前編
コチノ国の辺鄙な田舎、トト領の弱小領主、ダーリヌ・アイ・シーン男爵には一人息子がおり、名をアルノ・シーンといった。泣き癖があるもののおおむね普通の、純朴な少年であった。そのアルノが四つのとき、男爵邸にもう一人子供がやってきた。かわいいドレスを着た、アルノより二つ三つほど上にみえる女の子だ。アルノの世話役のマリーがアルノの部屋に連れてきて、紹介を始めた。
「アルノ坊ちゃま、今日から坊ちゃんと、この家に住むことになりました、お名前は」
少女はその先をつぐように、大きな声で名乗った。
「アーナだ!あなたの名前は?」
「………アルノ…」
「そう、としは?いくつ?」
「ごさい」
「じゃあ、私がお姉さんだ。ねえ、なにかして遊ぼう。んー、そうだ!かくれんぼしよう、こんな広いお屋敷でかくれんぼしたら、きっと楽しいよ!」
少女は快活で積極的だった。初めこそ見知らぬ少女に緊張していたアルノだったが、打ち解けるまでにそう時間はかからなかった。服装といい、雰囲気といい、この家にいるどの女性とも違う、自分と対等に振る舞う彼女は、アルノにとって新鮮な存在だった。
一方アーナも、アルノの存在にずいぶんと安堵していた。父が長い間仕事に行くからと、この家に預けられることになったが、どうやら自分は明らかに家主に歓迎されていない。アーナは子供ながらにそれを感じ取っていた。特に男爵夫人の反応は露骨で、まともに言葉を交わすことも許されなかった。こんな調子では居候としてどのような生活が待ち受けているものか、生来の明るい性格柄外面こそ平気そうな顔をしていても、内心は不安でたまらなかった。そこに似たような歳の子供、一瞬喜んだものの、新たな不安にとらわれた。この子も両親と同じなのではないか。ぽっと出の知らない子供を煙たがるのではないか。それを隠すように常になく強気に出たのだった。そして結局のところ、それらは全くの杞憂であった。アルノは年相応に幼く純粋で、単純に対等に遊べる相手ができたことを喜んだだけだった。アーナは本物の弟のようにアルノをかわいがり、またアルノもアーナを姉のように慕った。
しかしそのような単純な関係は長続きしなかった。アルノの方がアーナの扱いに疑問を持ち始めたのだ。アルノが初めて違和感を感じたのは、アーナがお話を語り聞かせてくれたときであった。
「…こうして、騎士ナーグルジャフは、ついにドラゴンの首を切り落としたのだ」
「(…フンスフンス!)」
「洞窟の奥にはドラゴンが人々から奪っていたお宝が山と積まれていた。騎士ナーグルジャフはそれを人々に返し、国王様から最高の栄誉を、神様から永遠の祝福を頂いたのだった。おしまい」
「…すごい!きしさまって、かっこいい!」
「でしょ!わたしも大人になったら騎士様になって、世界中の苦しんでる人を助けるんだ!」
「ぼくも!ぼくも!」
「アルノはだめだよ、危ないし、男爵様が許さないよ」
「やだ!ぼくもきしさまなるの!」
「アルノには無理!泣き虫だし弱っちいし!」
「やじゃ~!グスッ、なるの~!」
「ほーらすぐ泣くじゃない。無理だよむ~り~。アルノの弱虫~」
アルノがアーナに飛び掛かり、そのまま取っ組み合いの喧嘩にもつれ込んだ。騒ぎを聞きつけた使用人が慌てて二人を引き離し、そしてアーナだけが怒られた。
「アルノ様になにかあったらどうするおつもりですか!?」
これ幸いと黙っていたものの、なぜ自分は怒られないのか、アルノは不思議に思った。その晩ベッドに入ったとき、いつもアーナだけが別室で食事をすることと、今日のことは同じなのではないかと思い当たった。しかしなぜアーナだけがのけ者なのかは分からなかった。
アルノが7歳になったとき、貴族で集まる晩餐会に連れていかれた。アーナは家で留守番だった。
アルノは朝、自分で着付けはしない。使用人が全てやってくれるからだ。アーナは全て一人でやっているようだった。その服装も次第にみすぼらしいものになっていった。
