月の影に隠された謎を追って
月が綺麗ですね。
文豪、夏目漱石は『I love you』をそう翻訳した。
詳細に説明するなら漱石が英語教師をしていた時に、生徒が『I love you』を『我君を愛す』と翻訳し、『日本人はそんなことを言わない。月が綺麗ですね、とでもしておきなさい』と言ったとされている。
藤堂高校三年生、生徒会会長の俺こと式部博明は執務室の机で眉根を寄せていた。
「……さっぱり分からん」
と、呟いて溜息を吐く。
いやだって、何をどうしたらそんな翻訳になるのかなんて分からないだろ……。
日本語は主語をよく省略するから『I』がどこかへ消えてしまっているのは良しとしよう。
何なら『今夜は』として『今夜は月が綺麗ですね』とでもすればいい。
だが、どうして動詞『love』が『綺麗』になって、代名詞『you』が『月』になるのかが分からない。
しかし、そこは名高い夏目漱石が言ったこと。
きっと俺程度の人間には想像もできない理由があるに違いない。
きっとあれだ、ゲームや映画で『very cute』(とても可愛い)と言っているのを『泣けるぜ』と訳したり、『Are you crazy?』(お前、大丈夫か?)を『本気か?』と訳したりする遊び心なんかもあるに違いない。
そんなことを考えながら、がたっと俺は席を立ち、生徒名簿を棚から取り出し、三人の生徒をピックアップする。
そうだ、分からないなら聞けばいい。
困った時、誰かに頼るのは大切なことだ。
「そうと決まれば行動あるのみだ!」
待っていろ、夏目漱石。
今日、俺は月の影を追いかけ、お前の謎を解いてやる。
「舞阪副会長はいるか!」
ばしーん、とドアを開けて二年生の教室へ踏み込む。
すると、とある女子生徒が手を挙げて答えた。
髪形はウェーブがかったショートボブ。
切り目だがハーフフレームの眼鏡を掛けている所為か、それ程きつい印象を与えない少女だ。
名は舞阪律子。
藤堂高校二年、副会長を務めている。
「何か御用ですか? 会長」
「うむ。その前に舞阪副会長よ、お前、髪型を変えたか?」
彼女は目を丸くした後、嬉しそうに小さく微笑んだ。
「ええ、毛先を少し遊ばせてみました。すごいですね、会長。誰にも気付かれなかったのに」
「会長足るもの、部下の管理を怠る訳にはいかん。消火剤の抜けた消化器ほど無意味なものはないからな」
「詩的な表現をどうも。それで話というのは?」
「実はだな」
俺は漱石の翻訳について説明する。
「それで私に?」
「舞阪副会長は親に大学教授を持つ文学少女だろう? 一家言持つと思ってな」
「なるほど」
すると彼女は少し黙考した後、答えた。
「結論を先に言ってしまいますね。私は漱石の虚無的な冷酷さが言わせたフィクションだと思います」
「うむ、分からんぞ。どういう意味だ?」
「はい。会長は漱石のことをどこまでご存知ですか?」
「千円札。それ以上でもそれ以下でもない」
「……。では少しだけ漱石について語りますね。『門』と言う作品があるんですが、登場人物の宗助とお通は不倫で出来上がった夫婦として生きています」
「姦通か。それはいかんぞ」
「漱石の生きた時代では現代以上の背徳行為だったでしょうね。実際、彼らは悲惨な運命を歩むことになります。極貧の生活の上、三度妊娠した子供は死にました。それを社会的な不倫理を働いたことに対する罰であるという描写も見られますね」
俺は流石に黙っていられず、口を挟んだ。
「それはおかしいだろう。確かに間違ったことをしたのかもしれんが、それがどうしたと言うのだ。社会はそれ程の罰を与えるほど冷酷ではないし、自然もまた三度の妊娠を無下にするほど無慈悲ではなかろう」
「だからこそ主人公達に振り下ろされた過酷すぎる運命は、嘘を含んでいる、つまりフィクションであると」
「なるほど。漱石は現実では有り得ない物語と表現を作り、虚像を創造した作家であると言う訳だな」
俺の結論に彼女は満足そうに頷く。
「はい。ですからあの翻訳は漱石の作り出した虚構、フィクションだと言うのが私の結論です」
「ふむ……舞阪副会長の仮説は興味深い。一歩漱石に近付けた気がするぞ。礼を言う」
「いえ、いつもお世話になっているのは私の方なので」
「管理はしたが、助けた覚えはないぞ?」
「そういう理念を持つ会長の元で働けることを私は誇りに思っているんです。だからこれからも勉強させて下さい」
その言葉に俺は胸を張って、声高らかに答えた。
「任せるがいい! ガンガン仕事を振ってやるからな!」
そして背を向けた俺に、彼女が問いを投げ掛ける。
「あの、会長! あなたは『I love you』をどう翻訳しますか?」
「そうだな。ふむ……」
俺は少し考え、背中越しに軽く手を振って答えた。
「髪型、似合っているぞ」
「冬川会計はいるか!」
ずばーん、と俺はサッカー部の部室のドアを開け放つ。
「あ、会長。どうしたんすか?」
友人とカードゲームに勤しんでいた少年が振り返った。
快活な面立ち、年相応の男子らしい悪戯っぽさを残している少年だ。
名は冬川護。
藤堂高校一年生、会計を務めている。
「要件を告げる前に手札を仕舞え。校内でのカード遊戯は禁止されている」
「あ、やべ。そうでした。おい、お前ら隠せ隠せ」
悪びれない様子に俺は思わず、まったくと嘆息してしまう。
