8-(2) 紫龍の悲願
「帝の内示で編成まで動き出している。星間戦争の再開は間違いない」
そんな確信を胸に李紫龍は、天儀の執務室をたずねていた。
これまでの六軍編成と呼ばれる六個の艦隊が、上・中・下の三軍に編組されつつあった。
どう考えても戦いに向けての動きに違いない。
このような動きがあれば李紫龍でなくとも軍人なら誰もが戦争再開を予感するだろう。
紫龍は、
――開戦間近。
と、いう軍中枢から匂い立つ戦争の香りを鋭敏に感じ取っていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
李紫龍の実家の李家は、代々軍人の家系で、祖父は知らぬ者のいない名将である。
しかし祖父は星間戦争でその名を地に落とした。祖父の雪辱は紫龍の至上命である。
――何としても今回は前線に出て戦功を立てたい。
というのがいまの李紫龍。
前回の第三次星間戦争は、結果的にまったく振るわなかったとはいえは、紫龍の隊は後方支援どころか予備軍とされて天京に残された。
今回、紫龍は本隊に付属する部隊になりたい。いや、欲をいえば先鋒が望み。
つまり李紫龍の天儀訪問の目的は「直談判」だった。
決意をみなぎらせる李紫龍が、第二戦隊司令執務室へ入ると司令天儀が出迎えた。
――若いな。
と、紫龍は思った。李紫龍の天儀への初見の印象はこれだった。
近いうちに全軍の長たる大将軍へ指名されると目されている男は、李紫龍が想像していたより若かった。
惑星秋津の圏内軍出身だと聞いていたので、紫龍はもっと歳を重ねた落ち着いた中年を想像していたのだ。
だがそんな想像より若かった男に、紫龍は部屋に入った瞬間、圧倒されるものを感じ肌にあわが立つ思いだった。
自分は、満身に気をみなぎらせてとまではいわないが、覚悟をしてここに来たのに、それが部屋に入った瞬間に気圧されたのだ。
相手を圧倒しようと入ったのに、それが逆に呑まれたとすら紫龍は感じ、若干の苦味を覚えた。
一方の天儀は、李紫龍が扉を開けた瞬間に、赤黒い炎を感じた。人の形をなした黒炎を吹き上げる人形。つきることのない炎が戸口に立っている。
天儀は部屋の扉が開いた瞬間に、熱風をうけ面皮が焼けただれるような感覚を受けた。それほど李紫龍の気迫は凄まじい。
天儀は、そんな李紫龍を見て
――黒々と燃えている。
と、思い。同時に早々に燃え尽きるという危うさも見た。
天儀が、そんな思いをいだきながら紫龍を見つめるなか、李紫龍は自らの職分を名乗ると直訴を開始した。
「天儀司令、私を是非、三軍の末席お加え下さい。先鋒にお加えくだされば、陛下の赤子として我が隊は死を恐れず戦います」
力強く言う紫龍に、天儀は視線を向けながらも
「そうだな」
などと煮え切らない態度で、返答を濁してから
「前回は」
と、短く問うた。
「後方で、予備です」
紫龍が間髪入れずに鋭く応じた。
「なるほど、その顔で先鋒を願い出たろ」
「いえ」
と、紫龍が力強く即答した。紫龍からして天儀の言葉の先がわかる。
――気負いすぎている。
という趣旨のことをいいたいのだろう。確かに今の自分の性急さは、戦功を焦っているとか、死に急いでいるとか、いう印象を相手に与えるはずだ。
前回の第三次星間戦争の折には自覚はなかったが、今はわかる。だが、それがどうしたというのだ。
紫龍は、天儀の言外の含みへ応じて、
「もっと凄まじい気迫でしょう。何せ諸肌脱ぎで、拝稽首でしたから」
と、あえて挑むように放っていた。
これを天儀が無表情で受けた。
拝稽首といえば最も思い礼で、君主へ向けるような礼。加えて諸肌脱ぎとは驚きである。片肌脱ぎなら礼法なり、戦いへ決意を示すが、諸肌脱ぎとは罪を認めた状態である。
ようは李紫龍は、自分は祖父の罪を着ているので、どうか罪を贖うために先鋒でお使いくださいと決死の嘆願をしたのだ。
天儀からして、いま目の前にした紫龍を見るに、当時の李紫龍という男の気迫の凄まじさがしのばれる。
