01-04 世論
「森で物騒な獣に出くわすかも、って思っていたけれど、いきなり魔女を引くとは思わなかったわ」
「それも坊ちゃまの実力ですよ、ミース」
下草や落ち葉、枯れ枝を踏み分け森を行く一行。
「森の小道に勝手に分け入って、散々道を迷わせた事を言っているわけ?」
「ええ。意外な顛末でしたが、幸運にも麗しき姫君のご尊顔を拝見できたのです。暁光といえましょう」
件の姫と、お付きの妖精騎士に出会った。
「顔、って言うより、生まれたままの姿全部見ちゃってるじゃないの」
「まぁ……いずれにしても、坊ちゃまの実力には違いありません。運も実力のうち、です」
レーンの実力。それはいか程であろう。
「そうともミース。しかし、さすがバルダスだな。叔父上が従者に推挙してくれただけのことはある。良く判っているじゃないか。でも、昨日は実に残念だった。昨日は麗しの姫を連れ帰るまたとない機会だったのに……実に惜しいことをした」
「またの機会もございます。その時に本分を尽くせばよろしいかと」
レーンの戯言に微動だにしないバルダス。従者の鑑と言えよう。
「そうだな。ありがとうバルダス。今度こそ頑張るよ。絶対に姫の心を掴んでみせる」
「……あ痛たた……。レーン様、朝から頭は大丈夫?」
ミースは苦虫を噛み潰している。
「問題ない。実に爽やかな朝を満喫しているぞ? ……さすがに東部辺境。屋根の下だったとは言え、少し……いや、かなり肌寒いな。昨晩もミースが温めてくれていたおかげで、オレは実に健やかだ」
「レーン……あんたねぇ……。あんたが断りもなく人の寝床の中にまで入り込んできたんでしょうが!」
レーンの性癖が今、明かされた。
「ミースは嫌がらなかったじゃないか。……それに、オレが独り寝出来ないことを知ってるくせに」
「っ! ……そ、それは……! ……はぁ。情けない」
ミースは一瞬、ムッとした顔を見せた。だが、なにか思うところでもあるのかミースの表情は和らぐ。
「嫌だったのか?」
「あんたのそういうところが嫌いよ」
まぁまぁ、と差し出された、削り出しの椀に注がれた、湯気を立てる薄い粥に口を付ける。謎肉が申し訳程度に浮かんだ汁である。肉の正体など、わかりたくもなかった。臭みと獣の脂の他は味などない。それでも躰は温まった。
民家の軒下を借りたのだ。近年流通し始めた都の銀貨を数枚握らせる。珍しいのか、その猟師は掌の上のそれを恐る恐る、つまんでいた。
「でもレーン様、まだあの姫のことを諦めてないの?」
「何を言うか。オルファ姫はオレを待っていると言ったんだ。当然、迎えに行くに決まっているだろ?」
レーンはさも当然、と言った構えだ。
「迎え……って……。無理無理。あのお姫様、レーン様のこと、滅茶苦茶に嫌がっていたような気がするんだけど」
「ミースはバカだなぁ。初めは嫌だと断るのが社交辞令だと教えてくれたのは他ならぬミースだったじゃないか」
レーンは言葉を重ねる。
「バッ……、ええと! それとこれとは違うんだから! まして、あのお姫様とレーン様は初対面で、しかもいきなり殺され掛かったじゃないの!」
「あれはあの美人のエルフが勝手にやったことだろ? オルファ姫の指示じゃない」
この上ないバカは何事が起きようとも動じないのだ。
「はぁ? ミースには、確かにあの姫がレーン様のことを殺せ、ってはっきりしっかり口にしてたような気がするんだけど!?」
「そんなことはないぞミース!」
「あの……お前様方、もしかして、これからご領主様の元に行きなさるんで?」
恐る恐る、声を掛けてくる猟師がいた。そんな猟師の年季の入った嗄れた声に、レーンとミースは押し黙り、お互い顔を見合わせた。
「そうとも。我らは皇帝陛下の命により、この度、栄えある辺境守備の任を仰せつかったのだ。当然、領主殿に着任の挨拶にも出向くつもりでいるが、それがなにか、ご老」
レーンとミースの口喧嘩を興味も無さそうに聞き流していたバルダスが答えた。
「ご領主様のところへ! そんなとんでもない!」
猟師の言葉に、三人は顔を見合わせる。