「それでだな、要件だが」
そして簡単に事情を説明する。
「なるほど、漱石ですか。なぜ俺に?」
「冬川会計は大病院の院長の息子だろう? 舞阪副会長とは違ったアプローチを持つのではないかと考えたのだ」
「んー、そうっすねえ」
冬川会計は中空に視線を投げて考える。
「最初に結論を言うっすね。俺は漱石の普遍性を持つ社会的功績が生んだ娯楽だと思います」
「うむ、分からんぞ。どういう意味だ?」
「会長は天才の条件って何だと思います?」
ふん、と俺は鼻を鳴らして答えた。
「愚問だな。俺のように機知に富み、文武に優れ、カリスマ性を備」
「一般的には、いつ、どこで、誰が触れても感動させられる普遍性を持った功績を残せた人物のことを言うっす。会長はコロンブスの卵をご存知っすか?」
「……。卵の底を割って、テーブルに立てて見せたというあれだな。全く、迷惑な話だ。そんなことをすれば黄身が溢れてしまう。給仕係は始末に苦労したであろうに」
「あはは、流石会長っす。その発想、パネェっす。あれって、天才にもこんな面があって欲しいという願望が生んだコメディだと思うんすよ」
その見解に俺は、ほほぅと唸った。
「なるほど。読者は天才の漱石にもそういう一面もあるという願望を抱きたかったと」
「そうっす。増して漱石は神経衰弱、糖尿病、胃病、800gに及ぶ吐血、49歳で死去したという経歴があるから、より求められたんだと思うっす」
「それで、民衆の作った娯楽だと」
「うす」
なるほど、そう言われてみると説得力があるなと俺は思う。
「ふむ……冬川会計の仮説も興味深い。より一歩漱石に近付けた気がするぞ。礼を言う」
「いえ、いつもお世話になってるのは俺っすから。会長の才気には驚かされるばかりっす。これからも会長の元で勉強させて欲しいっす」
その言葉に俺は再び胸を張って、声高らかに答えた。
「任せるがいい! ビシビシ指導してやる!」
「あ、最後にいいっすか? 会長は『I love you』をどう翻訳します?」
俺は顎に手を当てて考えた後、軽く口端を上げて答えた。
「カードゲームはバレないようにやれ」
「二湖川嬢はいるか!」
すぱーん、と俺は一年生のクラスのドアを開け放つ。
「ふ、ふぇっ? か、会長様?」
探すまでもなく彼女は目の前にいた。
ドアのすぐ近くの席だったようだ。
弁当箱からおにぎりを取り出していた少女、二湖川操は小柄で、髪を櫛で結上げており、小動物を連想させる女子生徒だ。
ちなみにこれが初対面。
「うむ、二湖川嬢よ、今日は聞きたいことがあってここへ来た」
「か、会長様が私にですか?」
「成績は万年最下位、運動もからっきし。しかし不思議と人望のあると噂のお前の意見を聞きたいのだ」
「は、はぁ、どういったことでしょう?」
俺が事情を説明すると、二湖川嬢は小首を傾げて答える。
「あい・らぶ・ゆー、ですか? ごめんなさい、私、自分の国の言葉しか分からないんです」
「は?」
俺は流石に驚愕する。
最下位にして最底辺を素で突っ走った回答だった。
しかも危機感を抱いている様子は全くなく、傍にいた女友達は声を押し殺して笑っていた。
「それより会長様、今日のおにぎりと梅干は会心の出来なんです。良かったらどうですか?」
「ふ、ふむ? では頂こうか?」
なぜか疑問形で俺は答え、おにぎりを頬張った。
「何だこれは……。超美味いではないか!」
「あ、ダメですよ。一口だけです。私も食べたいので!」
ひょい、と取り上げて彼女は口を付ける。
あ、そこ俺が囓った所なんだが……まあ、いいか。
「しかし、まあ、お前の言う通りだな。知らないなら仕方ない。斬新な見方だ」
不思議な納得を覚えながら、俺は頷く。
「ちなみに二湖川嬢よ、『男性の幸福は、われは欲するである。女性の幸福は、かれが欲するである』という言葉をを知っているか? ニーチェなのだが」
「にーちぇ? も、もしかして新しいアイスの名前ですかっ!?」
「ぷっ、くくっ」
思わず俺は笑いを咬み殺す。
いい。
こいつの解答は、とてもいい。
「もう一つ、二湖川嬢よ、お前の夢は何だ?」
彼女はちょっと考えて、ぱあっと輝く笑顔を浮かべた。
「家業の農業を継いで、もっと農具の使い方を身に付けて、肥料の配分を覚えて、みんなにお米と野菜を美味しく食べてもらうことです!」
「そうか、立派だなっ!」
「ありがとうございますっ!」
そして頬をほころばせ、幸せそうに笑う。
その笑顔で、俺の中の何かが氷解した。
「二湖川嬢、頼みがある」
「はい?」
「俺にお前の夢を叶える為の手伝いをさせてくれないか? お前の元で勉強したいんだ」
二湖川嬢は、ぱちくりと目を丸くしたが、やがて目尻を下げ、嬉しそうに笑った。
「はいっ! 会長様がいてくれるなら百人力ですっ! じゃあ私達、友達ですねっ!」
そう言って、米粒だらけの手を差し出してくる。
俺は表情を緩め、その手を握り返した。
そして、理解する。
漱石はこんな嬉しさや楽しさ、少しの気恥ずかしさを、美しいと一言では表現しきれないと感じて、『I love you』を翻訳したのだ。
ならば、俺も先人にならおう。
「二湖川嬢」
彼女はおにぎりを頬張りながら、「ふぇ?」と応答する。
そして最後に、俺は精一杯の親愛を込めて言葉を紡いだ。
「月が綺麗だな」