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体温0度  作者: いのり
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 私が六歳の時だ。

 誕生日に何が欲しい? と聞かれたから、ぬいぐるみが欲しいと答えた。


「ぬいぐるみ?」

「うん。桃ちゃんもね、誕生日に買ってもらったんだって」


 同じ保育園に通う桃ちゃんは、可愛い兎のぬいぐるみを持っている。前におうちに遊びに行ったときに見せてもらった。真っ白でふわふわな毛並みとつぶらな茶色の瞳がかわいい、兎の女の子。ピーチちゃんと名付けたらしい。着せ替えの服もいくつかあるらしく、その日は名前によく似合うピンク色のワンピースを着ていた。


「ピーチはね、私だけの友達なのよ」


 夢見るようなとろける瞳でそう言った桃ちゃん。

 桃ちゃんの友達は私だけじゃないし、私の友達も桃ちゃんだけじゃない。私たちはまだ幼いけれど、それでもお互いにそれぞれの世界を持っている。

 けれども、ピーチちゃんの友達は桃ちゃんだけなのだ。ピーチちゃんの世界には桃ちゃんしかいない。だから、桃ちゃんにとっても、ピーチちゃんは特別な存在になる。

 それはすごく、素敵なことのように思えた。

 だから、私も欲しかった。私だけの特別な友達が。

 そんな私の願いを聞いた両親はひとつ頷いて、大きなデパートのおもちゃ屋さんに連れて行ってくれた。

 そして、私はそこで運命の出会いを果たす。

 おもちゃ屋さんにはたくさんのぬいぐるみがあって、私はどれにしようか迷っていた。桃ちゃんとお揃いのかわいい兎でもいいし、人気のアニメのキャラクターでもいい。いろんなものに目移りをしていた私は、同じデザインのテディベアがたくさん並べられた棚の前で立ち止まった。柔らかそうな焦茶色の毛並みと丸い耳が可愛くて、幼い私は一目見て気に入ったのだ。

 並べられたテディベアを端からゆっくりと眺めていると、二つのまんまるな瞳と目があった。その瞬間、この子だ、と思った。その子は他のテディベアと見た目はなんら変わらないのに、確実に何かが違った。私はそれを運命だと捉えた。

 両手を伸ばして、棚からその子を持ち上げる。そしてその出会いを歓迎するようにギュッと抱きしめた。

 私の両手で抱きしめるのにちょうど良いサイズなのも良い。私の両親は旅行が好きでよく色々なところに出かけるので、この子を抱いて一緒に色々なものを見ることができたらとても楽しそうだと思った。私たちは良い友達になれそうだ。


「この子がいい」


 テディベアを抱えて戻ってきた私に、両親は微笑んで頭を撫でた。


「可愛いね、その子。その子が芽衣の新しい友達?」

「うん。すっごく可愛い」

「大事にできる?」

「いっぱい大事にする。ずっと一緒にいるの」


 ぎゅうっと、ぬいぐるみを抱く腕に力を込める。まだお金は払っていないけれど、もうこの子は私のものだった。

 大事にすると約束をして、両親はその子を買ってくれた。プレゼントらしくラッピングもできると言われたが、「抱っこして持って帰る」と断った。ピンクのリボンに心を惹かれたのは確かだけれど、それよりもこの子を離したくなかったのだ。

 帰りの電車の中でもずっとチョコを抱えたまま離さない私に、両親は「よっぽど気に入ったのね」と苦笑した。


「名前は決めたの?」


 そう母に聞かれて、私はひとつ頷いた。この子を一眼見たときから、名前は決めてあったのだ。


「うん。チョコにする」


 それは、ぬいぐるみがチョコレートを連想させる焦茶色の毛並みをしていたからという単純な理由だった。

 デパートからの帰りの車の中で、私はチョコと一緒に窓の外を眺めていた。

 きっとあのデパートから外に出るのは初めてだろう。チョコにいろんなことを教えてあげようと張り切っていた私は、目についたもの全てをチョコに説明していった。それは友達というよりも幼い妹を相手にしているようだった。