それを想像すると、故人で前の大将軍衛世もさすがに扱いに窮したろうな。などと、天儀は内心苦笑もした。第三次星間戦争の折の軍の責任者が衛世だ。
一方、紫龍は自らの凄まじい言辞に、特に変容を見せなかった天儀へ
「あの時は、死相が出ていると言われました。今は、そうでもないと思います。それに死ぬなら敵の三個艦隊は、道連れにしますよ」
と、不敵に笑ってみせた。
「結構だな。敵は9艦隊、3個減れば6になり、こちらの6個艦隊と同数になる」
この天儀の言葉に手応えがない。と、紫龍が疑念のような苦さを感じる。
自分は、いま声の調子こそ変えなかったもののかなり気迫をこめたのだ。それなのに天儀の体貌の様子に変化はなく、感情の色が出ない。
普通、自薦を不採用とするなら向けられた語勢を挫くために、相応の気迫で応じてくる。だが、天儀から返ってきたものは気のない返事だった。
「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」
紫龍が別の角度から天儀を攻めた。勢いで押せないなら、弄言となっても弁によるしかない。
「上杉鷹山か」
李紫龍がうなづいてから言葉を継ぐ
「志ある者は事ついに成る。ともいいます。天儀司令は、私が気負いすぎとご懸念なのでしょうが、物事をやり抜く力というのは思いの強さであり、情熱です。私の言辞に先鋭すぎると危うさを見たなら。あえて用いるべきです。事を成すか、成さぬか結局のところ思いの強さであり、情の強さでは軍内で私に並ぶものはいません。大任を与えていただければ必ずやり抜き事を成します」
「なるほど、事の成否は、やり遂げることにある。途中で諦めなかったものだけが成功する。これを逆説的にすれば諦めなければ、いつかは成功する。確かにそうだが」
天儀は、そこまでいうと
「長い」
と、小馬鹿にした態度でいった。
これに紫龍が内心、ムッとした。
天儀の小馬鹿にしたような「長い」は、紫龍の出した二つの故事ことわざをいっているのだろう。
紫龍としては、この程度のことで博識を披露した覚えはないが、自身の知をさげすまされた思いを覚えた。
結局、李紫龍は、天儀の手の内だった。天儀の気を引こうとしているのに、逆に挑発されている。
そんな紫龍が、長い、の一言に不満もあらわに応じた。
「では、司令殿はどのような言葉で、これを表しますか」
「今、女は画れり」
紫龍の表情が疑問でゆがんだ。
「君は諦めた。これだけですか」
「力足らざる者は中道にして癈す。今、女は画れり」
そう天儀が補足していいなおすと、
――うっ。
と、いう表情が紫龍にでて言につまった。
天儀が付け足して補った言葉をわかりやすくいうと、
――実力がないものは成功しない。今、君は諦めた。
と、いうことである。
語義は、実力がないと諦めることが挫折であり、成功するまで続けるかぎり挫折はない。挫折がないなら、実力不足ということもありえない。そうなれば事の成否とは、諦めるか諦めないかだけである。
つまり、今、女は画れり。とは、力が足りないから成功しないのではなく、諦めたから成功しないということを凝縮した言葉だった。
――存外この男。学がある。
と、李紫龍に苦味が走った。同時に舌戦で敗れたとも感じた。
天儀が口にしたのは論語だろうと紫龍は記憶している。まさか軍人から、それもその手の教養のなさそうな男から孔子が出るとは思わず。不意を突かれ、上手く応じることができなかった。いまのやり取りを問答ととらえれば完敗だった。
紫龍は、自分は諦めない強い意志で事をやり抜くと自薦したのだ。いま天儀から出た言葉を聞いて疑問を呈していては話にならない。
李紫龍が焦りいら立つ。
部屋に入った折に若いと思ったのがいけなかったとも紫龍は思う。
見くびったわけではないが、老獪のある故衛世と違い言葉を尽くし情熱をしめせば説得できると思ってしまったのだ。
それに何だこの男は、自分がいくら気を向けても、涼やかにいなされて手応えがない。この点も衛世将軍と違う。故大将軍は、自分の気迫をまともに受けても動じない感じだった。
