10-(5) 強行軍(天儀の毅然)
日が昇ってから3時間。
氷華は背負ったザックの肩にかかる背負い紐などとも呼ばれるショルダーストラップに両手をかけ一歩踏み出した状態で固まっていた。
足を出そうにも一歩も先に出ない。
氷華の停止で、行軍も止まった。
――またか。
とうんざりした雰囲気が辺りを覆う。
出発前の大将軍演説で、一秒でも早く静かに迅速にという言葉から始まった演説で上がった対大気圏師団の士気。
300名の選抜歩兵部隊は、重鼎への奇襲へ向け一体。
静かに熱を帯び一丸となって山間を猛進していた。
そんな中、夜半の最後の休憩後、なんどか氷華が原因で動きが停止していたのだ。
屈強な男たちから向けられる氷華への冷眼。
氷華は最初こそ気にはしたものの、気にしても仕方ないと切り捨て、体力がないという現実はどうしようもないと心を硬くしはねのけた。
が、今回の氷華は周囲から向けられる冷眼など気づきもしない。いや気づいても、心を巡らす余裕などない。
それほど氷華の疲労は深刻だった。
気持ち悪いとも違うが、気分が悪い。
この気分悪さは、体の冷えだ。と氷華は思う。
四肢の先へ意識を飛ばすと、足先と指先の感覚がないというほどではないが、冷え切っているのがよくわかる。
吐き気は、まだないがこれ以上体調が悪化すれば、嘔吐もするだろうと朦朧とする意識で思う。
――いや吐くまで、動けないでしょうね
と氷華が自嘲気味に思いなおす。現にもう一歩も足が出ないのだ。
いま氷華の視界は暗く狭い。
そんな中、天儀が近づいてきて、声をかえてくれているが、何をいっているか聞き取れない。
氷華は問い返そうとしたが、口が動かなかった。意識だけが動き、唇も舌も微動だにせず、喉を呼吸のためだけの弱い息が通り抜けただけ。
疲れで唇や舌が動かないだけでなく、音が出せるだけの空気が肺から押し出せないのだ。
氷華は目の前に立った天儀から、顔を覗き込むように問われやっと聞き取れた。
だが、天儀から氷華にかけられた言葉は
「どうした。疲れたか」
と、これまでに幾度か繰り返された問が再びされていただけだった。
――他にいえないのかこの男は。
と、氷華は声が出ない代わりにジト目を向けた。
――その問は愚問ですが。
見てわからないのか。疲れているのは、口にせずともわかりきっているだろう。
だいたい疲れたなどと、口にできると思うのか。
氷華は、天儀が難色を示すなか、自身で志願して、無理やりついてきたのだ。
だが
――同時に、もう無理だ。
とも思う。
一歩も出ない。倒れ込みそうなところを寸前で保っているような状態。
だが倒れれば、強行軍というものに無知だった自分愚かさに負ける形となる。意地でも立っていたい。
天儀の問に声も出ない氷華の様子に、周囲にさらに非難の色が漂った。
「いわんことではない。だから無理だったのだ。こんな女を何故連れてきた」
という無言が、氷華の肌を刺し、男たちの険悪な視線が氷華の心を責める。
氷華は疲れで朦朧としているはずなのに、男たちの非難を嫌というほどひしひしと感じ、感じたと同時に心がカッとなった。
氷華は、これだけ疲れているのに、非難の視線を向けられ不満が燃え上った。
いや疲れているからこそ感情の抑制が効かないのか。もう氷華には、判断がつかない。
証拠に、怒りで燃え上がった氷華だったが、やはり疲労で意識は明瞭でない。カッとなったのも一瞬。すぐに燃えあがった怒りの炎は鎮火し、疲労だけが氷華の心身を再び襲っていた。苛ついたせいで余計疲れたとも感じる。
「とにかく倒れてはならない」
と氷華は、歯を食いしばってショルダーストラップを握った手に力を込め、顎を少し上げた。動作で、少し気が紛れ楽になるが、すぐに疲労感が襲ってくる。
周囲から露骨なため息がもれた。いや300名とう塊全体の氷華へのため息。
瞬間、氷華のジト目が、ぎろりと動いた。怒りからだ。
疲労のどん底の氷華。いまの氷華は体が鉛のような状態。目を動かすのがせいぜい。
それでも思考だけはできる。
自分が、いなければ九鼎のメインシステムの奪取はどうするのだ。奪取した後の制御もだ。九鼎のシステムを使って、電子戦を行うのに自分以上の適任はいない。
強襲部隊の電子班など、電子戦司令部の氷華からすれば
「はぁ、電子戦担当?ご冗談を。それは電子戦ではなく、ソフトウエアを起動しているだけですよね。ソフトウエアを起動して、ちょっとした操作をするだけなら猿にでもできるんですが、それを電子戦とはご冗談ですよね」