「チョコ、これは電車だよ。これに乗ればすごく遠いところにもすぐに行けるの」

「チョコ、あれは信号だよ。赤い時は止まって、青い時は横断歩道を渡るの」

「チョコ、ここは今日からあなたが住むことになる家だよ」


 そんな私を、両親は微笑ましい目で見つめていた。

 けれども、次の日に保育園にチョコを連れて行こうとすると、二人揃って必死に私を止めた。


「やだ! チョコも一緒に行くの!」

「芽衣、ぬいぐるみは保育園には連れて行けないのよ」

「なんで!」

「汚したり無くしちゃったりしたら困るでしょう」


 言い聞かせるような穏やかな声でそう諭されて、私は押し黙った。大事な大事なチョコに私がそんなことをするわけない。でも、私には前例があった。去年、おばあちゃんに買ってもらった真っ白なワンピース。ふわふわのスカートとひらひらしたレースが可愛くてお気に入りだった。それを友達に見せて自慢したくて、お母さんと汚さないと約束して保育園に着ていったのだ。けれどもそこで私はオレンジジュースをこぼし、真っ白なワンピースは汚れて着ることができなくなってしまった。

 あの時、汚れたワンピースを見た瞬間に濁流のように私を襲った感情が思い出される。買ってくれたおばあちゃんへの罪悪感、約束を破ってしまって怒られるという恐怖、お気に入りのワンピースが汚れてしまったことへの悲しみ、汚してしまった自分への怒り。こんがらがった感情に飲み込まれて、私はただ大声で泣き叫ぶことしかできなかった。

 チョコをぎゅっと抱きしめる。


「……わかった。チョコはお留守番ね」


 それは、お母さんへの返答というよりも自分に言い聞かせるようなものだった。そんな私の心境を察したのだろう、お母さんは「良い子ね」と私の頭を撫でた。

 別れを惜しむようにその柔らかい体を強く抱きしめる。そしてチョコをベッドの上に寝かせて、上に布団をかけてあげた。


「行ってきます」


 手を振って部屋を出る。

 もちろん手を振り返されることも、「行ってらっしゃい」と声をかけられることもなかったけれど、チョコが部屋で私の帰りを待っているという事実だけで心が満たされた。

 保育園に着き靴箱に向かうと、そこには桃ちゃんの姿があった。チョコの話がしたくて足早に駆け寄る。


「桃ちゃん、私もぬいぐるみ買ってもらったの!」


 挨拶も忘れて開口一番にそう言うと、桃ちゃんは驚いたように目を丸くしてこちらを見た。けれど私の言葉を把握すると、ぱあっと顔を輝かせる。


「本当⁉︎ どんな子?」

「茶色い熊さんなの。すごく可愛いんだよ」

「へえー、いいな! 今度会わせてよ」

「もちろん!」


 チョコのことが自慢したくて仕方なくて、友達や先生に会うたびにチョコの話をする。


「誕生日プレゼントでぬいぐるみを買ってもらったの。チョコって言うのよ。すごく可愛いの」


 そう言うとみんな口を揃えて「いいなー」と言うものだから、私は得意げになってしまった。いいでしょう。あんなに可愛い、私だけの友達。

 私はチョコをどこに行くにも必ず連れていった。家族旅行はもちろん、ちょっと近所のスーパーに行く時まで。外出先で出会う店員さんや通りすがりの人たちはみんな私とチョコを見て「可愛いね」って言ってくれるので、すごく嬉しかった。

 けれどもチョコを連れていくことで問題が一つある。常に私の両手が塞がってしまうということだ。それまでは出かける時は必ず迷子にならないようにお母さんと手を繋いでいたのだけれどそれもできなくなってしまったので、私はよく迷子になるようになってしまった。


