業務報告 1「浅野智洋の失態」
「浅野サンって何年目だっけ?」
トルク・レンチのクリック音、止まらないリコールの電話、商談ブースの販促モニター。それらの音が鳴り、止み、そして鳴る。
私だけが、音速について行けない。
「19年目です……すみません」
「ねー。俺だって言いたか無いんだけどさ。こんなの新人の丁稚上げと変わらないよ」
入社10年目の早川拠点長は私には目もくれずに、顧客管理用のパソコンに向かいながら言った。
「申し訳ありません」
「頼むよ浅野サン。怒られんのは俺なんだよ。『部下の教育がなってない。』とか言われちゃうわけ」
不意に手を止め、私の方へと体を向ける。
LDLと中性脂肪を注意された私とは異なり、七三分けに黒縁眼鏡と言ったスマートな容姿。薬指の指輪も光っていた。
「すみません」
「さっきからさ。何に対して謝ってるの? 頭下げれば良いと思ってない? 君がやったことはさ、一歩間違えればお客さんの信用と安全に直結するんだからもっと重く受け止めたら?」
「いえ。そうでは……すみません」
「……もういいや。宮林君のお客さんの引取行ってきてよ」
彼は再びパソコンの方へ体を向け、あっちに行けと言わんばかりにヒラヒラと手を上下に振った。
「はい。失礼します」
私は精一杯恭しく頭を下げる。拠点長の前の席で、拠点長同様にディスプレーを覗く新人二人は聞こえないフリをしているようだが聞き耳を立てているに違いない。
私はジャケットを着て表へ出た。出入りの業者や、赤いツナギの整備員に会釈しつつ駐車場に向かう。
社員用の駐車場は拠点から少し離れた位置にあった。
「……あ。マジか」
私のラックルスは下取りの車や整備前の車に埋もれて動かせなくなっていた。駐車場は社用車も含めて雑多に車が置かれていた。
「5Sはどうしたんだよ……」
清潔、整頓、躾、掃除、整理の頭文字。社長の口癖だった。
仕方なく私は拠点へ戻った。整備工場の横を失礼して、ショウルームのバックヤードへの引き戸を開けようとした。
「あの高卒のおっさん、保険継続のミスでさ。俺もてんてこ舞いだよ。保険屋からも部長からもお客さんからも怒られるしよ……。君らはああはなるんじゃないよ?」
「まあ、トミーさん悪い人じゃ無いんすケドねぇ」
「車に詳しくて私に色々教えてくれるんですよ」
「まあ、人柄はともかく、少なくとも仕事の手本にはするなよ? 適当に距離とってさ」
バックヤードでは私の陰口大会の最中のようだった。扉のガラス越しに私にいち早く気づいた新入社員の宮林君は、慌てた様子で早川拠点長を小突く。
拠点長と一瞬目が合ったが、互いに瞬時に目を逸らす。そして、三人は蜘蛛の子を散らすようにショウルームへ戻る。
私もそそくさとショウルームへ入り、車の鍵が入った箱を持って駐車場へ小走りで向かった。
☆
「お。HW5か。まだ走ってんだなー」
信号待ちでハスダの名車を見かけて少しだけ嬉しくなった。
自動車好きが高じて自動車販売会社に入る人間は多い。しかし、大概の場合、それは間違いのような気がする。大抵は車が嫌いになって辞めていくらしい。去年の新人はさっさと辞めて公務員になったようだ。
浅野智洋。37歳。私も、車がまだ嫌いにならないとは言え、選択を間違えたのだろう。それだけは間違いない。
そもそも私が好きな車はモリタ・パスピエであって、ツヅキ・ラックルスではない。社用車として購入したときには必要だったが、離婚した今となってはハイトールワゴンなんかいらないのである。手広過ぎる。
そして、激務の集中砲火だ。定時一時間前に出社し、洗車。日中はノルマに追い回され、親会社から来ている若造からコケにされ、そしてサービス残業と共にやっと一日が終わったと思ったら夜中に「エンジンが掛からない」と電話越しに怒鳴られる。その上給料はここ数年ほぼ据え置きだ。
今やっていることも、新入社員のアシスタントだ。
思い返すほどに虚無感と焦燥の他、特にいらだちが募った。20年前の名車に出会えた細やかな感動は消し飛んだ。
もう少し賢い選択はあったのかも知れない。そう思うことが最近特に多くなってきた。
今の仕事が天職ならば、今頃、早川拠点長は早川君だったのかも知れない。
娘の杏奈には「お父さん、くさい」と言われながらも幸せに生活できていたのかも知れない。
そんな後悔をしていたからだろうか。私の耳は咄嗟に反応しなかった。
大きなクラクションが鳴る。
私は走馬灯ではなく、赤信号で突っ込んでくる、やすずのトラックを見たのだった。
事故割合はいくつだろうか。そんなことが過ぎったが、時既に遅しと言うやつだった。