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私は叔母さんの家に引き取られることになった。
年に一度、お正月にしか会ったことのない叔母さんはあまり私に関心がないようで、私には必要最低限のことしか話しかけずこちらを見ようともしなかった。最初の数日は必死に話しかけたけれど全て無視されてなんの反応もされなかったので、私は歓迎されていないのだと諦め、チョコとだけ話すようになった。
見知らぬ街。見知らぬ小学校。一人も知っている人がいない環境は私を心細くさせ、私は片時もチョコを手放さなくなった。三十人ほどいる新しいクラスメイトたちは、毎日ぬいぐるみを抱えて登校する転校生を奇異の目で見つめた。チョコの声は私にしか聞こえないから、周りから見ると私は一人で話しているように見えるらしい。私は変な奴として扱われ、友達はできなかったけれど、それでも構わなかった。だって私にはチョコさえいればそれでいいから。
「小林さん。学校に勉強と関係ないものを持ってきてはいけませんよ」
先生は私にそう注意したけれど、チョコは勉強と関係のないものじゃなかった。だってチョコがいないと心がざわざわして、指先から体がだんだんと冷えていって、いてもたってもいられなくなる。勉強なんてできなくなっちゃう。
そう説明すると、先生は難しい顔をした後、特別にと言ってチョコと一緒にいることを許してくれた。それどころか、たまに「チョコちゃんは今なんて言ってるの?」と聞いてくれる。チョコのことを聞かれるのが嬉しくて、私は聞かれるたびに説明した。私の大切な友達のことを自慢できるのが嬉しかった。
けれども、進学した中学校ではそうはいかなかった。入学式初日、私の腕に抱えられたチョコを見て担任の先生は真っ先に注意した。クラスメイトたちは私のことを馬鹿にして、ノートを隠したり机に落書きをするような嫌がらせをしてくるようになった。けれどもそんなこと全然気にならなかった。だって私にはチョコがいるもの。チョコさえいれば私の心はいつだって凪いでいて、何事にも心が動かされることなんてない。チョコ以外どうでもよかった。チョコが私の全てだった。
だから、無理やりチョコと引き離され、チョコの腕がハサミによって切り裂かれた時。凪いでいた私の心は荒れ狂い、教室の椅子で犯人の男子の頭を殴りつけた。男子の体は勢いよく吹っ飛び、机を巻き込んで大きな音を立てて床に倒れ伏す。その衝撃で床に放り出されたチョコを拾い上げて、優しく抱きしめた。
「チョコ、チョコ、大丈夫?」
かわいそうに、腕が取れて。中の綿が見えちゃってる。痛かったでしょう。
教室の騒ぎを聞いて駆けつけた先生は、チョコを抱いて泣く私と頭から血を流して倒れる男子を見て何かを察したのか、また難しい顔をした。
男子は病院に運ばれ、私は校長室に呼び出された。しばらくすると叔母さんもやってきた。仕事中だった叔母さんは詳しいことを何も聞いていなかったらしく、事情を聞いて驚いたように目を見張った。叔母さんは私がチョコと一緒に授業を受けていることを知らなかったようだった。
「謝りなさい」
叔母さんは冷たい声でそう言った。けれども私は謝るつもりはなかった。
「いや」
「謝りなさい」
「いやよ。だってあいつがチョコの腕を切ったのよ」
「母親を亡くして精神的に不安定だからと、見逃していた私も悪かったわ。いい加減ぬいぐるみ離れしなさい。もう中学生でしょう、おもちゃは卒業しないと」
叔母さんの言っている意味がわからなかった。チョコと私が離れるなんて、そんなことありえないのに。
「おもちゃじゃないよ? チョコは私の家族だもん」
「ぬいぐるみは家族にはなれないのよ」
「なれるもん! ずっとそばにいるって約束したもん。ねえ、チョコ」
私は腕の中のチョコに語りかける。きっとチョコは言ってくれるはずだ、『もちろん、芽衣ちゃん。ずっとそばにいるわ』って。
けれど私の期待に反して、チョコは何も言わなかった。
「チョコ……?」
そっと呼びかける。返事は、ない。
「ほら、ぬいぐるみは生きてないのよ」
そんな叔母さんの言葉に耐えられなくて、私はチョコを抱き抱えたまま校長室を飛び出した。どうしよう、どうすればいい? 頭の中がいっぱいになって、息が浅くなる。私は立っていられなくなって廊下に座り込んだ。
「チョコ、どうしよう、チョコ」
何度呼びかけても声が返ってこない。私はふと、棺の中に横たわったお母さんを思い出した。魂が抜けてしまったお母さんの肌の色は白くて、冷たくて、閉じられた目は二度と開かないし話しかけても二度と声は返ってこない。永遠の別れ。それが死というものなのだと、私はよく実感していた。
もし、チョコも死んでしまったのだとしたら?