そのうちアーナが使用人たちに混ざって働き始め、それをみていたアルノは、自分もじきにアーナと同じように働くのだと思っていた。
だからアルノは家庭教師を付けられ、これからは多くの時間を勉強にあてなければならないと言われたとき、ついに家庭教師に尋ねた。どうしてアーナは勉強ではなく、廊下を雑巾で拭いているのか。口さがない中年の未亡人は当然全てを知っていて、授業そっちのけで8歳の少年にペラペラと全てを話した。
アーナの父と母はアルノの父ダーリヌの古い知り合いであること。
アーナの母はアーナを生んですぐに死んだこと。
アーナの父が騎士として戦役を課されたとき、アーナの父はアーナをダーリヌに預けることを選び、ダーリヌがそれを受け入れたこと。ダーリヌとアーナの父はその昔、アーナの母を取り合った関係であるにもかかわらず。
そして一年前、アーナの父が死んだこと。
曲がりなりにも騎士家の娘であったアーナが一使用人として身をやつすことになったという悲劇として、一部の事情通の間で話のタネになっていること。
大体このような内容を私見たっぷりに喋ったあと、自分が口を滑らせたことは誰にも言わないことと強く念押しして、家庭教師は帰っていった。その日の授業はそれで終わりのようであった。
アルノは愕然とした。それは、自分は男爵の嫡子で、れっきとした貴族であるのに対して、実の姉のように一緒に育ったアーナが、ただの使用人身分なのだということにだった。
顔を合わせても、アルノの方が目をそらす、そんな日々が続いた。アーナとどう接すればいいのか、アルノは分からなくなっていたのだ。
そんなある日、アルノは自室で書き取りをやっていた。机に向かって勉強に集中していると、
「勉強してるの?」
アーナが後ろから肩越しに、アルノの手元を覗き込んでいた。
「うわぁ!?あ、アーナ!なんでここに…」
「そんなに驚かなくても…今日は庭仕事で、今はちょっと休憩」
確かに、アーナの服は土まみれで、泥のついた手で拭ったのか、端整な顔も少し汚れていた。アルノがまた、気まずそうに眼をそらそうとした、その顔を、アーナは無理やり正面に向かせ、アルノの目を覗き込んだ。
「あんたさ、なんで私を避けてるの?同情?それとも馬鹿にしてる?」
「ち、違う、そんなわけ!」
アーナがにかっと笑い、アルノの言葉を遮った。
「わかってるよ、アルノはそんなこと思う子じゃないってことは。でも、私はアルノのお姉ちゃんなんだ。仕事が違っても、血がつながってなくてもさ、アルノのお姉ちゃんでいたいんだ」
「…うん」
「お姉ちゃんだからさ、アルノより仕事して当たり前だし、そんなことでおまえが気に病む必要なんかないんだよ。それともアルノは私がお姉ちゃんなのは嫌?」
「いやじゃない!アーナは、その。…お姉ちゃん、だよ」
「じゃあ、今まで通り喋ってよ。今まで通り、姉弟みたいに遊んでほしいな」
「…うん!じゃあ、じゃあ、騎士様ごっこして、前みたいに!」
「なはは…今は仕事中だから、帰ったら存分に相手してやるよ!」
「やった!」
それからは、それまで通りとはいかないものの二人は仲のよい姉弟であり続けた。このとき、普通の兄妹とは違うことを理解しながらもなお姉弟であろうとしたこの瞬間から、お互いがお互いの存在を前提としているような、まるで血を分けた本物の姉弟のように。
