01-07 対決
帝国の権威がかろうじて及ぶ東部辺境の果て。そこは辺境の呼び名の示すとおり、人の無力を思い知るに相応しい雪と氷の世界である。その土地は魔女の大森林と呼ばれる針葉樹の黒き広大な森を抜け、冷たい風の吹きすさぶ小高い丘陵地をも越えた先に広がっている。そこは猫の額ほどの痩せた畑と、凍り付いた河よりあがる雑多な小魚の類いに頼る貧しい土地だった。そしてなにより、この世界の果ての奥、この土地より更に東……件の麗しの姫、オルファ姫の住まう城より東には、氷に閉ざされし未踏域より湧き出でる化け物どもの住みかがある。そこは古の暗き神々の眷属か、名も無き混沌の末とも取れる未開の蛮族どもの跳梁を許す領域だ。
◇
それは鮮やかな待ち伏せだった。レーン達は今、取り囲まれているのだ。
遠巻きに囲む粗野な男達は皆、粗末な身なりをしていた。だが、気勢を上げる連中を押しとどめ、一人、中央に進み出てきた首領格だけは明らかに違う。それは長い碧髪の女だった。機敏な動作で無駄のない肉付きをした躰が進み出てくる。その女は緑の鱗を思わせる、陽光を照り返しつつ光り輝く鎧を身に纏い、銀色に鈍く輝く鋭い得物を手にしている。いずれも名のある職人の手によるものと思われた。ただ、奇異なことにその女はのっぺりとした白い面で顔を隠しており、面の隙間から漏れるくぐもった声からもその表情は何一つうかがい知ることができない。
「待てよ、お前」
「ここを通してくれないか」
仮面の女は透き通った声で言った。
「知ってるぞ? お前、帝都ファルドアリアから派遣されてきた兵士だろう。この先の砦に詰めるんだろ? なぁ、ちょっと時間をくれよ。この自分と遊んでいかないか?」
女の声。それは若い声である。下卑た男達の笑い声が続いた。
「ちょっと、待て、なんだお前達は! オレは兵士は兵士でも、貴族だぞ! こんな事をしてただで済むと思っているのか!」
「なんだよ。その腰の剣は飾りなのか? ……帝都の兵士はどいつもこいつも腰抜けばかり。最強を謳う帝都ファルドアリアの兵士殿は言葉も通じぬ化け物共に、舌戦でも挑むつもりなのかよ」
女はレーンを挑発してくる。それがわからぬレーンではない。バカもバカなりに考えるのだ。
「化け物にも道理はあるだろう? オレは交渉できる相手なら、例え相手が化け物であろうと、話ぐらいはしてやるつもりだ」
「……なんだ。ただのバカだったのか。でも良いや。なぁお前、時間あるんだろ? ちょっと自分の暇つぶしに付き合ってくれよ」
女が進み出る。両手に構えられた長大な銀色の針は、明らかに危険極まりない代物と思えた。レーンが目にしたこともない輝きを放つそれは、間違いなく魔法の光。鋭い切っ先は容易く自分の体を貫くだろう。
「坊ちゃん。あの女、かなりの腕と見ました。お気をつけを」
バルダスの重い声をレーンは聞いた。
「助けてくれないのかよ!?」
「挑まれているのは、他ならぬ坊ちゃんです」
バルダスの冷たい物言いに、ついにレーンは覚悟を決めた。
レーン。彼にだってそれなりの自信はあるのだ。辺境警備の任を受けてからと言うもの、毎日のように青銅の剣を磨いてきた。叔父の用意してくれた練習相手と幾度となく繰り返した模擬戦だって、一回も負けたことがないのである。当然の自信といえた。レーンにはいつだって戦いの準備は出来ているのだ。
「やってやるよ、やってやる。あの生意気な雌狐の正体を突き止めてやるから期待してろよな!?」
レーンは自分よりも口達者な狐面の相手に向かって駆け出すと、研ぎ澄まされた青銅の剣を大上段に振りかぶる!!
◇
──ところがである。
レーンの剣は相手に擦りもしなかったばかりか、勝負は一瞬で決まっていた。
「やったぜ姉御!」
「やった! さすが姉御、強すぎらぁ!」
男共の歓声が聞える。山賊の首領と思われる女はレーンの剣を、モノの一歩後ろに引いて見せるだけで優雅に交わすと、振り下ろした剣の重さにたたらを踏んで体勢をを崩したレーンの背中に容赦ない回し蹴りを放ったのだ。おかげでレーンは地に這っていた。仮面の戦士との実力差は、誰の目にも明らかだったといえる。
「なんだよ。得物ぐらい使わせてくれても良いじゃないか。弱すぎだろ、お前!? まぁ、自分の勝ちだ。都から来る兵士、しかも大臣の推薦って言うから、どんな猛者が来るのかと期待してたのに。自分に傷一つ負わせられないどころか、こんな弱っちいなんて……姉貴はこんな奴との間に一体、何があったって言うんだよ」
スィータは心底バカバカしくなって、レーンを散々にこきおろした。
──しかし。
「……ぇ?」
パキっ、と軽い音を立てて何かがレーンの顔付近に落ちる。地面に転がるそれは、真っ二つに割れた白木の面だった。顔を上げたレーンが見あげる先には驚きに包まれた眉目秀麗な顔がある。鎧で覆ったその姿。思わずうめき声を上げるレーンには、彼女の姿は正しく神殿に刻まれた汎神の御姿そのものと思えてならなかった。
◇
「あれ? オルファ……姫?」
「あ、あれが姉御の素顔かよ!」
「……あ、……あれが姉御……信じられねぇ……俺は、俺は一生姉御についていくぜ!」
「お、俺も!」
「俺もだ……。姉御! 愛してます!」
誰かの言葉が聞え、我に返ったのか。その女戦士は顔を見る見る赤くしたかと思うと、掌で顔を隠しつつ、手下を怒鳴りつけていた。
「うるせぇ! 黙れお前ら!」
男達が押し黙る。
「姫……。まさかオレが、誰にも負けたことの無かったオレが……姫君に負けた……?」
「バカにするな! 姉貴は関係ねぇ! お前はこのスィータに負けたんだよ! 自分は姉貴とは違うんだ!」
「え……?」
スィータはレーンを無視し、言い放つ。
「そこで騒いでいるお前ら! この役立たずの兵士殿を丁重に城へ案内して差し上げろ! この貧相なガキを姉貴の前に突き出すんだ!」
スィータは自分が見切りを誤った事をにわかには信じることができなかった。あのシナーリュートに頭を下げて、直々に教えを請うた戦闘術なのだ。スィータはそのシナーが褒めてくれた腕前の筈だった。スィータが一流と信じた自分の腕前が、その実たいしたことが無いことをレーンに思い知らされ、誰よりも美しいと言われる姉と同じ顔を手下共に晒す。スィータには最悪と思えた。