(閑話) メンタルチェックと士気と氷華(上)
遺伝子技術や義肢の延長線上にある義体技術が進んだこの時代、より重視されているのは精神の安寧。
人々は歯の検診を定期的に受けるように、精神の検診も定期的に受けることがあたりまえとなっていた。
メンタルヘルスの診断は、精神医療用に特化した演算装置を使い人間の精神状態を分析する。
手を判定機械にかざす簡単なものから、スキャナーの前に30秒ほど立つものなど様々ある。
心的外傷後ストレス障害(PTSD)の問題を常に抱える軍では特に重視されており、作戦行動中でも2日に1回検診を受ける。
それで精神状態不適合となされたものは休暇が与えられたり、後方に回される。定期検診以外に、戦闘後などは必ず診断することが義務付けられていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
この日の朝、千宮氷華もブリッジでの業務開始前に、メンタルの定期検診を受けた。
検診といっても、機械の前に手をかざすだけ、服もなんだってかまわない。簡単なものだ。
そして診断結果は、
――緑。
つまり精神状態は良好。
氷華は、
「今日も一日業務を頑張れてしまうというわけですね」
と、思いつつ廊下に出て、そのままブリッジに入った。
三交代制の艦艇勤務にあって時刻は業務開始10分前、氷華はまず大将軍である天儀の今日一日のスケジュールに目を通す。
氷華は天儀付きの秘書官。大将軍である天儀のスケジュール管理も仕事の内だ。
いま艦隊は『重鼎攻略作戦』の始動直前。作戦開始に向けて色々と立て込んでいる。
氷華が業務内容を手早くチェックしていると、天儀がブリッジに入ってきた。業務が開始されたのだ。
氷華は、天儀へ敬礼し10分間で頭の中で整理しきった膨大な情報をざっと報告。
「今日の最初の業務は、艦内巡回です」
と、最後につげて天儀をジト目で見た。
「では行こう」
天儀が朗らかな雰囲気を醸し出して氷華をいざなった。
黙ってうなずき天儀の後に続く氷華は、どこか嬉しそう。
いまは戦争中、しかも最前線。浮ついた気分は厳禁。
だが氷華は、
――こうやって2人きりで歩けるのは悪くないのです。
と思いつつ秘書業務に小さな幸せを見つけて楽しんでいた。
艦内巡回、
とは、普段天儀と絶対に言葉を交わすことなどない兵員たちに声をかけて回る、つまり激励。
集結したグランダ艦隊で『重鼎攻略作戦』へ向けての準備が進むなか、兵員たちの士気向上を狙っての行動だった。
氷華は天儀に従いブリッジを出た。
従いといっても、ちょこんと横に納まり、天儀の連れ合い気分。
そんな気分の氷華の心中に、
――ここがオシャレな通りや、観光地だったらどんなに楽しかったか
などという思いがよぎり、瞬間
――まあ、艦隊を率いての大遠征ですから、旅行という範疇に収まらなくもない。
という皮肉が思い浮かんだ。
氷華はさらに、
「というかここは星間連合国内です。外国です。海外旅行にきたと思えば、しかも泊りがけですよ。おお、こう考えるとすごい。気分が盛り上がってきましたよ。昼食は豪華客船の高級レストラン、その後は船内の巨大シアター、夜は夜景の綺麗な高級ホテルで宿泊。最高じゃないですか!これはもう完全にお泊りデートですよ!」
と、無理やり思ってみるも虚しさも大きい。
一見すれば真面目に大将軍に従う秘書官殿の脳内は、完璧に薄紅色の妄想で埋まっていた。
この氷華の浮つきにも理由がある。
巡回中の氷華は、無表情のジト目で天儀に続くだけですることがない。つまり暇でしょうがないのだ。
氷華が薄紅色の妄想で埋もれるなか、大将軍天儀は、すれ違う兵員に笑顔を向けながら声をかけていく。
天儀に声をかけられると誰もが敬礼、その後の反応は様々。少しはにかんだ笑顔を見せるものもいれば、終始表情を崩さないものもいる。
だが誰もが全軍の長から声をかけられ悪い気はしていない、というのが氷華から見てもよくわかった。
従う氷華には今一わからないが、天儀は自身の巡回が士気維持に極めて重要な業務と考えているようで、頻繁に艦内を歩き回っている。