「芽衣ちゃん、チョコはお家でお留守番させない?」


 何度目かの迷子の時、お母さんが困ったように眉を下げて私にそう言った。けれども、私は意地でも首を縦には振らなかった。

 そんな私に、お母さんは新たな解決策を示してくれた。小さなリュックを買ってくれたのだ。そのリュックはチョコがすっぽりと入るくらいの大きさで、実際に入れてみると頭がぴょこんと飛び出すような形になる。つまり、私がそのリュックを背負って出かければ、チョコはリュックの中からたくさんの景色を見ることができるのだ。

 私はチョコを抱えるのが大好きだったからそれができなくなることは寂しかったけれど、迷子になるのも嫌だったので、渋々お母さんの言う通りにした。

 私はどこに行くにもチョコが入ったリュックを背負っていった。私の空いた手は右手をお父さん、左手をお母さんが繋いでくれた。二人と手を繋いで歩くのが、私は大好きだった。



 私が小学生になってしばらくした、ある夜のことだ。

 自分の部屋のベッドの上で目を覚ました私は、トイレに行きたくてそうっと寝室を抜け出した。

 廊下は冬の気配が滲んでいて、フローリングの床はひどく冷たかった。寒さに体をぶるりと震わせ、腕の中のチョコを強く抱きしめる。

 ふと、薄く開いたリビングへと続く扉から光が漏れ出ているのに気づいた。お父さんもお母さんも、まだ起きているのだろうか。その隙間からそっと中を覗き見る。

 そこでは、お父さんとお母さんがテーブルを挟んで対面に座っていた。話の内容までは聞き取れないけれど、楽しい話をしているのではないことはわかる。

 最初は落ち着いた声で話し合っていた二人だけれど、だんだんとヒートアップしてきたのか声を荒げる。お父さんがテーブルを叩いて立ち上がった。大きな音が響いて、びくりと肩をすくませる。

 お父さんもお母さんも、見たことのない怖い顔をしていた。

 これ以上見ていたくなくて、足早に部屋に戻る。ベッドに潜り込むと布団を頭の上まで被り、自分を守るように丸くなった。腕の中のチョコを抱きしめる。

 それでも、すっかりヒートアップした二人の声は私の耳にまで届いた。何かをぶつけたような大きな音が何度か続き、ガラスが割れる音もする。

 布団をかぶっているのにとてつもなく寒かった。早く夢の中に逃げたいと目を閉じるのに、一向に眠気は訪れない。


「チョコ、チョコ」


 何度も名前を呼ぶ。返事は返ってこないけれど、目を閉じても腕の中の感触からチョコがそばにいるのは伝わってきた。

 チョコは温かくはない。私と違って命がないから、血が通っていないから、体温はない。お父さんとお母さんにするように手を繋いでも、私の手のひらに熱は伝わってこない。けれどもチョコの柔らかな毛並みは確かに私の心を温めてくれる。だから私は安心して眠ることができた。

 お父さんとお母さんの仲が悪い。

 一度気づいてしまうと、色々な点に目が行くようになっていった。私が保育園に通っていた頃はよく行っていた家族旅行ももうしばらくご無沙汰だ。毎年恒例だった海水浴でさえ今年は行かなかった。ご飯は必ず三人で食べていたのに、いつからか別々に食べるようになっていた。二人とも必要最低限の会話しかせず、目も合わせようとしない。私が「三人でトランプしようよ」と誘っても、「また今度ね」と曖昧に微笑むだけ。でも私はもう気づいてしまったのだ、その今度はきっと永遠に訪れないって。

 私はお父さんもお母さんも好きだから、二人はお互いのことが好きではなくなってしまったのだと気づいてからは辛かった。

 その中でも一番辛かったのは、毎晩のようにリビングから聞こえてくる怒鳴り声だ。それを聞くと、あの夜のことを思い出す。扉の隙間から覗いたお父さんとお母さんの、見たことのないような怖い顔。

 聞こえてくる声を遮断するように、私は毎日頭から布団を被り、チョコを抱えて丸くなる。ベッドの上でぎゅっと瞼を閉じて、早く眠れ、早く眠れと心の中で念じる。夢の中に逃げてしまえば、もう怖いことなんてなくなるから。


「チョコ、おやすみ」


 チョコだけが、私のそばにいてくれる。

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