4(完)
中学校に行く途中の道で草野くんに会った。
「おはよう」
そう声をかけると、くるりと振り向いた彼は私の顔を見て目を見開いた。
「どうしたんだ、ひどい顔だぞ」
「なんでもない」
「なんでもなくないだろ。……チョコはどうしたんだ?」
私がいつも抱えているぬいぐるみがいないことに気づいたのだろう、草野くんは不思議そうにそう言った。
「捨てた」
「はあ⁉︎ 何で」
「もう、いいの」
早く行こう、学校に遅刻しちゃう。そう言って歩き出した私はすぐに立ち止まらざるを得なくなった。私の手首を草野くんが掴んで離さないからだ。
「……なに」
彼は怒っているような、悲しんでいるような、不思議な感情の顔をしていた。
「よくないだろ」
「いいんだってば」
「よくない。家族なんだろ? ずっと一緒にいるんだって言ってたじゃないか」
「そんなの無理だよ。だってあれはぬいぐるみだもん。家族になんかなれない」
そう言って、私は草野くんの手を振り解いた。彼に背を向けて学校へ続く道を進む。
けれども、もう一度手首を掴まれてたたらを踏んだ。先ほどよりも強い力で掴まれていて、振り解くことができない。
草野くんはもうなにも言わずに無言で踵を返した。もはや抵抗する気力も湧かなくて、引っ張られるがままに草野くんの後をついていく。しばらく歩くと、ようやく彼は立ち止まった。
そこは私の住むマンションだった。
「ゴミ捨て場ってどこ?」
「え、マンションの裏だけど」
草野くんの剣幕に負けて反射的にそう返す。すると、彼は「わかった」と一つ頷いてマンションの裏へと回った。流石にここまで来れば、彼がなにをしようとしているのかわかる。
「なんでそこまでするの?」
それは純粋な疑問だった。
「ぬいぐるみが家族なんて変でしょ。草野くんだって、そんな子嫌でしょ?」
「なんで俺の気持ちを勝手に決めるんだよ。俺は別に嫌じゃないし、もし俺が嫌だとしても、小林がチョコを捨てる理由にはならないだろ」
「だって私、草野くんが好きなの」
突然の私の告白に、草野くんが目を見開いた。
「私、叔母さんと家族になりたい。クラスメイトと友達になりたい。草野くんと恋人になりたいの。そのためには、ぬいぐるみは捨てないと」
「俺、小林のこと好きだよ。でもそれは、ぬいぐるみが家族だって言う変な小林だ」
「え?」
「確かに、最初に小林を見た時、変なやつだなって思った。でも変でもいいよ。チョコの腕が取れた時、小林は本気で泣いてた。チョコにどんな服が似合うか考えたり、何時間も生地を選んだり、家庭科室で服を作ったりしてる時の小林は楽しそうで、一番輝いてた。それを見て俺は思ったんだ。ああ、この子、ぬいぐるみのこと本気で愛してるんだなって。本気で、家族だって信じてるんだなって」
「愛……」
「小林の一番大事なものを大事にしない人間なんていらないだろ。それでも欲しいって言うなら、家族にも、友達にも、恋人にも、俺がなるよ。だから自分の愛を捨てるな。ぬいぐるみを家族だって言う、変な小林のままでいてくれ」
草野くんの言葉一つ一つが私の心を満たしていって、押し出された涙が瞳から溢れて頬を伝って落ちていった。私はそれを拭うこともせず、ゆっくりと頷いた。
マンションの裏に回ると、そこには白いゴミ袋が山積みになっていた。マンション中のゴミが全てここに集まっているため、気が遠くなるほどの量だ。けれどもこの中にチョコがいるのだと思うと迷いなんてなかった。
ゴミ袋の山に突っ込み、一番手近なゴミ袋を開ける。ひっくり返すと袋の口からゴミが落ちて床に散らばった。その中にチョコの姿はない。私は手当たり次第にゴミ袋をひっくり返し、ゴミが散らばっていった。
私の隣で草野くんも同じようにゴミ袋をひっくり返す。その真剣な眼差しを見ていると、嬉しくてさらに涙が込み上げる。けれど泣いている場合ではないのだ。
私は涙を拭った後、再びチョコを探し始めた。
それからどれだけ時間が経っただろう。
「あった!」
草野くんがいきなりそう声をあげたので、私は自分の手を止めて駆け寄った。彼の手の中には、確かにチョコがいた。他のゴミの汚れがついたのかチョコレート色の柔らかな毛並みはすっかり汚れてしまっているけれど、間違いない。
「チョコ……」
『芽衣ちゃん』
草野くんが差し出してくれたチョコをぎゅっと抱きしめる。腕に柔らかな毛並みが当たって、ああ、戻ってきたと実感した。冷たくなっていた心がゆっくりと暖かくなっていくのがわかった。
「よかった……チョコ……!」
