7-(3) 諜報と氷華のきき
時刻は午後5時半。付け加えておくと金曜日。
いま、千宮氷華は禁軍営と呼ばれる地上基地のビル内を進んでいた。
その足取りの軽さからは、氷華のウキウキとした心のはずみが見て取れる。
そう千宮氷華は浮かれていた。
理由は一時間前に天儀からつげられた残業の指示。
普段ならうんざりな残業だが、今回は条件が違う。
まずは残業の場所だ。
残業の指示を出された部屋は少人数用のミーティングルーム。部屋のサイズにしては巨大なモニターが置いてある部屋だった。
そして、ここで天儀と2人きりで残業。
これが氷華の心をはずませたのだ。
氷華は、天儀からミーティングルームで、2人きりで重要な作業があるとだけ聞かされ、終業時間になると指定された部屋へ向かうため廊下へでていたのだった。
廊下を進む氷華。相変わらずの無表情だが、その頭のなかでは、
「2人きりである。でも業務である」
という葛藤が繰り返されていた。
氷華の胸中で、今日は週末、残業にかこつけて何かお誘いがあるのではという薄紅色の期待が膨らむも、同時にその浮かれた想像を必死に打ち消す。
あくまで天儀からの要件は、業務ということだ。
それでもやはり名指しで、加えて2人きりで、残業を命じてきたということは、終了後に何かの見返りも期待できる。
残業が終了して、そのまま「はい、ご苦労様」で、終わりということもないだろう。繰り返すが、にせ週末で明日は休みだ。
そう思うと、氷華の想像は自身が望む方向へと膨らんだ。
――2人きりでの残業の後には、2人きりでディナー。その後近くの展望台で夜景を楽しむ。
このあたりが妥当な想像だろう。
この想像に、氷華はリアリティーがあると、悦に浸り、きっとそうに違いないと一人満足する。
いま、展望台ちょうど夜間営業のキャンペーンをしており、大々的に宣伝している。展望台に行くまでの道もイルミネーションで、ふんだんに飾られており飽きない。噂を聞いた氷華もちょうど行きたいと思っていたところだ。
なお軍内でも最近、家族でも行けるデートスポットとして話題になっており、彼氏と行った女子たちだけでなく、家族を連れて行った男たちも多い。
しかし、折角の週末に、突然の呼び出し、
――事前に命じてくれれば、それなりのお洒落をしてきたのに、天儀さんはそういう気遣いがないのです
と、いう思いが、氷華の中に浮かび上がると、それに関連した思いが、次々と浮かび上がる。
軍服のまま店に行くにしても、メイクだけでなく、アクセサリーなどちょっとした小物に気を使うだけで大きく見栄えが違う。
この前買ったスカーフなど持ってきていれば、お洒落だったろう、などと氷華は想像した。基地を出る前に、さっとスカーフつけ、外向けのイヤリンも取り出して付け替える。これだけでだいぶ違う。
将校用の軍服は、礼装用の物でなくとも、そのまま、それなりのお高いお店へ入っても問題ないデザインとなっている。
そんな軍服に合わせた小物を選べば、見栄えはかなり良くなった。
セシリアなどは、この手のお洒落が上手く。第二戦隊内だけでなく、軍の女性たちから一目置かれており、以前、広報部で軍内向けの雑誌を発行する班から取材を受けていたぐらいだった。
そう軍人とて、女性なら良しにつけ悪しきにつけ美しさで序列が決まるのが女性の性だ。
氷華もセシリアほどではないが、気を使えば見栄えぐらいは簡単によくできる。
いつも軍服の上へ白衣をはおっているのも、電子戦技師として気構え周囲に示しているだけでなく、実はお洒落という面でも身だしなみに気を使ってのことだった。白衣には、自分の黒髪がよく映えるのだ。
そうだ。以前のこの白衣を天儀から褒められていた。と、氷華は思い出した。
「さしずめ白亜の陣羽織だな。よく似合う」
天儀は何気なくいったようだが、氷華には好印象をいだかせる言葉だった。
横で聞いていたセシリアは、陣羽織という古臭く武骨な表現に苦笑していたが、氷華からすれば軍人として逸脱しない範囲で美さが際立っていると褒められたと、喜びが大きかった。
そう多少のお洒落が許されていとはいえ、あまり大げさな化粧や小物は、指導を受ける対象だった。化粧が濃いなどといえばセクハラで軍警察がやってくるが、軍人にふさわしい装いというのは当然ある。
グランダ軍では、広報部発行の軍内向け雑誌で、参謀本部下の風紀委員会と広報部の合同企画として、軍内で奨励されるお洒落を紹介している。
だが、天儀に褒められたからといって、さすがに白衣を着てレストランへ行くのはないと、氷華も思う。
基地内でのお洒落と、基地外でのお洒落は違う。レストランへ白衣を羽織っていくのはない。
氷華の思考が一周し、再びこの突然の残業指名の意味するところは何かという推理に戻る。
――もしかしたらサプライズ的な誘いなのかもしれません。
と、想像の先に膨らんだ期待。
氷華は、花束なんて渡されたらどうしましょうか。ま、嬉しくもなくもないですが。と、さらに想像が膨らんだ。
