(閑話) 氷華の疲労
得算室での仕事が終わり、氷華は天儀ともに外庭のタクシー乗り場へ向かっていた。
氷華には若干疲れの色がある。太師子黄の登場が効いたのだ。
――正直あれは疲れました
と氷華は思い。そんな思いが言葉となってでた。
「今日ほど皇帝には、なりたくないと思った日はありません」
なぜだという顔で、天儀が氷華を見る。
「あんなお爺さんと毎日のように一緒にいたら疲れそうです。帝は平気なのですか」
天儀が、なるほど、と笑ってから言葉を継ぐ。
「子黄様の存在は、帝を帝たらしめるのに不可欠だからな」
天儀の言葉に、氷華のジト目に若干の疑問の色が混ざり
「その意味は」
という問いとなって出た。
氷華からすれば天儀の言葉が短すぎ、回答とはいえない。
「形ばかり真似ても仕方ないが、ものは形からとも言う。そして外面だけ取り繕っても中身が伴わねば意味がないが、外郭形成し、それに合わせて自身を成長させることも大切だということだ」
「ほお。あのお爺さんを、そばにおくと皇帝として理想の形になれるということでしょうか」
「そうだな。帝者には師があり、王者は友とともにあり、覇者には臣があり、敗亡の君主には奴僕しかない。周の文王に太公望がいて、湯王には伊尹がいた」
天儀が氷華の興味のない話を始めていた。
「はあ、つまり」
氷華は早く結論をというようにせかした。
「帝は、子黄様をそばにおくことで帝者たらんと切磋琢磨しておられるのだよ」
氷華が天儀の応じに、数秒沈黙をおいてから
「偉い王様には、いい先生が常についていたということですね」
そう結論を口にすると、天儀がうなづき肯定した。
「じゃあ、その先生に政治をしてもらえば万事おさまるのでは」
「だめだろうな」
「何故ですか」
「政治を主催するには、その行政体の長たる必要がある。古代なら王と取って代わる必要があるというわけだ。だが王になれば師が必要だぞ。結局、師は必要なんだよ」
氷華が苦い顔になる。
「それは卵が先か、鶏が先かと言うような話では」
「いや、これは帝王と師は二つで一つなのだろうと俺は思うよ」
天儀が、そういい笑った。
「皇帝と師はワンセットと、これが名君の条件。なるほど。なんとなく納得しました。ありがとうございます」
話題が終わり、しばしの沈黙。タクシー乗り場はもう見えているがまだ距離がある。
沈黙を破り
「ところで天儀司令」
と、氷華から話題を切り出した。
応じようと天儀が氷華を見るが、氷華が言葉を止め携帯端末を取り出し時間を確認して質問が続かない。
天儀がけげんとするなか、氷華が顔を上げ
「もう勤務時間は終わってますね。天儀さん、質問です」
そう問い直した。
天儀が思わず苦笑し
「なんだ氷華さん」
そう問い返した。
氷華は唇をむっと結んだ。
いつも上司風を吹かせて呼び捨てにするくせに、さんづけとは、と思いつつも質問を口にする。
「時折、自分のことを俺っていいますね。いつもは私といっているのに、プライベートでは俺なんですか」
「ああ、そうだな。私、と言う形に拘ってはいないがな。仕事中は丁寧な一人称するように心がけている。俺というのが仕事中もたまに出ているか、」
氷華が、なるほど。と、うなづいた。
「そうか。たまに仕事中にもでているか。尊大な内面がもれでいるといわれると否定はできないな。気をつけよう」
「とくに気分が上向いている時に、俺、俺いって俺マンになってますので、お気をつけて」
天儀がわかったというように哄笑すると、タクシー乗り場についていた。
タクシー乗り場では、順番待ちもなくすぐに乗り込めた。
氷華が先に乗り込み、天儀が続く。
いや、続こうとした。
乗り込もうとする天儀を氷華がくるなとばかりに手で制していた。
――なんだ、どうした。
と、嫌われたのかと露骨に狼狽する天儀。
氷華は無表情ジト目。
外面は普段と変わらないように見えて、実は激烈に怒っていることはありうる。
天儀からすれば、表情から氷華の心の所在を正確に把握することは難しい。
一方の氷華は狼狽する天儀を見て、
――あんな恐ろしい老人が平気なのに、こんなことで慌てるだなんて変わった人です。
と、思い天儀をなだめるために言葉をだす。
「違います。今日は外泊許可を取ってあるんです。実家に帰ります」
「ああ、なるほど。宿舎に帰るのではないと。失礼した」
「私の家に泊まりたいというなら、お乗りになって構いませんが」
氷華なりの冗談だった。
取り繕う天儀が面白いので、つい調子の乗った。
が、天儀の口元が少し笑ったと思ったら、強引にタクシーに乗り込もうとしていた。
「ちょ、ま」
「なんだ。俺は一向に構わん」
「やめて下さい。セクハラですよこれは」
「言葉に責任を持て、俺をおちょくって冗談ではすまない。夕食が終わったら帰ってやる」
泊まるのは勘弁してやるといわんばかりの天儀。
「家族に勘違いされます」
「いいだろ別に。それに友達だ、いや上司だ。それでいい」
「どこの世界に、部下の実家に夕食をたかりにくる将校がいるんですか。解せませんよそんなの」
「目の前にいるだろ。諦めろ」
「こんなの連れて帰ったら、お父様が卒倒します。お友達って歳じゃないんですよお互い」
「お父様か、育ちがいいな。戸建ての広い庭付きと見た。軍の食事にも飽きていたところだ。家庭の味を楽しませろ」
真っ赤になって慌てる氷華。
ちがう。普段は、単に父か、お父さんだ。お父様は、こんな朝廷とかいう高貴なところにきたから何故たでた言葉だ。自分でも謎だ。
氷華の思考が加速し熱暴走しかけるなか、タクシーのドアが閉まっていた。
突然のことにで驚く氷華。
「他にも客がいる。ちょっとやりすぎたな」
といって天儀が笑っていた。
ドアが閉まると同時に走り出すタクシー。
氷華は、天儀のいたずら顔が目の底に残り、走り出してからも顔のほてりが取れない。
まだ顔が赤いのだろうか、家に帰るまでに早く静まって欲しい。などと思いつつその景色へ目をやった。
だが、風景を見ていても氷華から先程のことがなかなか頭から離れない。
何故あれほど慌ててしまったのかとも思い。断ってしまったことに若干の口惜しさも感じ、自分の感情に整理がつかず落ち着かない。
外の景色を眺めても気が晴れない氷華。
そんな悶々とする氷華の胸懐に
――しまった
という閃きが走る。
あの押し問答の折に自分が
「じゃあ乗って下さい」
と堂々といえば天儀は間違いなく遠慮したろう。生真面目なところがあるので、狼狽すら見れたかもしれない。
――逆襲のチャンスはあった。
そう思うと口惜しい。
攻勢にさらされ、防戦一方で頭がまわらなかった。
次チャンスがあったらやってやろうと氷華は思い。心の平静を取り戻したのだった。
これで五章終わりです。明日からは六章となります。続いてお読みいただければ幸いです。では。