どうしてこの柔らかさを手放せたのだろう。私にずっと寄り添ってくれていたのはチョコだけだったのに。
「一度洗った方がいいな」
「そうだね。うちにチョコを洗う用の洗剤があるから、家に帰るよ。草野くんもこない?」
「じゃあお言葉に甘えてお邪魔するよ」
チョコだけじゃない、私も草野くんもすっかり汚れてしまった。これではもう今日は中学校には行けないだろう。私たちは散らかしたゴミを全て片付けたあと、二人で私の家に向かった。
私はチョコを洗うのに時間がかかるので草野くんに先にシャワーを浴びてもらう。遠慮しているのか、それとも男子ってそういうものなのかは知らないけれど、草野くんは五分ほどで出てきた。その後チョコを抱えて浴室に入る。洗面器にチョコを入れてお湯を張り、チョコのために奮発して買った洗剤をお湯に入れた。
「そうだ、チョコがいなくなったらこの洗剤も無駄になっちゃうじゃん」
『芽衣ちゃんが使えばいいのに』
「自分用だったらこんなに高いもの買わないよ。チョコ知らないでしょ、チョコ用の洗剤より私用の洗剤の方が値段が安いんだよ?」
自分で言っておいて笑いが込み上げてくる。チョコの存在がどれほど私の人生の中心になっているかを改めて思い知ったような気がした。
チョコを洗い終わり、自分もシャワーを浴びると浴室を出る。水を吸ってぐっしょりと重くなったチョコを洗濯機で脱水をした後、これまたチョコのために買ったネットにチョコを入れ、ベランダに干した。
『風が気持ちいいわね』
「そう? ならよかった」
リビングに向かうと、キッチンで料理している草野くんの後ろ姿が目に入った。
「なに作ってるの?」
横から手元を覗き込む。フライパンの上では赤く色づいたお米が踊っていて、「オムライスだ!」と言うと草野くんは「正解」と笑った。
出来上がったオムライスはとても美味しそうだった。オムライスの乗ったソファとスプーンを持ってテレビの前に座り、二人で食べながら映画を見る。
エンドロールの頃には窓の外はすっかり暗くなっていた。
「これからどうしよう」
テレビの画面を流れていく文字をぼんやりと眺めていると、ぽつりとそんな言葉が漏れ出た。草野くんがこちらに視線を向けたのがわかる。
「叔母さんが帰ってきたら、またチョコが捨てられちゃう」
もちろん、今度は抵抗するつもりだ。けれども今日のように寝ている間に奪われたらもうどうしようもない。もし遠くのゴミ捨て場に捨てられたら。私が寝ている間にチョコが燃やされてしまって、起きた時に全てが終わっていたら。考えるだけで恐ろしかった。
「家出するか?」
何言ってるの、と笑おうとして、けれども草野くんの目が真剣だったから笑えなかった。代わりにその目を見つめ返す。
「ありがとう、草野くん。そう言ってくれて嬉しい」
そっとその手を握る。手のひらに伝わる熱はひどく暖かくて、その熱さえあればなんでもできる気がした。
だから私は笑う。
「高校を卒業するまでは頑張る。だから、そしたら一緒に家を出て二人で暮らさない?」
「いや、違うだろ」
まさか否定されるとは思わなくて、私は思わず手を離してしまった。急ぎすぎただろうか。けれどもすぐに草野くんが手を伸ばして私の手を掴む。びっくりして草野くんの顔を見ると、彼はいたずらっ子のような笑みを浮かべていた。
「小林と、俺と、チョコの三人で、だろ」
「……そうだね」
ああ、好きだな。
私はそんな衝動に駆られて、そっと草野くんの唇にキスをした。
草野くんが帰った後、しばらくして家に帰ってきた叔母さんはベランダに干されたチョコを見た瞬間に目を吊り上げた。そのままチョコが入ったネットごとベランダから投げ落とそうとするものだから、私は必死に叔母さんを部屋の中に押し留めた。
叔母さんは呆れたように大きく息を吐いた後、「捨てなさいって言ったわよね」と冷たい声で言った。
「捨てられないよ。家族だもん」
「まだそんなことを言ってるの。ぬいぐるみは家族になんてなれないって何度も言ってるでしょう」
「そんなことない! お母さんとお父さんが喧嘩してる時も、二人が離婚して私がずっと家で留守番してる時も、お母さんが死んじゃって私が一人ぼっちになった時も、叔母さんが私のことを無視してきた時も、チョコはずっとそばにいてくれた」
じっと睨み合う。
「本当に変な子ね。頭おかしいんじゃないの」
「変でもいい。それが好きなんだって言ってくれる人がいるから」
しばらく睨み合った後、叔母さんはもう一度大きく息を吐いて、「もういいわ」と吐き捨てるように言った。