が、氷華の胸懐に浮かんだこの想像は、瞬間に否定される。
そう間違いなくサプライズというような仕掛けあるお誘いではないことは予想できた。氷華の見立てる天儀は、突然誘って花束を渡して喜ばせるというような甲斐性はない。
「でも仮にそんなことをされたら悪い気はしないです。いや、嬉しいです」
氷華は、そんな浮かれた想像を心の片隅に思い描きながら、指定された少人数用のミーティングルームに到着したのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ミーティングルームは薄暗く正面には大きなモニター。
室内には、会議室などでよく見かける折りたたみ式の長机が3つ並び、机には椅子が3脚づつ。
だが氷華が部屋に入ると、天儀だけでなくセシリアがいた。
予想しなかった事態。
薄暗い室内で、天儀とセシリアの2人が仲良さげに話している。
思わず氷華は、2人へ射抜くような視線を向けていた。
ジト目には、強く力がこもっており、にらむというような視線に近い。
『なんでこの女がいるのか』
これが、部屋に入った瞬間の氷華の感想。
続いて、
――2人で。といったのに、とんだ約束破りですよこれは。
と、思い。心がカッと熱くなった。
同時に氷華は、天儀の隣にセシリアを認めたことで、天儀と個室で2人きりになると意識していた自分が急に気恥ずかしくもなった。
氷華の胸懐に、熱い感情と、自分を客観視する冷静な感情とが入り混じる。熱さと冷たさが混ざって、ちょうどいい塩梅とはらない。
熱いものは熱いまま、冷えたものは冷えたまま。それが心に氷華の同時に存在し続け、ついには気恥ずかしさとなった。
氷華は気恥ずかしさを抱える内心をさとられまいと、いつも以上に愛想のない無表情。
セシリアが、そんな氷華を見て苦笑する。
セシリアからして、今の氷華の顔は、仏頂面という形容が相応しい。無表情のジト目でも、静謐の美人と遠巻きに見られることも多い氷華。それでも、ここまで愛想がない表情になると台無しだった。
セシリアは不機嫌が隠しきれていない氷華を置いて
「あら、お一人でお楽しみになるのではないのですね」
と、天儀へ向けて冗談を口にしてから部屋を出ていった。
残された氷華が、状況を飲み込めずに室内を観察する。
天儀が、セシリアが出て行った後に、閉められ扉に内側から鍵をかけた。
そして天儀は、扉から離れるその足で、氷華の前へ立ち、さらに迫ってきた。
氷華へ向けられる天儀の表情は真剣、その表情は真剣というよりむしろ『おっかない』というやつだ。
その天儀の顔が、薄暗い部屋でモニターからの淡い光を受け不気味に浮き上がった。
天儀は男性としてさほど背は高くないが、氷華が小柄なので、相対的な問題として氷華は天儀が大きく感じる。
氷華は、天儀の肉薄での自身の動揺を悟られまいと、微動だにせずにジト目で天儀を見るが、心は仰け反るよう。
薄暗い部屋に2人きり。先ほど鍵がかけられる際の
『カチャリ――』
という音が生々しくよく耳に残っている。
――近い。
と、氷華は思い。天儀の肉薄に心臓が跳ね上がった。
何をする気だ。この男は。鍵をかけられている。逃げれない。
もう今の氷華には部屋に向かう途中の甘い期待などなく、不安と恐怖がないまぜなった思考だけが加速していく。加速する思考で意識が飛びそうになる氷華。顔は耳まで真っ赤だ。目も熱い。
氷華の緊張がピークに達しようとする中、天儀が氷華へさっと頭を下げた。無駄のない挙止で、清々しさほど感じさせる一礼。
一礼した天儀が頭をあげつつ
「今からレティーツィア・ベッカートを攻略するための諜報活動を開始する。次の戦争では、戦術機隊の指揮に秀でる彼女の心からの協力が不可欠だ。君にはその協力をお願いしたい」
と、真面目な顔で宣言し、モニターの前の椅子に着席した。
氷華も天儀に促されて隣に着席した。
だが氷華は目尻に涙が滲み、顔は真っ赤。心臓が今でもバクバクしている。
――何だったのだ今のは。何なんだ、この人は。
氷華は心の中で悪態をつきながら必死に心を鎮める。
2回ほど深呼吸をし、氷華は早々に落ちついた。終わったことをくよくよ考えても仕方がない。それに天儀は、氷華と違いまったくもって平静だ。その2人の温度の差が、氷華を急速に冷やした。
切り替えの早さも氷華の持ち味だった。
平静さを取り戻した氷華は、指図されるまま椅子に腰を下ろしたが、天儀から着席を促される際に出た。
『レティーツィア・ベッカート、攻略、諜報活動』
という言葉を思い出し、当惑した。
攻略、諜報活動とは何をするのか。一応、攻略、諜報活動の対象が、レティーツィアだということは理解出来が、氷華は天儀の真意を察しかねた。
氷華が、そんな当惑を抱えながら座る横で、天儀がモニターを操作している。
天儀の作業する様子を、氷華はジト目で眺めながら、レティーツィアという名前から今日のセシリアとの昼食を思い出していた。