言葉に窮し、論破された苦味を覚える紫龍だったがなお引き下がらず
「秋津の内乱鎮圧では、帝から直々に先鋒に指名されております。今回もそうしていただければと思います」
と、あえて挑発的なことを言葉にして向けてみた。
これで目の前の男にも感情に色が出るだろうと、紫龍は踏んでいた。
天儀は秋津出身で、その将校だったわけで、威圧するように今の言葉を放てば、当然無礼である。そして、あの瞬間だけへ目を向ければ両者は敵である。紫龍の語勢には、お前など軽く捻り潰したぞ、というような色さえにじませた。
相手に、おのれの感情をいなされるなら、相手を感情的にしてしまえばいい。多少強引な手だが、李紫龍の狙いは、天儀の心の余裕なくす、これだった。
紫龍から暗に挑発された天儀だったが、これ聞いて天儀の脳裏をよぎったのは、戦いがないと踏んで、帝は紫龍へ先鋒をお命じになったなという冷徹な分析だけだった。
天儀が思うに、星間戦争では退けた李紫龍の先鋒起用を、秋津侵攻では採用したのは、血気にはやる李紫龍への気遣いだろう。
これは戦いなしに秋津側が降伏すると楽観視しただけでなく、仮に戦いとなり、紫龍がまかり間違っても窮地に立っても玉砕はしないと踏んだというのもわかる。何といっても李紫龍の悲願は、祖父李紫明の雪辱。星間戦争で名を落とした李紫明、その雪辱は星間戦争が相応しく、星間戦争の再戦は必ずある。紫龍は、惑星秋津で死んでは、志を果たせない。
容貌に変化なく、特に反応の色を示さない天儀。
この天儀の様子に紫龍は、焦燥し胸間に波が立ち、気が急いた。
「加えて半年前ほど前に帝の臨席の下での参謀本部指導で行われました大規模演習でも先鋒です。シミュレーション上ですがね。それでも先鋒です」
紫龍が重ねて『先鋒』という部分を強調していった。
紫龍が思うに自分は、年齢的に若く一個艦隊の長の抜擢は難しい。ならば主力艦隊の先鋒部隊で使われたい。
一方、天儀は、これを聞いて李紫龍は、やはり帝に愛されているなと感じた。
死なれては困ると、星間戦争では決死の嘆願を退けたが、李紫龍の思いはそれではすまない。後方で予備とされたのは、大いに不満だったことは、帝にしろ衛世にしろわかっていたはずだ。その後の大演習では、先鋒に起用したのは紫龍への気遣いだろう。
――なるほど、李紫龍は、かなり帝から目をかけられている。
と、天儀は思う。
確かに、いま天儀が目の前にする黒々と燃えているが、その黒さを除けば颯辣とした爽やかな強さが残る。帝はそれを愛しているのだろう。
天儀の目の前の李紫龍は、いま帝から河へ飛び込めといわれれば躊躇せずに飛び込むだろう。意味など考えない。そんな愚直ささえ感じさせる。
血筋よく歴代皇帝の忠臣にして、祖父の雪辱を願う篤い孝心、若く純粋で颯爽とした美男子。威風もあり、帝の好みそうな男だった。
「では、私と戦うことになっていたろうな」
やはり天儀は、紫龍の挑発のような言葉を、あっさり流した。そして気負った調子もなく継ぐ。
「あの侵攻の折に、私は周公恩へ、戦おうと進言した。仮に採用されていれば、いい出したものが先ず戦う事になったはずだ」
「では、天儀将軍は命拾いをしたと思いますよ」
紫龍は、凄まじい覚悟でこれを口にした。言い過ぎかと思ったが、強い気迫を向けても目の前の男からあまりに手応えがないので、さらに攻めた。
が、天儀からは特に応答はなかった。
いや寂しい目を向けられた。その弱者を見るような目の色に、李紫龍が困惑した。
天儀は、李紫龍は確かに強いだろうと思った。天儀は、紫龍から提出されている星間戦争に関する作戦案や、艦隊決戦へ向けての新式陣形などの論文を読んで知っている。
だが、いま天儀は、李紫龍を目の前にしたことで、紫龍の強烈な強さは、弱さの裏返しだろうと直感した。
そう李紫龍の強さは、思いの強さを、言い換えれば情の強さ源泉とする。
作戦立案、指揮能力、統率力、あらゆる軍人としての能力に秀でている紫龍の能力の原動力は、帝の忠臣たるという強烈な思い込み。
