


 あはははははっ


 と、ヤワラちゃんもわらい、


 くすくすくすくすっ


 と、上石神井の猪熊先生もわらった。


 そうして――、


     *


「けっきょく、なにが原因だったんですか?」そう、わたしは訊いた。「絵美さんへの嫉妬が原因じゃないとして」


 ここはふたたび、時間と空間がやたらめったら切り替わった後の、猪熊先生の仕事場マンション。その台所でわたしは、先生お手製の 《蒸し鶏肉のトマト大根おろし添え》を盛り付けているところである。


 であるが、


「お、こいつは美味しそうだ」


 と、いきなりミスターが、わたしの背中ごしに手を伸ばして来たので、


 ぺシッ


 と、右手でその手をはたいてやった。


「テーブルのほうで待ってなさい」食い意地がはってるのは相変わらずなんだから、「ちゃんと手はあらった?」


「洗ったよ、ヤスコちゃん」と、変なおどりを踊りながらのミスター。


「ほんと? なんかまだちょっと灯油くさいわよ」


「そうかい?」両手のにおいを嗅ぎながら、「これでもゴシゴシ洗ったんだよ」そう言ってテーブルに向かうミスターだが、「なんだか口うるさいおばさんみたいだな」


「なっ!」とわたし。「年ごろ (?)の女性に向かってなにを!!」


 と、おこってそちらをふり向こうとしたが、まるでそれに合わせるかのように、


 くすくすくすっ


 と、猪熊先生がわらって――、


「――って、ちょっと待ってください、猪熊先生」そう言って彼女を止めるわたし。「さすがに今日は、打ち止めにしてくださいよ」


「え? あら、ごめんなさい」と先生。大根皮のキンピラをお皿に移しつつ、「ついついおかしくなっちゃって」


「ただでさえ字数オーバーしてますし、そろそろまとめに入らないと」


「え? あー、そうなの? じゃあ、」そう言ってキンピラをテーブルへと運ぶ。「……でも結局、なんの話してたんだっけ?」


「えーっとですね、」とこれは、三人分のごはんをよそおいながらのわたし。「結局、なにがヤワラちゃんをあんなにすねさせたのか? そこがよく分からないままなんですよね、実際」


 すると先生は、「ああ、それはね」となにかことばを言いかけたのだけれど、そのことばは、


「嫉妬だろ?」と、勝手にミスターが引き抜くことになった。「絵美さんや、他のひと達への嫉妬」


「でも、それはちがうって先生が」


「嫉妬の種類がちがうんだよ、ヤスコちゃん」と、ミスター。わたしからごはんを受け取りながら、「だよね? “カトリーヌ・ド・猪熊”先生?」


 そう言って彼女の方を見る。すると先生は、


「そうね」と言って席に着き、この質問に答えてくれることになる。「いま考えると、ほんとバカバカしい話なんだけど――」


 しずかに、まじめに、すこし、はずかしそうに。


     *


「はじめて行ったマンガサークルで、みんなのマンガを見せてもらった。


 それを見て私は、絵は得意だったし、自分でも描けるような気がした。


 すごいのを描いて、みんなをおどろかせて、コウさんにもほめてもらおう、と想った。


 だけど、描きはじめてすぐに、がくぜんとなった。


 ぜんぜん、描けなかった。


 いや、それっぽいものなら描けた。


 でも、ぜんぜんマンガになっていなかった。


 なんどもなんども、描いては消し、消しては描いてをくり返してみた。


 だけど、みんなみたいに、とくに絵美さんみたいに上手には、マンガを描くことが出来なかった。


 だから、くやしかった。


 くやしくて、嫉妬した。


 そうして、嫉妬している自分に気づいて、そんな自分が、とてもはずかしい人間のような気がした。

それも、くやしかった。


 くやしくて、とてもなさけなかった。


 はじめて描いて、ちゃんとしたものが描けるワケがないのに、そんなことも分からなかった自分が、くやしくて、はずかしかった。


 描いては消し、消しては描いてを、なんどもなんども、くり返した。


 だけど、それでも、なんどくり返しても、じぶんの望んだマンガにならないことが、くやしくて、くやしくて、しかたがなかった。


 次の、日曜日になった。


 だけど、私のマンガは、まだまだ、ぜんぜん、マンガになっていなかった。


 その、マンガになっていないナニカを、きっと笑われるであろうナニカを、みんなに見せなくちゃいけないのが、つらくて、つらくて、なさけなかった。


 でも、それ以上になさけなかったのは、その日のサークルで、みんなに、ただただ、


「マンガの描き方を、教えてください」


 って言えない自分が、なさけなくて、くやしくて、はずかしかった。


 だまって、したを向いて、原稿をカバンから出そうともしなかった。


 そうして、気付いたら、おこって部屋を飛び出しちゃってた」


     *


 ふーっ


 と、ここで先生は言葉を切ると、テーブルのお茶を、ひとくち飲んだ。


「それで?」と、わたしは訊いた。「それで、どうなったんですか?」


 すると、


 えっ?


 と不思議そうな顔で、彼女がわたし達を見た。――あなた達、見てたじゃない。


     *


「とつぜん、みょうな、へんな、ナニカとナニカのぶつかり合う音がして、私と絵美さんは、お友だちになった。


 そうして私は彼女から、もちろん他のみんなから、マンガの描き方を、教えてもらった。


 お話の作り方、セリフの選び方、コマの割り方、道具の買い方、つかい方、お手入れの仕方、消しゴムのかけ方、ベタの塗り方、アミカケ、定規、集中線――分からないことがあれば、みんなで調べて、それでも分からなければ、知っていそうなひとのところに行った。


「すみません、〇〇について教えてください!」


 あのサークルで教わったいちばんのことは、それ。


 私がこのお仕事でいちばん大切にしていることも、それ。


 あれから、あのサークルのひとたちとも、すっかり疎遠になっちゃったけれど、それでも私は、あれからあとも、あれからずっと、いろんなひとたち、死んじゃったひとや、会ったこともないひとたち、きっと一生、会わないでいるであろうひとたちもふくめた、いろんなひとたちから、マンガの描き方を教わり、いまも、こうやって、教わり続け――」


     *


 グーッ


 と、ここで突然、ミスターのおなかが鳴った。


「あら、ごめんなさい」と、先生がわらった。「年を取ると、話がながくなっていけないわね」


「ごめん、先生」と、ミスターもあやまった。「鳴らすつもりはなかったんだけど」


 だけど――、


 グッ、グーッ


 と、ふたたび、悪びれもせず、彼のおなかは鳴った。


「ごめん、先生」ミスターが言い、


 クスクスクスッ


 と、先生がわらった。


 鼻のあたまをかきながら、


「それじゃあ、頂きましょうか」


 そう言って、


 パンッ


 と、両手の鳴る音が聞こえた。


「はい、いただきます」



(続く)

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