昨日の私なら、叔母さんにそう言われたら体を震わせて謝ったかもしれない。私はどうしても叔母さんと家族になりたかったから。家族が欲しかった、そのためには叔母さんに嫌われたくはなかった。
でももういいのだ。
変な私を受け入れてくれる人がいる。家族にも友達にも恋人にもなると言ってくれた人がいる。暖かな手のひらを差し伸べてくれる人がいる。だからもういい。
他の人のために無理をして変わる必要はないと、ようやく気づけたから。
次の日、中学校に登校すると、下駄箱の中に入っている上履きがびしょびしょに濡れていた。私はそれを引っ掴むと靴下のまま廊下を歩き出す。
教室に入ると、いつも嫌がらせをしてくるグループは真ん中に固まって談笑していた。私はつかつかと教室内を横断し、その中心の机に勢いよく上履きを叩きつける。上履きについた水が周囲に勢いよく飛び散って、彼らにかかり悲鳴が上がった。
彼らは座っていて私は立っているから、自然と見下ろす形になる。私は彼らを一人ずつ順番に見つめ、言い聞かせるように言った。
「ねえ、やめてくれない? こういうことするの」
「は? なんだよ。お前が変だから悪いんだろ」
ガタンっと椅子を倒して勢いよく立ち上がった男子生徒に睨まれ、私は負けじと睨み返した。腕の中のチョコをぎゅうっと抱きしめる。
「ぬいぐるみを持ち歩くなんて、はたから見たら変なのはわかってる。でも、私はチョコを抱いてないと安心できないの。放っておいて」
「何だよそれ、意味わかんね」
「あなたは意味わからなくてもいいよ。わかってくれる人がそばにいてくれるもの」
しばらく、私たちは睨み合った。二人の間に緊迫した空気が流れる。その空気を壊したのは、相手の男子生徒だった。
彼はチッと舌打ちした後、「つまんね」と吐き捨てるように言って教室を出て行ったのだ。他のグループのメンバーも慌ててその後を追いかける。私はその背中を見送った。
きっともう、嫌がらせはなくなるだろう。そんな予感があった。
「き、緊張した……」
無意識のうちに息を止めていたのか、ぶはっと大きく息を吐き出す。今になって鼓動が早まってきて、怖かった、という言葉が素直に口から溢れでた。
「小林」
声をかけられて振り向く。そこには草野くんが立っていたから、私は「おはよう、草野くん」と挨拶した。
「おはよう。俺も加勢しようと思ったんだけど、一人でやっちゃうんだもんな」
「ううん、草野くんはそばにいてくれたよ。だから頑張れたんだ」
そんな私の言葉に、草野くんは不思議そうに首を傾げる。私はそんな草野くんの手を握って笑った。
それから嫌がらせはぴたりとやんだ。相変わらず友達はできなかったけれど、草野くんがずっとそばにいてくれたから、私はもう友達が欲しいとは思わなくなっていた。
中学三年生になると進路について考えなければいけない。草野くんと同じ高校に進学したいと言った私に、草野くんはとある高校を提案した。
「ここ、自由な校風が売りなんだよ。在校生も個性的な人ばっかりだって噂だ」
「私も個性的だもんね」
「そう。だからピッタリだ」
その高校は私でも知っている、市内でも有数の進学校だった。テストではいつも平均点くらいの私の成績では厳しい偏差値だ。でも、草野くんと一緒に行ったオープンキャンパスで、スタッフをしていた在校生はみんなチョコを歓迎してくれた。この高校なら、と私は思ったのだ。
叔母さんに塾に行かせてくれと頼むことはできないので、私は毎日草野くんに勉強を教えてもらいながら必死に勉強をした。その甲斐あって無事志望校に合格し、二人で泣いて抱き合ったのは良い思い出だ。
そうして入学した高校は、噂通りと言うべきか、髪を染めていたりピアスを開けていたりといった派手な格好の生徒が多かった。私の前の席に座った黒田さんもそのうちの一人で、私は彼女のウェーブを描いた金髪をぼんやりと眺めていた。
すると、黒田さんがくるりと振り返って私を見たものだから驚いて、私は思わず「ひえっ」と悲鳴をあげてしまった。そんな私に黒田さんがおかしそうに吹き出す。
「ごめん、驚かせて」
「ううん。こっちこそ、驚いてごめんね」
恥ずかしくて、チョコを抱きしめる力が強くなった。草野くん以外の同級生と話すのは久しぶりだったから、どんな話をすればいいかわからなくて視線を彷徨わせる。すると、黒田さんはキラキラしたネイルが施された爪でチョコを指さした。
「その子、かわいーね」
「あ、ありがとう。チョコっていうの」
「名前も可愛いじゃん。チョコレートみたいな色だから?」
「うん」