李紫龍の盲目な忠誠心は、恋愛の感情のそれに近い。
――これは危うい。
と、天儀は見た。
一方、紫龍は、天儀から悲恋の情のような哀れみを向けられ
――哀れみを受ける覚えはない。
と、心を敏感にしたが、鼻で一呼吸し心を沈めた。
熱くなった心を冷やすようにして呼吸をした紫龍が思う。相手を挑発しようとしたのに、こちらが頭に血を上らせては世話はない。天儀司令が、自分を先鋒に採用する気が薄いと焦り策に走ったが、どうも策を弄したことで逆手に取られたきらいがある。正攻法で嘆願することにした。
そうと決まれば言辞を低くし願い出るまでだ。今更苦しいがそれしかない。どうしても本隊に加えてもらいたい。そして出来たら先鋒を務めたい。
「言葉が過ぎたことは謝罪します。罰も受けます。ですが我隊の精強さは、グランダ軍で一、二を争います。これは模擬戦の記録を見ていただければお分かり頂けるはずです。どうか末席にお加え下さい。誓ってお役に立ちます」
言葉を口にする紫龍のその顔は必死。そして言辞には、やはり紫龍の若さゆえの性急さかが出ている。
天儀が、そんな紫龍の必死の言葉と気迫を受け流すように問い返す。
「そうまで望む君は、戦って何を得たい」
紫龍は唐突にして天儀から核心部分を問われて内心困惑した。
だがここで本心を隠して言葉で飾っても逆効果に思えた。自分の信条にも反する。はっきり口にする。
「戦功を立てたいのです」
「結構だな。皆、戦功は立てたい。君も例外ではない。そして、その望みは勝ちへ繋がる」
「では、我が隊を本隊へ加え、そして先鋒でお使い下さい」
「そうはいうが全員が先鋒を務めたいとか、持ち場はどこが良いと願い出てきたら私は困る。君を特別扱いはできない。君を先鋒にすれば、他の人間の嘆願をも聞き入れなければならない。全員の要望は入れることは不可能だ」
「ですから私の履歴を見て頂きたい。軍へ提出している新型陣形もお眼鏡にかなうはずです。それに特別扱いして欲しいといっているのではないのです。この李紫龍を活用して欲しいと言っているのです」
継いで紫龍は
「必ず戦功を立ててご覧にいれます」
と、力強く付け加えた。
これに天儀が、ついに語気を強くして応じた。
「何故、戦功を立てたい」
これに、ついに来たと、李紫龍が息を呑んだ。今の天儀の語勢は感情が乗っていた。
が、即答に出来ずに言に窮し、押し黙った。
天儀が理由を教えろと、視線を鋭くするなか、紫龍が言葉を継ぐまでに間が生じた。
紫龍の中に、いい切ってしまっていいのかという迷いがあったからだ。だが口にする。
「祖父の雪辱をしたいのです」
苦しさを越えて宣言するようにいった紫龍。
紫龍は、祖父紫明の雪辱をしたいと口にすれば、祖父の罪を認めることになるような気がして嫌だった。
あくまで李紫龍の根幹には、祖父の紫明は忠臣で、罪なくして不当に汚辱にまみれているという思いが貫かれている。
だから第三次星間戦争で、諸肌脱ぎで当時の大将軍である衛世の前に出たときも、黙って迫るだけで思いを口にはしなかったのだ。
そして何より、祖父のことは私情である。部下を付きあわせていいのか。理由として、祖父の名誉回復は独りよがりに過ぎる。自分は部隊の長だ。部下がいる。
そんな逡巡が、紫龍の中にはあった。
それをいま、天儀には口にさせられていた。
今回は、本隊、それも実戦部隊に加わらなければ当分戦争はない、という紫龍の予見がそうさせていた。
前回まともに戦わず講和し、今回は間違いなく激しい交戦が予想される。いや、これまでどおりの艦隊決戦などなく、小競り合いで終始し講和しようと、今回の戦いで星間戦争は節目を迎える。李紫龍にはそんな予感があった。
戦って雪辱するには、今しかないという焦りが李紫龍へ言葉を口にさせていた。
いまの李紫龍は、いまあられもない赤心を晒したといっていい。李紫龍ほどの男ともなれば、赤心を晒すというのは、その裸体を晒すというより恥辱を伴う。
だが、もういってしまった。いってしまったついでだ。
「功名を立てて、祖父の名誉を回復します。私の至上の命題です」
