第一話:ときを見た少年(前編)
うん。
それじゃあ今回は、カトリーヌ・ド・猪熊先生のお話をしたいと想います。
ご存知の方も多いとは想うけど、私の住む東石神井の町と、猪熊先生がお住まいになっている上石神井の町とは、川と駅と公園をはさんで……え? なに? なんですか? …………カトリーヌ・ド・猪熊を知らない?!
え? うそ? 『とってもトレビアン』とか『虹のエリーゼ』とか『ガールフレンズ・ワンダーランド』とかの猪熊先生ですよ? …………知らない?
え? じゃあ、『黒猫アドリアン』とか『鉄腕ダーク』シリーズは? ……これも知らない?
え? マンガとか、あんま読まない感じなんですか?
はあ……、はあ……、あー、でも、まー、じゃあ、しょうがないのかなあ…………『星の下、国境の上』は?
短編だけど、けっこう有名な漫画賞を獲っていて、海外で映画化されたこともある傑作……、なんだけど…………、「名前は聞いたことあるが、マンガも映画も見たことない」? あんな名作を? もったいない。
えーっと? だったらあ…………、どうしようかなあ?
あ、そだ、そしたらですね、昨年刊行が開始された、『カトリーヌ・ド・猪熊大全集』の第一期全三十三巻をお貸ししますんで、まずは最初に、それだけでも読んで頂いて……、って、あー、でもそれだと、『ときを見た少年』の大長編シリーズが抜けちゃうのか…………大長編だけ単行本で渡すんでもいいですか?
え? あ、いえ、大長編だけだったらそんなにはないですよ、いま出てるのは二十四巻までで…………多い?
でも、マンガだし。
大長編は、一冊30分で読めるとして、全集の方も一冊につきコミックス一.八冊分がはいっている計算ですから、土日の休みを利用すれば…………多い? 「みんながみんな、休みの日を丸々マンガにつぎ込めるワケではない」? え? ふつうのひとってそうなんですか?
あー、だったらー……え? 「そもそも、マンガを読まなくても、その猪熊先生とやらのお話は出来るのではないか?」?
うーん? まー、そういう考え方もあるっちゃあるんですけど、でも、ほら、より深く物語を知って頂くためには、まずは先生のご著書を…………「それを上手く伝えるのが、貴女のお仕事なのではないか?」?
うん。
いや、まー、それを言われるとツラいんですけ…………どうしよっかなあ?
と言うのがですね、これからするお話ってのがですね、その先生のマンガの登場人物たちが、けっこう頻繁に出て来たりするお話だったりするワケですよ。
うん、そう。
生意気な双子の姉弟とか、ことばを話すボーダー・コリーとか、南太平洋で消息を絶った女飛行士と、その相棒のドラゴンとか。
だから、出来れば、彼ら彼女らのお話をきちんと知って頂いたうえでですね、お話にはいって頂いた方が、臨場感というか、共感度というかがですね、ちがうわけなんですけれども…………、だめっぽいですね。
うーん? どうしよっかなあ……、
あっ、そだ、そしたらですね、折衷案と言うか、ちょっと読みにくくなっちゃうかも知れないんですけどね、本編のお話と平行するかたちで、彼ら彼女らの物語の概要も、つどつど説明していくようにしますよ。
そうそうそう。
それならほら、臨場感も出やすいでしょうし、そうやっていくなかで、気になる登場人物とかいた場合は、その人たちのマンガを手に取って頂ければいいんで――それでどうですか?
いい?
いいですかね?
えっと、そしたらー、……どっからはじめようかな?