思い当たったその思考に、私は半狂乱になって泣き叫んだ。だってそんなの耐えられるはずがない。
「チョコ、チョコ……!」
腕の中のチョコの名前を何度も呼ぶ。
「チョコ、お願い、死なないで。私をひとりにしないで」
「小林」
肩を叩かれて、私はのろのろと顔を上げた。
そこにいたのは、クラスメイトの男の子だった。名前は覚えていない。彼は私の隣に座ると、「触ってもいい?」と聞いた。それがチョコのことだとすぐにわかったので、私はそっと頷いた。
彼はチョコの取れてしまった腕や体に触れたり持ち上げて様々な角度から見たりした
後、何かに納得したように頷いた。
「これなら俺、直せるよ」
「ほ、本当?」
「うん。俺、裁縫得意だから」
そう言いながら、彼は肩にかけていたカバンから小さな箱を取り出す。そこから針や糸が出てきたので、私はそれが裁縫箱だと気づいた。
彼は慣れた手つきですいすいと針を動かし、チョコの腕を体に縫い付けていった。それはまるで魔法のように鮮やかな手捌きで、私は泣くのも忘れて思わず見惚れてしまっていた。
「できた」
その声と共に糸が玉結びされ、ハサミで切られる。「はい」と手渡されたチョコの腕は、先ほどまで取れていたとは思えないくらい綺麗に元通りになっていた。
「チョコ……?」
恐る恐る名前を呼ぶ。
『なあに、芽衣ちゃん』
そんな柔らかな声が返ってきて、私はまた泣いてしまった。
「本当にありがとう! ええと……」
「草野だよ」
「草野くん。チョコを治してくれてありがとう」
「応急処置だからまた取れちゃうかもしれないけど、その時はいつでも言って」
「うん。裁縫得意なんだね」
「親が服飾関係の仕事しててね、手伝ってたら上手くなった」
「そうなんだ」
私も裁縫の勉強しようかな、と呟く。これからもチョコが怪我をしたときに私が治せるようになっておいた方がいいだろうという考えだ。
「じゃあ、うちの部活に見学に来ない?」
「え?」
「俺、手芸部員なんだ」
草野くんの提案に私は迷った。提案自体はとても魅力的だけれど、部活動に入るということはあまり気が進まなかったのだ。周囲に遠巻きにされたり嫌がらせを受けたりを繰り返すうちに私はすっかり人間関係が面倒になっていて、進んで人と関わりたくはなかった。
そんなことを草野くんに告げると、草野くんはあっけらかんと言った。
「大丈夫だよ。手芸部、俺以外全員幽霊部員だから」
それもどうなのだろうか。
なんと答えようか迷っているところで叔母さんが私を迎えにきたので、私は一旦答えを保留して家に帰ることになった。叔母さんは元の状態に戻ったチョコを見て諦めたようにため息をつき、それ以上何も言わなかった。
結局、私は手芸部に仮入部することになった。
毎週月曜日と水曜日の放課後に家庭科室で行われる手芸部の活動は、想像していたよりも楽しかった。
私はチョコの衣装作りにハマった。考えてみれば、チョコは昔私がデパートで買ってもらった時からずっと同じ服を着ている。せっかく可愛いのだからもっとおしゃれをすべきだというのに、私は全然そこに考えがいっていなかったのだ。
「チョコはどんな服がいい?」
『芽衣ちゃんとお揃いのものがいいわ』
「じゃあ緑色のワンピースにしようか」
『一番お気に入りのやつね』
「そうだよ。きっとチョコに似合う」
チョコにリクエストを聞いて、草野くんに教えてもらいながら型紙を取り、布を買い、ミシンを使って慎重に縫っていく。最初の一着はとても満足のいくような出来ではなかったけどチョコは喜んでくれたし草野くんも褒めてくれて、それがさらに私の裁縫熱に火をつけた。
草野くんの協力もあって、私の裁縫スキルはどんどん上がっていった。最初は布一枚を切って縫うだけのワンピースしか作れなかったけれど、今では制服のような複雑な作りのものだってお茶の子さいさいだ。チョコの服を収納するために買った小さなクローゼットはあっという間にいっぱいになった。
私は放課後に家庭科室で過ごすこの時間が何よりも好きになった。クラスでの嫌がらせはヒートアップしてきていて、教室で過ごす時間は苦痛でしかなかった。特に私が怪我をさせてしまった男子生徒は嫌がらせをしてくるグループの中心人物で、隙あらば私からチョコを奪おうとしてくるものだから、私は授業が終わるとすぐに逃げるように教室を飛び出して家庭科室に隠れた。
「先生に相談したら?」
その日も嫌がらせで体操服が切り裂かれてしまった。無惨に切り裂かれた体操服を縫っている私に、草野くんは眉を寄せる。
「しても、チョコを学校に連れてくるなって言われて終わりだよ」
中学校で私に話しかけてくれるのは草野くんだけだ。先生だって、私のことをあからさまに面倒くさがっていて関わろうとしない。
私は草野くんのことがすっかり好きになってしまった。だって丁寧に裁縫を教えてくれるし、チョコの声は聞こえないようだけどチョコにも話しかけてくれる。なんと住んでいる場所も近かったので、部活動が終わった後も一緒に帰った。