「へえ、いいね。芽衣ちゃんもチョコとお揃いの色に髪の毛染めたら?」
「に、似合うかな」
「絶対似合うよ」
そう言って笑った黒田さんがあまりにも自然にチョコのことを受け入れてくれたものだから、私は思わず直球に聞いてしまった。
「ぬいぐるみを持ち歩いてるのって変じゃない?」
「なんで? あたしのバッグにもついてるよ、ぬいぐるみ」
そう言って彼女が見せてくれたスクールバックには、確かに小さめのぬいぐるみがいくつもついていた。その中にチョコに似たくまのぬいぐるみも見つけて、そっと手を伸ばして頭を撫でる。その柔らかな毛並みもチョコに似ていて、けれどもやっぱりどこか違った。
「それに、変だなって思ってたとしても人の好きなもの否定しないよ。この学校変なやつしかいないし、あたしだって多分どこかしら変だもん。そういうお互いの変なところを受け入れあっていくことが大切じゃない?」
涙が出そうになって、咄嗟に俯く。
私にとってその言葉がどれほど嬉しかったか、きっと黒田さんはわからないだろう。
「私、黒田さんと友達になりたいな」
涙を拭って笑いながらそう言うと、黒田さんも笑った。
「何言ってんの、もう友達じゃん」
そして笑いながらそう言うものだから、私は今度こそ泣いてしまった。
黒田さん以外の高校でできた友達もみんなチョコを受け入れてくれて、草野くんと私とチョコの三人だけだった世界は広がっていった。特にチョコは大人気で、他の学年の生徒が「かわいいくまがいると聞いて」とわざわざ教室に見にくるほどだ。チョコは私だけの友達だったのに、と嫉妬してしまうくらい。
けれども、たくさんの友達ができたことで、私は前ほどチョコに依存しなくなっていった。チョコから離れても不安な気持ちに心が支配されないようになって、一週間に一度はチョコを家で洗濯してベランダに干したまま高校に行くようになったのだ。
『芽衣ちゃんは毎日お風呂に入ってるんだから、私も一週間に一度くらい洗って欲しいわ』
とはチョコの談だ。私と草野くんにたくさんの服を作ってもらううちに、彼女はすっかりお洒落さんになったようだった。
「行ってきます」
両手でチョコを抱えて家を出る。マンションの下まで降りるとすでに待ち合わせ相手がそこにいた。
「草野くん、おはよう」
「おはよう、小林」
二人で肩を並べあって歩き出す。高校でも二人揃って手芸部に入部した私たちは、チョコの新しい服をどんなものにするかで盛り上がっていた。
電車に乗ると、他の乗客からチラチラとこちらに視線が向けられているのがわかる。私がチョコを抱えているからだろう。私はむしろ見せつけるような気持ちでチョコを抱え直した。
高校の最寄り駅に着き、駅から出ると、周りに同じ制服の人が増えていく。その中には何人か友達も混じっていて、「おはよう」と手を振ると手を振りかえしてくれた。
「チョコちゃんもおはよ!」
『おはよう』
「チョコもおはようって言ってるよ」
「そうなの? 嬉しい」
クラスメイトの女子とそんな会話を交わしていると、私の隣を歩いていた草野くんがおかしそうに吹き出した。
「人気者だな、チョコ」
「チョコは可愛いから、仕方ないね。ね? チョコ」
『ええ、そうね。なあに草野くん、嫉妬かしら?』
今度は私が吹き出す番だった。チョコの声が聞こえない草野くんは突然笑い出した私を怪訝な目で見るものだから、チョコが言った言葉を一言一句違えずに説明する。すると草野くんは拗ねたように肩をすくめた。
「嫉妬なんかしてねえよ」
「草野くんは可愛いんじゃなくてかっこいいんだもんね」
そう言うと、今度は照れたように顔を背けるものだから、やっぱり可愛いな、と私は心の中で前言撤回した。
草野くんがふと思い出したように「そうだ」と呟いて私を見る。
「なあ、前に話したこと覚えてるか?」
「うん。高校卒業したら一緒に住もうってやつでしょ」
「そう。良さげなところ何ヵ所か調べてきたから、今日の放課後小林の家行っていいか?」
「いいよ。チョコはどんなところに住みたい?」
『日当たりがいいところが良いわ』
「あー、日向ぼっこ好きだもんね」
きっといつか、チョコの声が聞こえなくなる日が来る。でもそれは私が一人ぼっちじゃなくなったことの証明だから悲しくはないだろう。寂しいけどね。
それに、チョコが私の家族であることに変わりはないから。
左手にチョコを抱えて、右手で草野くんと手を繋ぐ。右手に草野くんの手のひらの熱が伝わってくる。それに対してチョコに体温はないけれども、確かにじんわりと心が温まって、私は幸せだと笑った。