と、紫龍が再度語気を強くしていった。
だが、天儀は
「だめだな」
と、応じ、紫龍の熱さをあっさりかわし
「私情のために、陛下の兵を危うくすることは出来ない」
と、継いでいった。
この言葉に、紫龍の顔に怒気の色が浮かび上がる。天儀の言葉に祖父を暗に侮辱されたと感じたからだ。
李紫龍は、幼いころに史学の授業で祖父を知った。
歴史の教師は、第一次星間戦争の顛末を一通り説明し終わると、紫龍を指差して、
「あれは愚将の孫で、そのせいでグランダは未だにその恥をすすげない」
と、なじった。
第一次星間戦争戦からもう約40年、星間戦争の研究は進み、第二次星間戦争が起きる頃にはすでに、A・ゼークトの無謀な計画案も指摘されることとなっていた。
だが、未だに李紫明の悪名は世間に名高い。一度流布された説はすぐには払拭しがたい。
これだけ根強く残るということは、それだけ李紫明の人物が重かったともいえるが、この世間の冷たさは、幼い李紫龍をひどく傷つけた。
こんな思いがこみ上げてきた李紫龍は、怒気を体貌へとみなぎらせ、
「私が、李紫明の孫だからですか!」
と、目を真っ赤にして放った。
紫龍は若く真っ直ぐな感情を隠そうとしない。
天儀は、この紫龍の感情を正面から受け
「違うな。私は先日、近衛隊のベッカート少佐にA・ゼークトのような愚を犯すのかと批判されたよ」
と、応じた。
紫龍が、けげんな顔になる。
いまの言葉は、先程までの受け流すような天儀の様子とは随分ちがう。紫龍には、今回、突然として自身の向けた心の拳をがっちりと受け止められたという感触がある。
――思いがとどいたのか。
とも紫龍は思ったが、その淡い期待を即頭のなかで打ち消した。
いや、あれだけ感情的に攻めて無理だったのだ。真っ赤になって怒れば、それこそ逆効果だろう。加えて大の男が目に涙さえ滲ませているのだ。侮蔑されるだけだ。では、天儀のこの様子の変化はなんだ。この李紫龍をどうする気だ。紫龍にはわからない。
とまどいが濁流なって心を怒涛と流れ、紫龍の胸懐を当惑という感覚が覆っていく。
「つまりだ。物事はきちんと順序を追ってみれば意外に真実が見える。どんなに虚で塗りつぶし、取り繕ってもだ」
やはり紫龍には、話が見えない。目の前の男は、何がいいたい。
そんな紫龍へ、天儀がはっきりつげた。
「戦争の責任は、ゼークトの妄言を取った景帝にある。紫明将軍は、帝の代わりに死んだ比類なき忠臣である。その首一つで、グランダを保った。自らの軽重をよく知っていたのだ。そして最も効果的に活用した。これは星間連合九軍を一人で制したのと等しい」
重い言葉だった。
紫龍は、皇帝を真っ直ぐ批判した天儀に言葉が出なかった。そして気づくと何故か涙を流していた。
天儀は特にそれをとがめるふうのもなく当然のことように受け入れた。それがまた紫龍の心をついた。
いくら紫龍が語勢に乗せて気迫を向けても涼やかにしていた天儀が、いまは巨大な温かさを放っている。
天儀は、ただ静かに李紫龍の応答を待ったのだった。
ややあって、紫龍が、取り出したハンカチで顔をぬぐい。天儀へまっすぐ顔を上げる。
瞳は透き通り、その顔にもう迷いはない。
これをみとめた天儀が、
「君の言葉は帝へ伝えよう。確約する」
と、約束を口にした。
そして、
「我らは、兵が死んでも一々悲しんだりはしないが」
と、前置きしてから、
「李紫龍。私が問うた時に一瞬言いよどんだな。その心を忘れるな。兵は君の私物ではない。彼らにはそれぞれ人生がある」
と、強くいった。
「はい」
と、紫龍が透き通ったよく通る声で返事した。
いまの紫龍の体貌からは、清涼感すら感じさせるものがほとばしっている。
部屋に入ってきた時の紫龍は、戦功を望みすぎて思考は狭窄し、その瞳は淀んでいたが、今は真っ直ぐで澄んだ瞳をしていた。
同時に李紫龍の体貌から出ていた炎はすぼんでしまったが、黒いものは取れていた。
紫龍は、はつらつとした若さだけを部屋に残し天儀の前を去ったのだった。




