2
チョコを抱きしめないと眠れない。
それに気づいたのは、小学五年生の林間学校の時だった。
流石に林間学校にまでチョコを持っていくことはできない。三日間もチョコに会えないのは寂しいけれど、私はいつも小学校に行くときと同じように、チョコをベッドに寝かせ、「行ってきます」と手を振って家を出た。
林間学校は楽しかった。私の家の周りには自然が少ないから、山に登るのも川で魚を捕まえるのも生まれて初めての経験で、見るもの全てが新鮮だった。キャンプファイヤーで食べた焼きマシュマロは美味しかったし、宿泊する旅館に備え付けられた露天風呂から見る満点の星空はとても美しかった。部屋の中で友達とするトランプも恋バナも楽しくて、時間はあっという間に過ぎていった。
消灯時間になり、先生が部屋に「もう寝なさい」と声をかけにくる。
みんなで声を合わせてそれに返事をして、それぞれの布団に潜り込んだ。
電気が消されると、部屋の中は完全な真っ暗闇になる。みんな一日中動いたことで疲れていたのか、あっという間に寝息が聞こえてきた。
それでも、いつまで経っても私は眠れなかった。
寝返りをうち、ぼんやりと天井を見上げる。家の真っ白な天井とは違う、木目調の天井。どこからか虫の鳴き声が聞こえる。それに混ざって、怒鳴り声が聞こえたような気がした。
「……チョコ」
名前を呼ぶ。
腕の中にあの柔らかさがない。
それだけで、こんなにも寂しい。
ひんやりとした空気が私を包んで、私はぶるりと体を震わせる。気を抜けば泣いてしまいそうだった。
結局私は一睡もせずに一晩を明かした。
一日中眠らなかったことなんて初めてで、頭がズキズキと痛む。旅館の朝ごはんはとても豪華だったけれど、食欲はちっとも湧かなかった。それどころか、味噌汁の匂いを嗅ぐと気持ち悪くなってくる。目の前に置かれた食膳に手をつけることなくぼんやりと眺めるだけの私に、周りの友達は心配そうな目を向けた。
「芽衣ちゃん、大丈夫? どうしたの?」
「具合悪い? 先生呼ぼうか?」
次々とかけられる声に、心配してくれているとはわかっていても返事するのすら億劫だ。
「ごめんね、あんまり食欲がなくて」
なんとかそう返す。体調が悪いわけじゃない、理由なんてはっきりしている。きっと時間が経てば大丈夫なはずだ。私はそう自分に言い聞かせていたけれど、誰かが先生に言ったのか、上座の生徒たちからは離れた場所でご飯を食べていた先生が私の後ろに立ち横から覗き込んできた。
「どうしたの?」
「昨日、全然眠れなくて」
素直にそう答えると、先生は心配そうに眉をよせる。
「そう。体調は大丈夫? 無理してない?」
「大丈夫です。ちょっと寝不足で食欲がないだけ。きっと今日の夜はたくさん眠れます」
そう言いながらも、私は眠れないだろうな、という確信があった。だって今夜もチョコがいない。
家に帰る──つまりチョコに会うことができるのは、明日だ。それまでにもう一度夜を越さないと行けない。それはとても恐ろしい事実だった。
「今日もたくさん動くから、移動中のバスの中で少しでも寝ておきなさい」
言い聞かせるような先生の声音に、私は頷きながらもきっと無理だと諦めていた。今だって頭は重いし、欠伸は出るしで、私の体が眠りたがっているのは間違いないのだ。それでもきっと、目を閉じて横になったって眠ることはできない。だって、チョコがいないから。
そう。一度チョコの不在を実感してしまえば、もうだめだった。
友達と遊んでいる時はいい。楽しくて、嬉しくて、何もかもを忘れて笑っていられる。でも、不意にひとりになった時、私の心は寂寥に囚われてしまうのだ。それは移動中の静かなバス車内だったり、トイレに一人こもった時だったりする。
「チョコ……」
あの柔らかな毛並みが恋しい。
よく考えれば、チョコと出会ってからこれほど長い間離れたのは初めてだった気がする。小学校に行く時は家で留守番させていたけれどそれでも家に帰ったらすぐに会えたし、家族で旅行に行く時は必ず連れて行っていた。
「ねえ、しりとりでもしない?」
「いいよ!」
バスの中で窓の外を眺めるのをやめ、隣に座る友達に話しかける。
一人で何も考えることがないから、余計なことを考えてしまうのだ。私は寂しさを紛らわせるために、無理矢理にでも声を張り上げ楽しいと自分に言い聞かせた。誰よりも積極的に行事に参加したし、少しでも空いた時間があると友達に話しかけた。
