表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

天使のはしご

作者: 彩 蝶衣

 誰にも会いたくない。

 こんなクソみてえな姿、見せられるか。


 そう思ってどのくらいが経っただろう。男は街から離れた森の中にある小屋に、ひとり、閉じこもっていた。髭は伸び放題、体中には垢が溜まり黒く汚れている。着ているものはと言えばぼろ切れ同然で、かろうじて服の役目を果たしていた。汚れと悪臭にまみれた中で、男の目だけが、冬の空のよう冷たく澄んだ色を見せていた。


 男は目蓋をゆっくりと閉じた。目やにがびっしりとついたその間から、じゅわり、と滲むものがある。黒ずんだ頬に描かれた筋は煌めいて、垢まみれの手で拭えばべっとりと広がった。かさついた唇から漏れるうめき声は、か細く、力なかった。言葉にならない声が部屋に、呪文のように染み渡った。


 ふと、男は窓の方を見た。


 打ち付けられた木板の間から光が漏れている。それは天使の指先のようで、昼間のあたたかさをほのかに漂わせていた。差しのべられた手のようでもあるそれが男には、無性に、辛く、だが目を離せずしばらくの間見入っていた。


 本当は、誰かに、会いにきてほしい。

 こんなクソみてえな俺でも、受け入れてくれる、誰かに。


 心の中でつぶやいたとて、辛くなるだけである。男は目蓋をぎゅうと閉じて布団を被った。頭まで、すっぽりと。永遠の繭を夢見て閉じこもった男がまどろみ始めた、そのときであった。


「ねえ、ねえ起きて、起きてってば」


 どこか懐かしい、聞き覚えのある声がした。しかし誰かが来るなど考えられはしない。幻聴か、と男が更に深く布団を被ると、今度は、体を揺すられる感触がした。


「いっしょにお外に出ようよ。今日はいい天気だよ」


 小さな手だ。子供だろうか。狐か狸か、正体を確かめてやろうと男は固い繭を少しだけ破った。


 布団から少しだけ出した顔の中で、目玉がぎょろりと動く。視界には何も入らなかった。なんだ、やっぱりバカにされたかと繭の中に戻ろうとすると、視界の端、窓の傍に何者かが立っているのが見えた。


「おい、誰だてめぇ」


 何者かは答えない。よくよく見てみると、それは小さな子供だった。にこにこと愛らしく微笑んでいる様には見覚えがある。男が布団から這い上がると、子供は、とてとてと部屋の入り口まで駆けていった。色白の綺麗な素足が埃だらけの床に足跡をつくった。


「おい、待てよ、おい」


 子供の行く先にあるのは、長い間、開けていない扉。捕まえようとする男の手も届かず、子供は、ギィと音を立てて扉を開け放ったではないか。男が悲鳴を上げたそのとき、外の空気が一気に流れ込んできて、よどんだ空気を連れ出した。


 悲鳴の理由はそれだけではない。昼間の世界のまぶしさが、男の目に飛び込んできたからである。そして全身を照らされ、惨めな姿を白日の下に晒されたからである。


 ぶるぶると震えながら男は、子供を、睨みつけた。しかしその目はすぐに鋭さを失った。にこにこと微笑む子供の愛らしさに、ではない。狸か狐か、幻か、子供の正体に気づいてしまったのである。


「おめぇは……俺、じゃねえか」


 子供は微笑んだままこくりと頷いた。そこに有るのはかつて、愛を一身に受けていた男の子供時代だった。もう二度と戻ることは出来ない、とうに忘れていたはずの、美しい思い出の日々であった。


 何ゆえ、今更。男は唇を噛みしめた。手を伸ばしたがすぐに引っ込めた、触れれば子供は、美しい思い出は消えてしまいそうな気がしたからだ。男は子供をじっと見つめた。


「なあ……お前」


 ここまで言葉を発したのは、誰かと言葉を交わそうとするのは久しぶりだ。喉を締めつけられたように声が出てこず、男が押し黙っていると、子供は静かに歩み寄って手を取った。やわらかな皮膚に包まれた白い手が、垢にまみれ汚れた手を。そして頬ずりするではないか。


「だいじょうぶ。だいじょうぶだよ」


 まるで天使の声が降るよう。不思議な響きに男がぼんやりとしていると、子供は、男を導くようにして扉の外へと手を引いたではないか。男は初め抵抗した、だが、先の不思議な響きの声が頭の中でこだまして、体が勝手に動くのである。一歩一歩、ゆっくり、ゆっくりと足を出し、床を踏みしめ。


「おああ……」


 外の世界は見事なまでの景色であった。木々は豊かに生い茂り、草花は地面を豊かに彩っている。

 見事なのは空も同じであった。雲間から射し込む幾筋もの光はまるで、差しのべられた手。男が景色に見入っていると、子供の声がした。


「ね、今日はいい天気でしょう」


 そうだな。男が応えようと子供の方を見たときのことだ。


 男の目の前で、子供の姿は、段々と透けていった。慌てて手を伸ばしたが、汚れた手は子供の頬をすり抜け空気を掻いただけであった。小さな体をかき抱こうとしても同じことである。


「どうして……どうしてだよ」


 最後まで見えていたのは、にこにこと愛らしい微笑み。それさえも消えてしまったとき、男は、涙まじりの声を漏らしていた。せっかく会いにきてくれたのに、どうしてと。せっかく外の世界に出られたのに、どうしてと。


 男は地面にうずくまった。久しぶりの草の匂い、土の匂いが、自らの体臭と入りまじる。陽射しのあたたかさは汚れきった体を浄化してくれるかのようだった。ぎゅうと目蓋を閉じ、再び、じゅわりと滲むものがあった、そのときであった。


「だいじょうぶ。だいじょうぶだよ」


 また、あの声が。天使の声が降るような、不思議な響きがしたのである。


「大丈夫、か……」


 男はうずくまったまま、空を見上げた。雲間から射し込む光の筋たちは、今度は、天使のはしごのようにも見えた。登ればどこかへ、違う世界へ行けるような。子供は、かつての自分は、あのはしごを降りて会いに来てくれたのだろうか。


 男はゆっくりと立ち上がった。

 そして、胸一杯に、外の世界の空気を吸い込んで、言った。


「ありがとな」


 会いにきてくれて。


 再び小屋に戻った男は、布団を頭まで被り、体を丸めて、眠りについた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