アーナはさとく、したたかな子だった。自らの境遇を知ったとき、アーナはこの家で、使用人として生きようと思いついたのだ。実のところ、使用人に交じって働きだしたのは自主的なものであった。服も、家から持ってきた何着かのドレスはしまい込み、最初に友達となったマリーが家から持ってきてくれたお下がりを着るようにした。この家にいるアーナの味方は増えていた。男爵家の使用人になるものなど庶民ばかりだ。彼らからすれば、騎士身分から使用人になったアーナは「こっち側」で、アーナからうまく近づけば親身になってくれるものは多かった。男爵夫人のいじめや心無い嘲笑は依然としてあったが、むしろアーナにとっては友人たちの同情の方が鬱陶しいくらいである。家主はアーナがなにをしていようとも全く干渉してこない。さらにかわいい弟分は次期男爵様である。アーナにとって最早この家は自分の家も同然だった。
だからこそ、ある日、アルノとばったり会った瞬間、アルノが「どうすればいいのかわからない」と言いたげな顔と、脱兎のごとき逃げ足を見せつけてきたとき、アーナは一瞬で事態を理解し、そして激怒した。よほどとっ捕まえて脳天に一撃ぶちかましてやろうと思ったが、最初の取っ組み合い以降アルノに手をあげていないアーナはどうにか怒りを飲み込み、かわりに二人きりになれる時を探した。物わかりの悪い弟には説教が必要だ。だがその怒りはいとも容易くほどけた。二言三言であっという間にわだかまりをなくした弟を、アーナはこのときほどかわいいと思ったことはなかった。そして、なにがあってもこの純粋な弟を守りたいと、強く感じたのだった。
忙しそうな父との二人暮らしでは得られなかった友達、家族の温かみを手に入れたアーナは最後に残った不安も消し去ろうとした。すなわち、この家の主ダーリヌは自身をどうしようと考えているのか。成人したら、いやその前であろうと、いつかこの家から放り出されるのではないか。アーナは一世一代の決心をした。
ある日、アーナはダーリヌが執務室に入るときを見計らい、その後に続き執務室に滑り込んだ。ダーリヌは流石に驚いたが、すぐに不愉快そうな顔を浮かべ叱責した。
「なにをしている?出ていけ、すぐに」
アーナにとって最も恐ろしいその言葉に一瞬震えたが、すぐさま自身の知る最高の礼儀作法でかしこまり、一気呵成に切り出した。
「お願いがございます。この家に、使用人としておいていただきたいのです、できる限りのことはいたします!」
それだけ言い切り、あとは微動だにしないことにのみ集中した。息すら止め、ただ掃き清められた床をじっと眺めていた。
いかほど時間がたっただろう、息も限界に近くなったとき、頭上から低い声が、一言だけ降りてきた。
「好きにしろ」
思わずためにためた息を全て吐き出してしまった。この瞬間、アーナは真の意味で全てを手に入れたのだった。その晩粗末なベッドで、アーナは人生最大の幸福を噛み締めた。
次の日。6人の騎士がシーン男爵家を訪れた。先頭に立つ巨漢がその巨体にふさわしい大音声を張り上げ、
「我は雷鳴の騎士にしてヴァンヴァン男爵家当主、インデガ・アイ・タンツト・ヴァンヴァンである!!!これそこの使用人!ダーリヌ殿はいらっしゃるか!!!」
「は、はい、少々お待ちいただけますでしょうか。只今確認を…」
「よい、よい!ダーリヌ殿と我は古き仲よ、いるのか、いないのか!それだけ教え給え!!!」
「は、はいい!おります、おりますぅ!!!」
「そうか、そうか!ではダーリヌ殿!悪いが至急の用事なのだ、勝手に上がらせてもらうぞ!!!」
というと、勝手知ったるとばかりに屋敷に入ってしまった。それを見ていたシーン男爵家の者たちは「ああ、またあの方か」と言わんばかりにすぐに仕事に戻った。雷鳴の騎士といえば先の隣国アチノ国との衝突で、劣勢だったコチノ国の軍に遅れて加勢し、あっという間にアチノ国の兵を追い返したという話で有名であるが、この家の者にとって彼は用事もないのによくダーリヌのところへ遊びに来る、自由で豪放な男という認識だった。しかし、幾人かはそれでも不思議に思った、いかにやりたい放題なインデガでも、事前に一報も無しに来たことは二三度しかないし、まして5人の騎士をつれてきたことなど一度もない。そしてそれはアルノも感じていた。会うたびに「父親とは似ても似つかぬ貧相さよ!もっと食え!!!」「稽古をつけてやろうか!!!」などと吼えてくるインデガが苦手で、それ故にいつも警戒していたのだ。今日のインデガはいつもより、恐ろしく見えた。降ってわいた非日常にアルノは妙な胸騒ぎが止まらなかった。
