所謂リベラルに分類される人々の方が、排外主義的だったり差別的に感じるのは何故なのか?
リベラルとは自由や社会的公正、多様性を重視する姿勢だそうです。
しかし、最近の日本においては、所謂リベラルに分類されるであろう人々が、やけに差別的、排外主義的に見えてしまうのです。
直近の出来事で言えば、「この国を好きで何が悪い」という思いを込めたらしい歌に文句を言って、あろう事かライブを中止する様に訴えたりしているみたいですね。
御霊という言葉が軍国主義的だとか、私にはそういう言動にこそ差別的、排外主義的なモノを感じるのです。
従来で言えばリベラルに分類される思想を持った方々の筈なのに、やけに排外主義的に感じるのは何故なのか?
まず、リベラルはその存在意義を失いかけているのだと思います。
自由や社会的公正さ、多様性って最早当たり前ですから、今更リベラル的思想なんて、必要が無いと見なされているのではないでしょうか。
人権の尊重なんてリベラルな方々に言われなくても、今や誰もがそう思ってませんか?
人種差別はいけない事も分かっています。
リベラル的な思想は国民全体に普及し、それは同時に政治家もそうである事を意味し、自由や社会的公正さはある程度は実現しています。
あくまである程度、ですよ?
つまり、所謂リベラルな主張を持った団体は、言葉が悪いけれども時代遅れになっている。
同時に、本来のリベラル思想を持った方々は、社会がこうなっていく間に、自然と消えてしまった。
残ったのは、似ている様で全く違う別のモノ、なのでは?
そして、リベラル的な思想が当たり前の社会になれば、リベラル側はリベラルであり続ける為に先鋭化せざるを得ない。
それか、彼らは敵を作りたいのかもしれない。
自らの存在意義は敵を批判する事で証明出来ると思っているから、絶えず敵を見つけ出して声高に批判している気がします。
批判する為に批判先を探している、ですね。
考えると、それも仕方ない面はあるかと思います。
人権を弾圧してきたのは常に権力側で、彼らはそれに反対してきたのが歴史ですから。
戦う事こそ、彼らのアイデンティティーだったのではないでしょうか。
しかし、その権力側が人権に配慮する時代になると、リベラルは批判する相手を失いますよね。
彼らは批判こそがその思想の表明手段ですから、政権側を批判出来ないとなると、次の批判の矛先は民衆側になるのでは?
次に、彼らが元々権威主義者であった可能性です。
今の所謂リベラルな方々は、社会がリベラルになっても残った、いわばリベラル原理主義者です。
極端なリベラルは、それはそれで権威主義なのでは?
因みにリベラルの反対は保守ではなく、権威主義だそうです。
権威主義とは権威に服従する姿勢であったり、非民主主義だったり独裁主義だったり、専制主義や全体主義だったり、まあ、つまりそんな感じの主義みたいです。
日本の所謂リベラルな方々って、反対意見には耳を貸そうとしないし、自分の意見が絶対的に正しいと思っている風に見えます。
自分達の意見以外は認めていない風にも感じますし、考え方の異なる人の存在を許さない様に見えます。
これってつまり独善的で独裁的、専制的で全体主義の、権威主義者以外の何者でもない気がします。
現に、共産党は志位委員長の独裁です。
委員長を決めるのに、選挙すらしていない様です。
民主党が分裂し、希望の党とか立憲民主党とか出来て、また合流するとかやっていますね。
考えの違う者を認められずに排除するのは、リベラル的に良いのでしょうか?
多様性の確保はどこに?
所謂リベラルな方々こそ真の権威主義者であるから、彼ら的でない人々に憎悪をむき出しにするのではないでしょうか。
権威で以て従わせようとする。
そしてややこしい事に、既に国民の多数はリベラル的なのですから、彼らの言動こそ権威主義で独裁的に見えるという。
所謂リベラルな方々は、権力を握って彼らの思うままの政治を行いたいだけに見えます。
自民党政権に悉く反対するのも、自らの独裁体質故に、それが出来ない苛立ちに思えます。
愛国心に関しても、大衆には当たり前に感じる感覚であっても、それ故に彼らには許せないのかもしれません。
無知蒙昧な大衆を賢い自分達が教え導こうと思っているけれども、それが全くうまくいかないから、無知蒙昧な奴らめとヒステリーを起こしているのか。
罪を憎んで人を憎まずという言葉がありますが、所謂リベラルな方々は、罪を憎んで人も憎む様に見えます。
罪を犯した人間など許さない心の狭さを感じます。
価値観の違う相手を認めない、排他性を感じるのです。
自分だけが正しいという、独善性もあるのでしょう。
多様性とはかけ離れている様に思えます。
一神教の原理主義者と同じで、愛を感じないのです。
他者への敬意と言い換えてもいいでしょうが、それがある様には思えないのです。
以上、個人の主観に基づく愚考でした。