あっ、そうそう。
そしたらおはなしはですね、わたしが先生のマンガとはじめて出会ったときのおはなし、わたしが、大好きな『ときを見た少年』と、はじめて出会ったときのおはなしからはじめたいと想います。
うん、そう。
きっとそのほうが、先生のおはなしにもはいって行きやすいでしょうし、きっと皆さんも、彼のことを気にいってくれると想うんですよ。
そうそう。
と、いうことで。
今回のおはなしは、わたしがまだ九才だったころ、あるイースターの夜のおはなしから、はじめることにしたいと想います。
*
さて。
その夜、そのホテルでは、外国からのお客さまが九十七人も出席するような、非常に盛大で、非常にさわがしい仮装パーティーが、開かれていました。
そのため、そのパーティーのフロアは、彼らが独占したような格好で、わたしの両親も、なにを想ったのか、チャールズ=ダーウィンとディヴィット=リヴィングストン博士のコスプレでそのパーティーに参加、とうぜん私たち姉弟も、そのパーティーになかば強引に参加させられることになりました。なりましたが、
「ねー、もう、もどっていい?」
と、三十分もしないうちに、わたしと弟は、そのパーティーに飽き飽きすることになり、先に五〇七号室まで戻ると、弟は、トイ・ストーリーの格好のままベッドに直行、わたしは、ピーター・パンの衣装をどうにかこうにかはぎ取ると、その日の朝に買ってもらったばかりの、マンガ雑誌を読むことにしました。
と言うのも、そのころわたしは、苅部あい先生の短編シリーズに夢中だったからなんですけど、何故かその号にはその短編シリーズが載ってなくて、わたしは、窓辺に作りつけのソファに寝っ転がりながら、なんどもなんども、雑誌をうえにしたりななめにしたりしながら、その短編を、ずーっとさがしていたんですね。
すると、突然そこに、
ジリリリリッ
って、お部屋の電話が鳴ったんです。
でも、ほら、ここはホテルのお部屋でお家じゃないし、こっちはこっちで苅部先生のマンガを探すのに忙しいし、だいたい、わたしみたいな子どもが、出てもいいのかどうかもよく分からなかったから、「はやくとまってくれないかなあ」とか想って、しばらく無視してたんですね。
そうそう。
そうなんだけど、でも、それでも全然、ベルは鳴り続けて、ベッドの上のバズ・ライトイヤーは、なんだか目を覚ましそうな雰囲気だったし、仕方がないからわたしは、
よいしょっ
とばかりに、ソファのよこのテーブルに、開いたままのマンガ雑誌を置くと、電話が鳴っているナイトテーブルの方まで歩いて行ったんです。
そうして、それから、弟が寝てるのとはちがう方のベッドに、どすん。と腰を下ろすと――たしか、八度目か九度目のベルのときだったと想うんですけど――そのまま受話器を取ったんですね。
「もしもし?」
と、電話に出るわたし。白の寝巻きだけだとはだ寒かったので、ベッドの上に置いておいた赤いカーディガンも羽織りながら、「どちらさまですか?」
すると、
「樫山さまでいらっしゃいますね?」ってホテルのひとが言って、「※※※※からお電話がはいっております」と、なんだか知らない外国の名前を出された。
なので仕方なく、
「すみません、お父さんもお母さんも、まだパーティーなんです」って言って、「またあとでかけてもらうように言ってください」って、電話を切った。
切ったんですけど、そこに、まるでそれに合わせるかのように、
バンッ!!
って、こんどは突然、窓の外で、ナニカとナニカがはげしくぶつかり合う音がして、ふり返るとそこに、ひとりの少年――って、いま想うと、もっとおおきな青年でしたけど――が、ぼろぼろの服を着て、ホテルのバルコニーに落ちて来ていたんです。
*
「だめだめ、もっと鏡をよく見せて」って、そのぼろぼろ服の青年は言いました。「この鏡、本当に本物の鏡かい?」
そうして彼は、部屋の鏡に映ったまんまる顔を、両方の手でペタペタさわると、
「ぼくの顔、こんな感じになっちゃったのかい?」
って、なんだかはじめて自分の顔を見るみたいに言うわけです。
「って、これ、赤毛かい?! あの黒髪が気に入ってたのに!!」
で、まあ、皆さますでにお気付きのとおり、この赤毛で丸顔の少年? 青年? が、猪熊先生の『ときを見た少年』――名前はなぜか、“ミスター”って言うんだけど――で、この彼は、このつい三十分ほど前まで、黒髪ロングのカッコかわいい系美少女だったらしいんですけど、その三十分ほど前――つまりそれは、連載していた雑誌が休刊になって、こっちの雑誌に移ってくる直前の回ってことなんですけど――その回の最後で、このかたちに生まれ変わってしまって、そうしてそのまま、この時空に飛ばされて来たらしいんですね。
そうそう。だから、
「しかし、なんだか肩がつるな」
って彼が言うのも仕方がなくて。
そのとき彼は、古いストロベリー・ジャムみたいなオーバーコート――えりが毛皮で、裏地もまっ赤なシルクのコート――を着ていて、これがまた、高くてよさそうなコートだったんだけど、その肩も背中も、しっかりビリッと破けてて、袖は腕に巻きつくだけだし、腰のフレアなんかも、わきの下まであがって来てたんですね。