というもので、全く役に立たないだろう。
「私が、いないとあんたたちは死ぬのよ。だから大将軍が同行を許可した。私がここに居るという意味をもうもう少し知れ」
と氷華は激しく思うが、疲労だけでなく怒りすぎて逆に声がでない。
憤った氷華がさらに思う。
「私が使えないんじゃなく、まだ能力を示すべきところにいないだけ。なんで今しか見れないのか。この脳筋どもは頭が悪いにも程がある」
氷華が珍しく憤慨し、怒りに打ち震える。
辛いから優しくしろとは、思わないが、それにしたってひどい仕打ちだ。体力があり強い人間が、疲れて弱っている人間へ何故批難を向けるのか。
氷華が心を激しくしていた。
氷華の思考は、疲労でもうまともに回らない。感情の制御も上手くいっていない。
強襲隊員たちのため息なかに、氷華の怒りが紅一点。
場を、そんな気まずい空気が支配するなか天儀が動いた。
「千宮氷華の同行は、大将軍である私の意向だ。彼女の存在は、重鼎の確保には不可欠。この攻撃は、あらゆる無理を押していく。彼女が今ここにいるのは、私の無理を聞いたが故だ。責任は私にある」
暗闇に天儀の声が響き、300名の驚きを伴った視線が天儀へ向いていた。
その視線には、
――わかったから静かにしてくれ。
という焦燥があるが、天儀はかまわず言葉を継ぐ。
「彼女なしに、重鼎の制圧はありえない。電子中枢の集まる九鼎がままならないからな。我々が血と銃弾で、重鼎を強奪しようと、九鼎が制御できないのであればどうしようもない。彼女は、我々が奪ったものを確保してくれる存在だ。欠かせない」
作戦は当然、隠密行動で私語は厳禁。
この作戦にあたって天儀は
「枚を含ませて行くか」
という冗談すらいっていたのだ。
――枚。
とは、兵馬の口へ含ませる棒状の板だ。これを兵馬にくわえさせて進むと、喋れなくなり静かな行軍となる。小さな板を口に噛ませるだけで、馬ですらいなくことができないのだ。
古代から長い期間、奇襲や夜討ちなどに使われた。
静かに行軍させるのに、
「喋るな」
と指示を出すより
「これを口へ含め」
と指示するほうが単純でかつ効果的。
指示を守るように指導する側も黙らせるより、板を噛ませるほうが、指示を徹底させるのが簡単だった。
これは多惑星間時代でも同じ、いまでも隠蔽率を重視する歩兵の展開には、これを使うというマニュアルもあるぐらいの静かに行動するという点において最も単純で効果的な方法だった。
重鼎への攻撃は300人。この一人づつが、小さな声で喋ればそれだけで大きな音となる。
そう、いま進むルートに何がひそんでいるかわからないのだ。
降下部隊が、登山者の目に止まり、通報される危険を考えると、徹底し過ぎということはない。
障害物を間に寸前ですれ違った場合を思えばいい。音は視覚的な障害物を越える。
危ういところを木々で視界が遮られていたのに、音でばれては口惜しい。ありうることだった。
この攻撃は、見つかってしまうという状況も当然考慮されているが、できれば見つからないことに越したことはない。
それをいま、天儀が自ら破っていた。
天儀の
――千宮氷華への批難は許さない。
とう毅然とした態度に、場が圧倒されていた。
氷華は、天儀の毅然に救われた気分。
――そうだ。私なしで奪った重鼎の確保は難しいんですよ。理解しなさい。
そう氷華は思い。
天儀は自分の価値をわかっている。無理やり同行し、こうして苦労しているかいあるとすら思った。
罪悪感と理不尽で、押しつぶされそうになっていた氷華の心がいまは軽い。
あんな屈強な男たち全員から不満を向けられても天儀は、氷華を見捨てなかった。
疲労に打ちひしがれる氷華が心を揺さぶられていた。
天儀の一声は、氷華を救い彼女の士気を高めていたが、一方強襲隊員たちはどうか。
彼らは、いま大将軍天儀が、どういった裁量を見せるのか注視していた。
大言を吐いたからには、不満の原因どう解決するか、
――で、この疲労で潰れ一歩も動けない女をどうするんですか
という厳しさが天儀へ突き付けられる。
強襲隊員たちからすれば
「彼女をみんなで、代わる代わる背負って運べ」
という凡庸な指示を出せば、失望し、見切りをつけるしかない。
「俺がつれてきたから居る。不満を出すな」
などと大見得を切るなら、なにか面白いことをしてくれるのだろう。
これが300名の天儀のへ視線の意味だった……。




