残夢
※語り手はあくまでピラッツ視点です。
俺達が再び顔を合わせたのは、2月の半ば。
休憩室で俺の顔を見かけた見附が、Jリーグの名鑑片手に駆け寄って来た。
「お、おいあいつ!!」
開いていたのは、横浜FSCの項。指差していたのは、三村敦宏の顔写真。
その背番号は、『17』―――嘗て、見附涼次が背負っていた番号である。
アツがヴィトリアで17番を背負ったのは、6番に先客がいたからである。
横浜FSCはシーズン途中の移籍だったため、末尾の番号。
そのシーズンで横浜FSCの6番だった山内基弘が引退したため、6番だって背負おうと思えば背負えたのだ。
山内はフォーゲルスの先輩でもあったから、6番を継ぐのは恐れ多かったのかもしれない。
でも、俺達からすれば。
「あいつ、俺の番号まで持っていきやがった」
そう語る見附の顔は、少し笑っているようにも見えた。
***
三村敦宏は横浜FSCで3年半プレーした後に戦力外通告を受けた。
戦力外通告は初めてだったらしく、今後の事は暫く考えたいとコメントし、ブログにコメントをくれたり神戸から横浜に駆け付けたりしたサポーター達に感謝の言葉を述べていた。
1月には娘が産まれる事も有り、引退するかどうかは別として暫く家族と過ごしたいとも語っていた。
――――2011年3月11日の惨禍が、アツに一つの決断を下させるまでは。
震災発生から約2週間後、アツは友人の野球選手の要請を受けて救援物資を積み込んだ10tトラックで被災地を巡った。
一万以上の人命が失われた被災地の光景は、彼にどのような影響を与えたのだろうか。
我らが組織?残念ながら、一般人には知られてはいけないという特性上、そういう支援活動は出来なかった。
むしろ、混乱した被災地に侵入し、被災者になり替わろうとする”飛天”の駆除や捕獲に追われていた。
戦闘部門は民間のボランティア団体を装い、瓦礫の撤去などを行いながら駆除活動を行っていた。
被災地出身の構成員が、個人として匿名で給料の数年分を募金したらしいとは聞いたが、それがどの部門の誰かまでは解らない。
流石にそこまで規制するのは非人道的だと判断したのだろう、その人物が特に処分を受けたとは聞いていない。
***
被災地巡りから半月後、三村敦宏は自身のブログで現役引退を発表した。
『現役を続けたい気持ちより、指導者としての勉強を始めたいという気持ちの方が勝った』と綴った彼のもとに『アツさん、早いっすよ!!俺と一緒に松本でサッカーやりましょうよ!!』という一本の電話が届いた。
三村が横浜FSCから戦力外通告を受けたのとほぼ同時期にピラッツから戦力外通告を受け、『最初にオファーをくれた』という理由で当時はまだJFLだった松本嶺雅に移籍していた桝田直紀からであった。
桝田は合併後、中々ピラッツに馴染む事の出来ない旧フォーゲルス組とピラッツの選手の懸け橋を率先してくれた男でもある。
合併直後のチームを纏めるキャプテンを命じられていた俺も、彼にだいぶ救われていた面がある。
見附も、『ピラッツで一番仲が良かったのは桝田だった』と零している。
桝田は戦力外通告を受けた当時ピラッツの最古参選手であり、合併以前からピラッツに在籍し続けている唯一の選手であった。
彼はその闘志溢れるプレーと言動でピラッツサポーターには時に呆れられながらも愛され、それ以外のチームのサポーターからは恐れられ、嫌われていた。
今思うと、ピラッツを一番愛していたのは桝田だったのかもしれない。
何せ、ピラッツの財政が苦しいからと言って単年契約や減俸を自分から申し出た男はそういるまい。
そして、サポーターからも一番愛されていたのも桝田だろう。
彼の戦力外が報道された直後から、サポーターたちが再契約の嘆願書に署名を集め始め、ホーム最終節では桝田のチャントと監督や社長へのブーイングがスタジアムに響き渡った。
俺の時は、流石にそういうのまではなかったからな。