けれども夜になるとだめだ。消灯して布団に入り天井を見上げていると、チョコのことを思い出さずにはいられない。体は疲れ切っているのに、眠気は一向に訪れなかった。
布団の中でじっとしていると時間が経つのが遅く感じる。頭の中で数えていた羊が千匹を超えたところで、私は眠ることを諦めて立ち上がった。トイレに行こうと部屋を抜け出す。
すると、廊下でばったり先生と遭遇した。片手に懐中電灯を持っているから、どうやら見回りをしていたらしい。
「小林さん、どうしたの?」
「眠れないんです」
「そっか。今日の朝も言ってたよね? 私の友達に枕が変わると眠れないって人がいるから、小林さんもそのタイプなのかもね」
「多分、そうだと思います」
私だけじゃないのか。私は気持ちを理解してもらえたことが嬉しくて、食い気味に頷いた。
「いつも抱きしめて寝ているぬいぐるみがいて。チョコって言うんですけど、あの子がいないから眠れないんです」
「じゃあどうしようか。先生の部屋に来る? 眠くなるまでお話ししよう」
そんな先生の提案に、私は頷いた。それは願ってもない申し出だった。布団の中でじっとしているだけだと暇だったから。
私は先生の部屋に行って、二人で話をした。話をしたと言っても、主に私がチョコの話をして、先生がそれに相槌を打つ感じだったけれど。
結局、私は気を失うようにして突然眠りについたらしい。目を覚ますと、友達のいる部屋の布団の中にいた。先生が運んでくれたのだろうか。
しかし寝不足は解消されなかったらしく、朝からひどい頭痛だった。それでも私の機嫌は良かった。だって、もうすぐチョコに会えるのだから。帰りのバスの中でも、疲れて眠る同級生たちの中で窓の外を眺めながら、早くつかないかな、とそれだけを思っていた。
やがて窓の外の景色が見慣れたものになり、小学校に到着する。
林間学校は小学校のグラウンドで現地解散だ。
体育座りをしながら先生からの話を聞いていた私は、寝不足で痛む頭を抑えながらそっと周囲を見回した。まだ林間学校の興奮が冷めきっていないのだろう、目が輝いている生徒もいれば、帰りのバスで熟睡したのだろう、眠そうに瞼を擦る生徒もいる。
「お疲れ様でした。解散!」
先生のその締めの言葉を合図に、整列していた生徒たちは思い思いの方向に散らばった。保護者が迎えにきている生徒はそれぞれの保護者のもとに、このまま帰宅する生徒は門の方に。
私はといえば、確かお母さんが迎えにきてくれているはずだ。キョロキョロと視線を彷徨わせていると、「芽衣!」と私の名前を呼ぶ声がした。
「お母さん」
「おかえり! 大丈夫、怪我してない?」
心配そうに眉を寄せるお母さんに「大丈夫だよ」とおざなりに返事する。お土産話はたくさんあるが、それよりもまず一番に大事なことがあるのだ。
「早く帰ろ!」
その腕を掴んで引っ張ると、お母さんは戸惑いながらもされるがままに私の後をついてきた。
小学校から私の家までは、歩いて十分ほどかかる。いつもならあっという間に感じるその距離が、私にはとてつもなく長く感じられた。
「ただいま!」
家の中に入った瞬間、そう叫ぶのと同時に靴を脱ぎ捨てる。きちんと揃えないと後々お母さんに怒られるとわかっているから、急かす心を宥めながら靴を揃え、自室へと続く廊下を駆けた。
勢いよく部屋のドアを開ける。
ベッドの上に横たわったそのチョコレート色の毛並みが視界に入った瞬間、私は勢いもそのままにベッドの上に飛び込んだ。両手を広げ、私が飛び込んだ衝撃で跳ねた小さくて軽い体をしっかりと抱きしめる。
その柔らかな感触に、ああ、帰ってきたんだという実感が沸いた。
「ただいま、チョコ」
右手でその頭を撫で回す。そうして、その口元にそっとキスを落とした。
私たちはまるで、久しぶりの逢瀬に浮かれる恋人同士のようだった。
その日、私は三日振りによく眠ることができた。
「芽衣ちゃん」
リビングのソファに座ってチョコと一緒にテレビを見ていた私は、お母さんに名前を呼ばれて振り返った。椅子に座っていたお母さんは私をまっすぐに見つめていて、その瞳と目が合う。お母さんが緊張しているのが伝わって、私は体が強張るのを感じた。幼いながらに、今から大切なことを言われると言うのが伝わってきたからだ。