氷華にとって仕事とは、誰に見られていようが見られていなかろうがただこなすべき物なだけである。
氷華は、
――上官に激励されたところで、成果が変わるのだろうか。
という思いを内心いだきながら天儀の後に続いていた。
氷華は、天儀の横について歩くだけで、ご満悦、浮きに浮き上がる自分のことなど思いよらない。
自身のことは棚に上げ、氷華は自分と兵員たちを重ねてみることなど一切しなかった。
氷華の先を歩く天儀はさらに艦内を進み、入り口に『体育調練室』と書かれた部屋に入っていく。
――中で汗を流している兵員へ声をかけるのね。
と、思い氷華も後につづいた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
体育調練室、
は、通称トレーニング室やトレセンなどと呼ばれている場所で、乗員の体力維持と健康のために欠かせない施設。
艦上勤務になると、業務の一環としてかならずおとずれる場所でもあった。
天儀がここを2日に1回は、必ず利用していることを天儀のスケジュール管理をしている氷華は知っている。
そして氷華は、ここが苦手だ。
――男女別にすべきなんですよ。臭いが嫌です。
そう、ここは汗臭いという月並みな表現がよく似合う場所。
いまは白兵戦までこなす空挺隊の30名前後が利用していて騒がしい。
空挺隊とは、諸部隊なかでも精鋭の集まり。大和乗艦している空挺部隊は、もうすぐ行われる重鼎攻略作戦にも当然参加する。
氷華は、
――なるほど、次の作戦へ参加する精鋭さんたちへの激励。たしかに重要ですね。
などと思いつつ、天儀へジト目へ向けていう。
「空挺の激励ですか」
「そうだな。いっちょ揉んでやるぜ」
天儀は、そういってから氷華に、ここで待ってろといって更衣室の中に消えていった。
それをけげんに見送る氷華。運動している兵員に声をかけるのではないのか、なぜ天儀は更衣室に入っていったのか。
氷華には、天儀が何をしようとしているのか全くわからなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
しばらくして更衣室から出てきた天儀は、真っ白な上下に黒の帯という姿。
これに氷華は、
――何故カラーテの格好?
と、思い天儀へ疑問のジト目を向け
「カラーテでもするのですか」
と思わずいってしまった。
氷華にとって天儀のこうどうの意図が全く読めない。
だが天儀は、それを聞いても笑って応じただけだった。
体育調練室には、ウエートトレーニングやバイクマシーンが置いてある部屋の奥に、板の間の運動室と、床が柔らかいマットになっている格闘術訓練場が併設されている。
天儀は、氷華を伴ってその格闘術訓練場へ入っていく。
格闘術訓練場では、天儀と同じ白の上下に、黒い帯をまいた隊員たちが揃って同じ動きをしていた。
いま、室内では、本格的な運動に入る前のウォームアップといった運動が号令の下に行われている。
そんな風景を見て氷華は、
――なるほどカラーテじゃなくジュウドーね。
と、思った。
氷華は大して詳しいわけではないが、士官学校時代に授業でやったことがあったのでピンときたのだ。
そんな氷華に、天儀が笑いかけながら
「そう柔道だ。空手はやったことねーな」
と笑った。
今日の天儀はどこか子供っぽい。氷華はそんなことを思った。
「悪いが待っててくれ。1時間ぐらいだな」
といって天儀が白い群れの中に混ざっていく。
思いがけない天儀の行動に、
――え、一緒にやるんですか?!
と、氷華は驚いた。
氷華から見た天儀は、自分よりは大きいが、男としては背は小さい。
氷華は天儀の背中を驚きの目で見送ってから、天儀の周囲に目を向けた。
――皆大きい。
さすが精鋭部隊といったところだ。
だが、氷華が天儀の予想外の行動に驚くなか、とうの天儀は隊員達と一緒に気分良さげに屈伸している。
天儀の横には、天儀の倍はあろうかという大きな男。その周囲の男たちも大きい。
氷華はあらためて
――あれと、一緒に取っ組み合いをするんですか?!
と、思い。
どうなってしまうのか、氷華はすでに気が気でなかった。