「……悪いことはいわねぇ、あんたら良い人そうだから、こうして言うが、ご領主さまのあの城にだけは、あの村にだけは近づいちゃなんねぇ」
猟師が声を潜める。
「どうしてだ?」
「……大きな声じゃぁ言えないが、あの城に住むご領主様は化け物だ。きっとあんた方も食われちまうに違いねぇ。今からでも遅くはねぇ。止めておきなすこった」
消入りそうなかすれ声。それがこの猟師の意見を如実に表していた。
「聞き捨てならないな。あの美しい姫が化け物だと? そんなはずはない」
声を荒げて猟師に詰寄ろうとするレーンをミースが腕を掴んで止める。
「止めなさいよレーン! 高貴な者には力なき民を労る義務もあったんじゃないの!? それにほら、あんたも聞いたでしょ? こんな話するのは、この猟師さんだけじゃないの。この旅路で出会った殆どの人が似たようなことを言うのよ? はっきり言って異常よ。本当のこと……少なくとも、噂の中に真実がかなり含まれているのは間違いないわ」
「でも、そんな事があるものか! ミース、お前も見ただろ? あんな身も心も美しい姫君が化け物などであるものか! まして、人を取って食うなんて!」
「……レーン様……。はぁ、もうね。何も見えちゃいないし、聞いてもいなかったのね。あのね、熱上げすぎ。バッカじゃないの。もう好きにしなさいよ……」
ミースは強く拳を握り、それを白くして小刻みに震わせる。レーンはミースの目の前にいる。いつもの距離の筈だった。しかし、今のミースの目には、レーンの姿がとてもとても遠く離れて見えたのだ。
◇
「シナー? ……あの少年、本当に来るかしら?」
「……気になるか? オルファ」
シナーリュートが薄く笑った。
「まさか! 誰があんな無礼な子供……。……でも、ラーキフ殿の話では、あの子は都で最も権勢を振るう貴族の縁の者とか。と、なると、むげには出来ない……。人を迎えに出した方が良いと思う?」
「貴族としての格式はお主の方が上よな。お主は青き血の皇族ぞ? ぽっと出の貴族風情の権勢の行方なぞ、気にすることも無かろ」
「か、格式……。でも……あの子、まだ子供でしたし……。恐らく歳の頃も私とあまり変わりはないはず……」
「あのお主のことしか頭になかった元気な少年には警護の者も付いておった。それなりの動きを見せる者が二人ほどな。こちらが世話を焼く手間など不要であろ」
「二人も!? ……そ、そうなのですか……腕の立つ者が二人も……」
「気づいておらなんだのか。……全く、先の思いやられる姫君よな。しかしオルファ、意外な事もあるものよ。そんなに心配か?」
シナーリュートがオルファの節穴を抉る。
「意外? ……わ、私は別に心配など! ……そうです、普段と変わりなどありません!」
本人は気づいてないのか、いつになく声を上擦らせるオルファにシナーリュートは目を細め、その怜悧な美貌に笑みの形を浮かべた。実に珍しいことだった。
「オルファ? ……そうか、いつになく落ち着きがないと思うておったが、お主……。ふふ、そういうことか」
「な、なんですか、それは! ……私の何が可笑しいのです!」
「言うておれ。年頃の娘が頬を染めて言うことではないわ。そのように落ち着かぬなら、……そうよな、スィータにでも出迎えを頼むが良かろ。それとも、お主が直々に出向くか?」
「じょ、冗談じゃありません!」
「あはは、長生きはするものじゃな。今日は実に良いものを見た。己の愛して止まない民からは、魔女よ悪魔よと忌み嫌われ恐れられるお主でも、純で無垢な少年の、正面からの馬鹿正直な告白には心を動かされるのじゃな。安心せい。儂は決してお主らの邪魔はせぬ」
「もう! 怒りますよ!? 私は決してそのような! それに民草らはお隠れになったお父様に代わり、今ではこの私を心から慕ってくれています!」
「まぁまぁ、お主のためにも、悪いようにはせぬ。……スィータには儂から言付けておく。お主はやがて来たるであろう想い人のために、湯浴みでもしておれ。儂はお主の純情のため、一肌脱ぐとしよう」
そう言い残すと、シナーリュートは未だ震えるオルファの視界から姿を消したのである。