流人と山伏
俺は、さいたま市の大地主の家―――要するに、働かなくても勝手に収入が入る家に生まれ、今はその実家に住んでいる。
だが、『働かなくても暮らせる』のは表の話。
俺の家は、世界のある秘密を知ったが故に富み、そして役目があるのだ。
全ての始まりは、江戸の初めの頃。
俺の先祖が居た藩に、とある藩の一門だった男が流されて来た。
何でも、初代藩主の末っ子で、甥である前の藩主が就任した際には乱行を煽って隠居に追い込み、幼い藩主を就けると藩政を牛耳り、果ては大老と組んで藩を潰して自分が大大名になろうとしたとも言う。
だが、幼主の毒殺未遂事件や大量粛清、遂には開発した新田争いから一門の一人が幕府に届け出、江戸で審問が始まった。
結審の日、流人の一派とされた男が大老邸で大量殺人事件を起こし、正義は有耶無耶となったが、『藩政を混乱させた』として、最大の権力を誇った男は俺の先祖の居た藩に流されたのだ。
最初のうちは、その流人の所には俺の藩の人間は殆ど近づけなかった。一緒に流されて来た奴らが世話をしていたらしい。
でも、どうしても地元の藩士による手続きが必要だったから、世話役の藩士として白羽の矢が立ったのが、俺の先祖だったってわけ。
俺達の居た藩は、土着の藩士と信長や秀吉の臣下だった初代藩主についてきた藩士に分かれていた。勿論、後者の方が地位が高い。
俺の先祖は前者に属していたので当然ながら出世は見込めない。流人の世話には丁度良かったって訳さ。
で、その流人は最初の頃は何かと問題を起こしてばかりいたらしい。
改革の道半ばにして失脚して、結局藩の体制を変えられなかったんだからそうだよな。
でもある時ご先祖様はその流人に自分の藩の構造についての不満を吐露したら、「どこも同じなんだな」と言って、其れから少し丸くなったそうだ。
七、八年してその流人は体調が悪化し、やがて死の床に就いた。
あるとき、病床にご先祖様を呼び出して、こう言った。
「我が藩の者には話せぬが、この地で抑圧されるそなたにこそ語り置きたいことがある」
流人の話と言うのが――――我が家の現在の家業と地続きだと思われるのだが――――『義経の残党と直に話したことがある』らしい。
え、ちょっと待って欲しい?
17世紀後半の人間が、平安時代末期の人間に会えるわけない?
―――うん、もう人間ではなかったらしいからな、その人。
***
その人は元々、叡山の僧であった。
京が荒れた際に義経の配下になっていた弁慶にとっつかまって、以後強制的に兵士討伐の軍に参加させられた。
扱いもまるで弁慶の手下のようで、義経一行には不満を抱いていたそうだ。
やがて、壇ノ浦で平氏を滅ぼしたのも束の間。
義経の失策で頼朝に睨まれて、東北へ落ちる事になった。
昔義経が世話になった平泉の豪族を頼ろうとしたらしいが、まもなく代替わりして、後継ぎが頼朝の攻勢に耐えかねてとうとう衣川にいた義経を殺して首を届ける事にした。
で、その人はだ。
『たまたま早朝に近くの山寺を拝みに行っていて、帰ってきたらもう館がなかった』などと証言していたらしいが。
流人が思うに、『平泉の変心と襲撃を察して逃げ出したのではないか』と言っている。
但し『義経の遺児を連れ逃げたらしいからただ逃げた訳でもないだろう』と付け足して。
俺も、そう思う。
逃げた先で出くわしたのが、頼朝の御家人にして流人の始祖。
その人はまだ赤ん坊だったらしい義経の遺児を始祖に託したんだそうだ。
そして、その赤ん坊が家を継いで―――要するに、流人の家は義経の子孫って言いたいらしい。
赤ん坊を託したその人は、山伏の体で国中を流浪する。鎌倉には近づけなかったから、その周辺を迂回した。
迂回ついでに、富士山で主らの供養を死ぬまで続けようと思い立ち。洞窟に籠って、行をし続けていたら。
洞窟の天井から、錆色をした飴状の液体が垂れて来た。
思わず指にとって、舐めてみたそうだ。そしたら、ほんとに飴みたいな味がして、そのまま意識が途絶えた。
***
目が覚めてみたら、一気に疲労感がとれた。
精神的にも安定して、その後は幾ら舐めても眠くならなかったそうだ。
否、その日を境に眠りと食を忘れてしまった。
やがて鎮魂を終え、洞窟を出ると――――――――鎌倉の方から、炎が見えた。
***
その後は、東国を中心に日本中を回って、なんとか暮らしていた。
流人の父が――― 一年足らずではあるが―――会津にいた際には、源平の合戦のくだりを詳細に語って、感嘆させた。
ある時、流人の父が「まるで見てきた様じゃないか」と皮肉ったら。
「見て来たんですもの」と返した。
流人の父は驚いて、人を遠ざけて差し向かいになり、どうして今の今まで生きていたのか聞いてみた。
のはいいけど、流人の父は天下や外の世界には興味があっても、不老不死には興味がなかった。
幼い頃に天然痘で片目失明したって話だから、その体で不老不死になってもなあ、って気分だったんだろう。
とにかく、流人の父が会津を離れた後、太平の世になってから再び彼を追いかけて開発が始まったかの地にやって来た。
流人が産まれたのは、大坂の陣より後だ。
男子としては末の子でありながら、最も父に似ていると言われ、溺愛されて育ったそうだ。
勿論、父は流人に例の山伏の話をした。
流人は、「何故、その方は誰よりも長くこの世を見てきた者なのに、世を変えようとはしないのでしょうか」と父に問うた。
父は、「長く見てきてしまったからこそ、変える気にもなれないんだろ」と返した。
さて、有能な末子は戦国の世ならプチ下剋上で家督を奪取できたかもしれないが、泰平に向かいつつある世ではそれも叶わなかった。
そもそもその父親も天下を最後まで狙ってはいたようだが、父親が生まれた時点で、中央は泰平に向かっていたんだからな。
父の死後、流人は藩主御一門の一人として藩を安定させることに注力することにした。
その藩は、辺境に位置していたためか、何処か中世的な制度の残る、改革の難しい藩であった。なまじ大藩であったが為に、家臣団があちこちに散らばっていたのだ。
二代目藩主である兄が死んだ時、まだ二十歳前の甥が藩主になった。
最も有力な一門は、流人だった。
程なく幕府から江戸の掘の改修を命ぜられたが、藩主は芸術家気質で興味を示さない。
そこで殆どの指揮を流人がとったのだが―――――――そこで、件の山伏に出会ったそうだ。
流人は、山伏にその父と同じ問いかけをして、同じように返された。
流人は、「くだらん」と一蹴し、
「長きにわたる不変を、変えてこそ人であろう」と返答した。
山伏とは、それきりらしい。
***
流人は今わの際に、
『山伏の言わんとすることがわかった。人が変えられるのは、ほんのわずかな事柄よ。後は儘、時のいうなりだ』
と言い、
俺の先祖には
『そなたの子孫が件の山伏に逢うたら、飴の正体を共に探れ。人が変えられる物が増えるやも知れぬからな』
と笑いかけた。
流人と山伏の話は幕末まで我が家に語り継がれ―――幕末に転機が起きた。