だから、当然わたしも、
「そのコート、女ものじゃない?」
って彼に訊いたんですけど、そしたら彼は、
「え? ぼく、いま、女じゃないのかい?」
って言ってそのまま、洗面所に飛び込んで行くと…………まあ、いろいろ確かめてから、出て来たワケです。「ほんとだ、男にもどってる」
*
「しかしこれじゃあ、ミスター・デントだ」
と、それから10分ほどがして彼は言いましたが、これは、
「なんでもいいから、着るものないかい?」
っていう彼に、お父さんの寝巻きと、ホテルのバスローブを渡したからなんだけど、そのグレーの寝巻きと若草色のバスローブが、まるでその知り合いのひとみたいだったんですって。「あと、おなか空いた」
「ピーナッツならあるけど?」と、お部屋に置いてあった小袋と、「あとは食べかけのポテチ」と、弟がひと口食べてやめたヘンな味の季節限定品を渡すわたし。
だけどこれらも、よっぽどお腹が空いてたんでしょうね、
「だめ、ぜんぜん足りない」って、三十秒もしないうちに彼は食べ終わっちゃうわけ。「どうにかしてくれないかな? おなかが空いてたまらないんだ」
で、まあ、これは、後から猪熊先生のマンガで知ることになるんですけど、どうやら彼らの種族は、その生まれ変わりに莫大なエネルギーを使うらしくて――って、まあ、ふつうに考えたらそうよね――生まれ変わった直後は、とにかくお腹が空いて空いてしかたがなくなるらしいんですね。「でも、ここ、ほかに食べるものなんてないわよ?」
*
「ごめん、ヤスコちゃん、あとはあそこの、バナナもひと房もらって来て」って、お口いっぱいのチキンサンドをほおばりながらのミスター。
「ほんとよく食べるわね」で、これが、ふたたびピーターパンにもどったかっこうのわたし。「六本でいい?」
下の階の仮装パーティーは、まだまだまだまだ続いていて、しかもちょっとした帳簿上のミスとかで、五十人が五百人でもおかしくないくらいの、食事が残ってたんですね。
だから彼も、
ジャムにベーコン、
ポテトにサラダ、
ホットドッグにコーヒーゼリー、
フランスパンにクロワッサン、
ローストビーフにポークも食べて、
「洋ナシだけはやめてくれ、 汁で口がべたべたになる」
なので代わりに、目一杯のリンゴとバナナとカスタードクリームを食べてから、やっと、ここに来た理由を教えてくれることになるワケです。
*
「きょう、このホテルで、“かなしい時間に立ち会うひと”が出る」
そう言って彼は、左手に着けた、ダッサイ感じのデジタル時計をわたしに見せる。
「それが誰かは分からないし、それが何故かも分からない。それでも、そのひとを救けるのが、ぼくの役目なんだ」
くり返しになるけど、彼の名前はミスター。生まれ変わりも出来るそうだから、どうやらこの惑星のひとじゃない。
「わかい頃に故郷から逃げ出してね」
って、青年と少年のあいだみたいな顔で彼は言うけど、どうやらその生まれ変わりを何度かやったおかげで、この時すでに、五百才をいくつかこえていたようなんですね。で、
「旅の途中で、ヘンな修道士に会ってね」
と、問題のだっさいデジタル時計を着けられたらしいんだけど――それ、取れないの?
「自分じゃ取れない」
取ってもすぐに戻って来るし、
「それに、こいつがぼくを、その“かなしい時間に立ち会うひと”のところに連れて行ってくれるんだ」
だから外せないんだ、と。
で――、あっ、そうだ、ちなみに。
このときわたしが、普通に彼と会話が出来ていたのも、どうやらこのデジタル時計が関係していたらしくて、
「すこし改造して、《バベル》って自動翻訳機を組み込んでいるんだよ」
って、ことらしいです。
で、まあ、その修道士? お坊さん? とミスターが、どんな契約? 約束? をしたのかは、けっきょくよく分からなかったんだけど、それでもつまりは、その契約的なもののなかで彼は、その“かなしい時間”を回避したり、回避できなかったとしても、それに“立ち会うひと”のこころを少しでもなぐさめるための、そんな役割を、担ってるらしかったんですね。
*
「でも、それってけっきょく、本来おこることなんでしょ?」とわたしが訊くと、
「ぼくが止めないとね」そう言ってミスターは答える。「止めるのは、けっこう大変だけど」
「歴史を変えることとかにはならないの?」
「修道士曰く、『歴史に影響のないひとやことを選んでいる』らしい」
「それって、しないとどうなるの?」
「かなしいひとが、かなしいままになる」
「じゃなくて、あなたはどうなるの?」
「ぼく?」
「なにか罰が当たったりするわけ? 寿命を削られるとか、時計から電流がながれるとか」
「いや? べつになにも」
「だったら、なんでやってるの?」
「かなしいひとがかなしいままって、なんだかかなしいじゃないか」
ここまで言うと彼は、例のオーバーコートや、それまでの服といっしょにまとめておいたものの中から、これまただっさいウエストポーチを取り上げると、
「ああ、もう、ウエストもこんなに増えてるじゃないか」
って、それを腰に巻き付けながら、きっとホテルにいるであろう、“かなしい時間に立ち会うひと”を、捜し出しに行くわけなんです。
(続く)