シーン男爵邸はかなり年季が入っているため、応接間といえど防音性には乏しい。そこにインデガの大声では、聞くなという方が無茶な話である。というわけでアルノ、アーナ、および野次馬根性の強い使用人数人は隣室で盗み聞きをしていた。
「…インデガ殿、事前に一報いただけなければ流石に困ります。このようなことを…」
「うむ、それについては謝るが、しかしこちらも急いでいるのだ、まずは我の話を聞いていただきたい!」
インデガが室内であるにも関わらず相もかわらぬ大声をあげながら、一巻の巻物を広げ始めた。
「御神託である!」
その言葉に聞き耳を立てていた皆が一斉に固唾を飲んだ。
「この言の一切は全権大光明神に帰属し、その命はかの名において厳に履行されねばならぬ!」
光明神の信託。この世界に生きる人間で知らぬ者はいない、光明信教の唯一神の直接のお言葉。そのお言葉は当然絶対遵守であり、守れなければ死ぬ。協会に殺されるなどといった話ではない、従わなかった者は、死因は様々ではあるが押しなべて、まるで天命であったかのように、ぽっくりと死んでしまうのだ。野次馬たちはそれまで以上に息を潜め、次の言葉を待った。
「コチノ国アルト地シーン領、シーン男爵家、そこに住まう少女、騎士テーラーの娘アーナを聖女としてイーナ神殿に招聘し、来るべき災禍に備えよ!とのことである!!!」
アルノは思わずアーナを見た。アーナは絶望に満ちた顔で固まっており、そして崩れ落ちた。
それからの流れはあっという間だった。アーナは一言も発さず、極めて従順に連れていかれた。暴れ、騎士たちに取り押さえられるアルノに、ついに一瞥もくれなかった。ダーリヌはその場に立ち合いもしなかった。押さえつけられなおも暴れるアルノの前にインデガがしゃがむ。噛みつかんほどに睨みつけてくるアルノに、常になく優しい声で言い放った。
「すまぬな、アルノ。だが光明神に逆らうことは何人たりとも出来ぬのだ」
「だからって…!」
「だが、別に今生の別れではない」
「………」
「彼女は、いや聖女様はこれから王都のイーナ神殿に滞在なさることになる。それでだ、物は相談なのだが…」
「妙なことを息子に吹き込むのはやめていただこう、インデガ殿」
インデガの言葉を遮ったのは、いつにも増して恐ろし気な雰囲気のダーリヌだった。
「…先ほどまでは高みの見物が、息子のこととなると話が違うか?ダーリヌ。いや違うな、シーン家の跡継ぎのこと、か?」
「………」
「貴様も貴様よダーリヌ!いつまでこんなままごと遊びを続けているつもりだ!!!隣国の動向を貴様も知らぬはずはなかろう!!!今動かねばこの国は、本当の窮地に立たされることになるのだぞ!?!?!?」
「だからどうした?それは軍の仕事で、貴様ら騎士の役割だ。私の役割は王より賜ったこの領地を治め、次代に受け継ぐことだ。貴様の無能のツケを私に押し付けるな、インデガ」
「…腑抜けが」
「腑抜けは貴様だ。こんなことをしている暇があったら敵将の首の一つでも取ってこい」
ダーリヌはそう言い放つと、アルノの腕を強引に掴み、屋敷に入った。ここまで乱暴な態度の父を見たことがなかったアルノは虚を突かれ、大人しく連れていかれることしかできなかった。
それから一週間、アルノはインデガを恨み、神を恨み、そして無力な自身を恨んではベッドで泣き続けた。
そして一週間後の朝、王命が下り、ダーリヌに戦役が課された。シーン領の統治はまだまだ勉強の足りないアルノが継ぎ、それまでもシーン領管理を補佐していた政務官たちがアルノを支える形となった。