***
その桝田直紀が練習中に倒れたのはそれから半年も経たない、暑い夏の盛りであった。
俺達にとっての第一報は、昼食時のニュースだった。
その時点では、『意識不明の状態で搬送された』としか情報がなかった。
『急性心筋梗塞で心肺停止』『手術はしたが意識は戻らない』と発表されたのは、夕方ぐらいだったと思う。
本当は東京から松本の大学病院まで行ってやりたかったが、俺達はそれが出来る立場ではもうない事は解っていた。
彼の家族や元チームメイト達―――三村敦宏も含まれる―――が続々と見舞いに訪れる中、俺達は業務の最中に祈り続ける他出来なかった。
その祈りも空しく、桝田は倒れてから二日後にこの世を去った。
勿論通夜にも葬儀にも出る事は叶わぬまま、桝田直紀は荼毘に付された。
長年のチームメイトがこの世を去る時でさえ、俺達は別れの挨拶すらできない。
『ピラッツを離れたらサッカー界とは一切の繋がりを断つ』とはつまりそういう事であったのだ。
***
その年の暮れのJリーグアウォーズでは、桝田直紀と三村敦宏が『功労選手賞』を受賞した。
その様子をスカパーで見ながら、
『アツ、お前は最後にあいつの顔を見られたんだろ?その夢叶えろよ』
と呟いた。
***
現在、三村敦宏は民放での解説業をこなしながらJクラブの監督に必要なS級ライセンスを目指している。
そして、引退発表から2年半後に引退試合を開催した。
俺が今録画で見ているのは、その引退試合だ。
横浜フォーゲルスに所属していた選手がJリーグ公式の引退試合を行うのは初めてらしい。
過去にはフォーゲルスのキャプテンだった山内基弘が『フォーゲルスの名を使えない引退試合に意味などない』と引退試合を取りやめた例もあり、フォーゲルスの名は歴史の狭間に永久に埋もれたままになるのかと思われた。
―――まあ、そのフォーゲルスの名称の権利を有し、山内の引退試合を阻んだのは他ならぬ『横浜V・ピラッツ』だったんだがな。
三村敦宏が引退試合を開けたのは『フォーゲルス』ではなく『横浜』という表現を使ったからだ。
その証拠に、『横浜』を掲げつつも『横浜』サイドのユニフォームは殆どフォーゲルステイストだし、引退試合専用のエンブレムに至っては、フォーゲルスとその後継を主張する横浜FSCを足して2で割ったデザインだ。
おい。
横浜V・ピラッツはどこ行った?
『そういうこと』と解釈していいんだな?
アツ。
お前にとってピラッツは鳥籠でしかなかったのかもしれんが。
俺にとっては。
ピラッツに居られた時間だけが、鳥籠の外に居られた時間だったんだ。
俺の先祖に流人が最初に語った山伏の名を言おうか。
『残夢』だ。
俺も見附ももうスタジアムで夢を見る事は許されない身だ。
それでも、今尚俺は横浜国際スタジアムのピッチに立つ夢を見て目覚めるんだ。
見附に至っては、未だにトレフレッシャの夢を見るそうだ。
見附は桂花に、『あんたの恩人の“アツ”が引退試合をやるそうだ』と仄めかしてチケットを渡したらしい。
桂花が本当に三ツ沢に行ったかは、この録画ではわからない。
ただ、確かなことは一つだけある。
三村敦宏の引退試合にはサッカー関係者のみならず芸人や俳優までもが駆けつけ、スタジアムには彼等の横断幕も掲げられていたという事だ。
そして、三村敦宏はこれからも彼等と共にサッカーの世界で夢を見続けるであろう事は想像に難くない。
願わくは。
その夢が彼の生が終わるまで続かん事を。
【残夢】ざん‐む
見果てなかった夢。目覚めて尚心に残る夢。
《終》
背番号の真相なんて、本人にしかわからないと思うけど。
匿名の多額募金って、資産家だけじゃなくてこういう『名前は決して出せない人』も含まれているよね。
自分で書いておきながら上田さん、それは違うと思います。
ピラッツサポは熱くピラッツを愛する選手は熱く愛し、
静かにピラッツを愛する選手は静かに愛したのだと思います。
多分、ピラッツを愛した選手は同等に愛されているよ、皆。