ソファーから立ち上がり、お母さんの対面にある椅子に腰掛ける。
「なに、お母さん」
お母さんは深く息を吐いた後、「あのね」と前置きをして言った。
「お母さんとお父さんね、離婚することになったの」
「……そう」
私は対して驚かなかった。だって、ずっと前からお父さんもお母さんも仲が悪かったから。毎晩のようにリビングから聞こえてきた怒鳴り声は、もう二人が喧嘩すらしなくなった今でも幻聴として私を苦しめる。お父さんはもうすっかり家に帰ってこなくなってしまって、前に会ったのがいつだったか忘れてしまったくらいだった。
それでも、悲しくないわけじゃない。心のどこかでは、また昔みたいに家族三人で旅行に行ける日が来るんじゃないかと僅かな希望を抱いていたから。私は泣き出しそうになって、ぎゅっと腕の中のチョコを抱きしめた。
それから、お母さんはパートを掛け持ちするようになった。毎日私よりも早くに家を出て、私よりも遅くに家に帰ってくる。
静まり返った部屋は常に寒くて、心が寂しさで押し潰されそうだった。
それでも、私にはチョコがいる。
私は自分の部屋ではなく、玄関にある靴箱の上にチョコを置くようにした。こうすれば、家を出るギリギリまでチョコの顔を見ることができるし、家に帰ってきてすぐにチョコに出迎えられることになる。
「ただいま、チョコ」
前までは、私が帰ってくるとお母さんが「おかえり」と笑って出迎えてくれた。けれどももう声が返ってくることはない。冷たい寂しさが胸に広がる。
『お帰りなさい』
ふと柔らかい声が耳に飛び込んできて、俯いていた私はバッと顔をあげる。けれども目の前には誰もいなかった。当然だ、だってこの家にはお母さんと私しか住んでいないし、お母さんはもうとっくに仕事に行ってしまった。
空耳だろうか。きょろきょろと辺りを見回す私の耳に、『こっちだよ、芽衣ちゃん』という声が届く。先ほどよりもはっきりとした声だった。空耳じゃ、ない。
ふと、靴箱の上に置かれたチョコと目があった。そのまんまるな瞳をそうっと覗き込む。
「もしかして、チョコ?」
『そうよ、芽衣ちゃん』
すごい、すごい、すごい! 私は興奮して力いっぱいにチョコを抱きしめた。きっと神様が私の願いを叶えてくれたのだと思った。だってずっと、チョコが話せるようになったらどれほど素敵だろうと夢見ていたのだから。
私はチョコを抱えて自分の部屋に駆け込んだ。ベッドの上に座り、チョコと向かい合う。
『小学校はどうだった?』
「あのね、漢字テストで百点をとったの。体育のかけっこでも一番だった」
『すごいわね、芽衣ちゃん』
「ふふふ、ありがとう、チョコ」
誰かに話しかけたら声が返ってくる。それが嬉しくて、私はチョコとたくさんのことを話した。ずっとお母さんに言いたくて、けれども忙しそうなお母さんの邪魔をしたくなくて我慢していたことはたくさん溜まっていたので、どれだけ話しても話題が尽きることはなかった。
その日も夜遅くに帰ってきたお母さんには、どうやらチョコの声が聞こえていないようだった。それは私にとって素晴らしいことだった。だってチョコは私だけの友達なのだから。
「ごめんね、寂しい思いをさせて」
申し訳なさそうに眉を下げたお母さんに、「大丈夫だよ」と首を横に振る。
「だって私にはチョコがいるもん」
お母さんと手を繋ぎたいと思っても、お母さんに話したいことがあっても、お母さんはいつもいない。けれど、チョコはいつだってそこにいる。手を繋ぎたいときに繋げるし、話したいときに話せる。抱きしめたいときに抱きしめられる。
私は一人ぼっちじゃない。
だから大丈夫だ。
そんな生活が一年ほど続いたある日、突然お母さんが亡くなった。交通事故だった。病院の霊安室で、ベッドに横たえられたお母さんの手をそっと握る。魂の抜けたお母さんの手はとても冷たくて、昔手を繋いだ時の暖かさはもうなかった。
私はチョコを抱きしめてひたすらに泣いた。
『芽衣ちゃん、大丈夫?』
優しく語りかけてくれるチョコの柔らかな頭を撫でる。
「ねえ、チョコはずっと、私のそばにいてくれるよね?」
『もちろん。ずっとそばにいるわ』
そうだ、私にはチョコがいる。だから大丈夫だ。
チョコさえいれば、他に何もいらない。