「草野くんは、私と仲良くしてていいの?」
「いいよ。あいつら、男が裁縫なんてとか言って馬鹿にしてきたんだ。裁縫を馬鹿にする奴らはみんな裸で過ごせばいい」
草野くんが本気でそう言うものだから、私は思わず吹き出してしまった。
『草野くんはたまに過激ね』
チョコが冷静にそう言うものだから余計に面白い。
ああ、この時間がずっと続けばいいのになと、そう思わずにはいられなかった。
だというのに。
朝起きると、隣にチョコがいなかった。
そのことに気づいた瞬間、私はベッドから飛び起きた。私はいつもチョコを抱きしめて眠りにつく。恥ずかしいことに寝相が悪いので朝起きたらチョコが腕の中にいないことはままあることだけれど、ベッドの上にも見当たらないのは初めてのことだった。
それでもこの時はまだ、床に落としてしまったのだろうと楽観視していたのだ。
けれどもチョコはどこにもいなかった。ベッドの下にも、毛布の中にも、棚の上にも、どこにも。私は焦燥感に駆られて部屋中を探し回り、引き出しからありとあらゆるものを引っ張り出し、ゴミ箱の中まで確認したけれど、チョコの姿はなかった。
「チョコ?」
名前を呼んでも、あの柔らかな声は返ってこない。
私は部屋を飛び出して、リビングに向かった。チョコとは昨日の夜、リビングで一緒に映画を見た。もしかしたらその時にリビングに置き去りにしてしまったのかもしれない。
「チョコ?」
けれどもリビングにもその姿は見当たらなかった。ソファの下にも、机の上にも、いない。
キッチン、玄関、トイレ、お風呂場。私はドタドタと足音を響かせて家の中を歩き回り、隅々を探す。けれどもどこにもいない。
思い当たるところは全て探し終えて、私はどこに行っていいかわからず地団駄を踏んだ。
「チョコ!」
名前を呼ぶ。
「チョコ!」
返事はない。
どこにもいない。
冷たい寂しさに襲われて、体を震わせる。涙がぼたぼたと落ちた。
リビングに戻ると、叔母さんが一人で朝食を食べていた。ぐちゃぐちゃに泣き腫らした私の顔を一瞥して視線を戻すおばさんに、ふと嫌な予感が湧き上がる。
「……叔母さん、チョコがいないの。どこに行ったか知らない?」
「捨てたわ」
バッサリと叔母さんはそう言った。まるで世間話をするかのような、そんな軽さで。だから、私はその言葉を咄嗟に理解することができなかった。
捨てた。捨てたって? ゴミ袋に入れて? ゴミ袋に入れられたら、捨てられたら、チョコはどうなっちゃうの。あの日の比じゃないくらいに切り刻まれる? 埋められる? 燃やされる? そうしたらチョコは死んじゃう。この世からいなくなっちゃう。
もう二度と、チョコに会えない?
頭の中で感情がぐるぐると渦巻いて何も言えずにいる私に、叔母さんは視線を向ける。
「この際はっきり言っておくけれど、あなた変よ。あんな汚いぬいぐるみにいつまで執着してるの? いいかげん大人になりなさい。ご近所さんからどんな目で見られてるかわかってるの、私まで恥ずかしい思いをするのよ」
それだけ言って、朝食を食べ終わったのか叔母さんは立ち上がった。シンクで食器を洗い水切りカゴに入れると、通勤カバンを肩にかけ玄関へと向かう。
バタンと大きな音がして扉が閉まる。私はただ立ち尽くしてその背中を見送った。
チョコを探しに行かないと。私が眠っている間にこっそり捨てたのなら、まだゴミ捨て場にいるはずだ。そう考える一方で、もう良いんじゃないか、とささやく私もいた。
このままチョコとはお別れした方が良いんじゃないか。
だって、本当はわかっていたんだ。ぬいぐるみは喋らない。ぬいぐるみとは家族になれない。友達にも、恋人にだって。だってぬいぐるみだから。あの柔らかな体の中に魂は入っていない。
いつまでこんなこと続けていられる?
本当は辛かった。叔母さんに無視されるのも、クラスメイトから嫌がらせを受けるのも。チョコさえいればいいって何度も自分に言い聞かせてきたけれど、もう限界だ。
だってチョコは抱きしめ返してくれない。ずっとそばにいるわって言ってくれたけど、それだって私の頭が勝手に作り出しただけの幻聴だ。
チョコがいないと、私は一人ぼっちだった。
だというのに、チョコといる限り、私はずっと一人ぼっちなのだ。
チョコがいなくなれば、叔母さんも私のことを無視しなくなるかもしれない。そうしたら私たちはきっと家族になれる。クラスメイトだって嫌がらせをしてこなくなるかも。そうしたら私たちはきっと友達になれる。
草野くんだって、本当はこんな私のことを気持ち悪いと思っているはずだ。でもチョコがいなくなれば、恋人になれるかも。
──あなた変よ。
叔母さんが吐き捨てるように言ったその言葉。色んな人に何度も同じ言葉を投げつけられた。
そんなこと、私が一番わかってる。
本当はずっと、柔らかな毛並みよりも暖かい手のひらを握りたかった。