君の隣を、僕のものにする。
純粋すぎて鬱陶しいくらいのその笑顔が、偽物だったらいいのにと思う。
「本当に異性装喫茶やるんだ。あはは、こんなことやるの絶対うちだけだよね」
イライラする。何がそんなに面白いんだろう。
「これも俺が選抜勝ち抜いたおかげだな。感謝しろよ学級委員」
「はいはい。ありがとね文化祭実行委員」
どうでもいい会話。馬鹿らしくなって、荷物を持って席を立った。
「僕帰るから」
「あ、待って高畑くん!」
振り返るのも面倒くさい。でも一応立ち止まって振り向いた。樫田さんが、うさんくさいほど無邪気に笑ってそこにいる。
「駅まで一緒だよね。よかったら一緒に帰らない?」
そんな提案をする樫田さんの後ろでは、平井くんがふんぞり返って椅子に腰掛けていた。無表情だけどじっと、僕の出方を窺っている。射るような視線。……馬鹿らしい。
「いい。平井くんと二人で帰りなよ」
「でも、」
「だとよ綾乃。わざわざ食い下がることねえだろ」
平井くんが、唇を歪めて片手を上げた。
「じゃーな、高畑」
返事はせず、さっさと教室を出る。樫田さんはドア口まで僕を追いかけてきて、僕の背中に「ばいばいっ」と叫んだ。良い子。そんな言葉が、頭をよぎる。
イライラする。同じ委員だからって僕に構う樫田さんも、敵意を隠そうともしないでぶつけてくる平井くんも、あの二人の、何もかも全部。
人気者。クラスどころか学年で有名な、名物カップル。僕とは正反対のあの二人が、僕にはすごく、鬱陶しい。ぐちゃぐちゃにしてやりたいくらいに。
文化祭なんて早く終わってほしい。そうすればあの二人と、こんな風に関わらなくて済む。
「ええっと、ショートケーキとチーズケーキ、あとチョコレートケーキをお願いしたいんです」
文化祭まではあと二週間だった。放課後、帰宅部の人間が集まって行う準備が少し慌ただしくなってきた、まだその程度の時期。樫田さんと平井くんはいつも誰かに呼ばれてクラスのあちこちをうろうろしてるけど、僕は大体、教卓の前で学級委員の仕事をしているか自分の班の作業を手伝うかしている。その、誰も僕に構ってこない距離感が丁度よかったのに、それを樫田さんはいつも壊しにくる。それも、いかにも独りぼっちを気遣ってますって感じじゃなく、嫌味なほど自然に。そんなところが気に食わない。
今日は樫田さんと、学校の最寄りにあるケーキ屋を訪れた。文化祭当日に発注してもらうケーキをお願いする、という目的で。話を済ませて店を出ると、梅雨入り前の強烈な太陽がアスファルトを焼いていた。
「平井くんと来ればよかったのに」
目を細めて思わず漏らしてしまった僕の本音を、樫田さんはちゃんと聞いていた。彼女は一瞬きょとんとして、それから苦笑する。
「駿介、甘いもの苦手なんだよね。見ただけで吐き気がするとか言ってんの」
あんなんで生きていけるのかな、と呆れる樫田さんの横髪を風が舞い上がらせた。肩より少し下まで伸びた黒髪。六月の風は湿気を孕んでむさ苦しく、僕はますます、鬱陶しい、と思う。
ケーキ屋は駅前に所在していて、ロータリーがほとんど目と鼻の先に見えていた。そちらに向かう横断歩道で信号待ちをしていたら、樫田さんはふっと、静かに言った。
「私は、今日高畑くんと来れてよかったって思ってるよ」
なんで、と僕が訊く前に樫田さんが「でも高畑くんには迷惑だったかな、ごめんね」と早口で謝罪した。信号が変わり、足元を見ていた樫田さんが前を向いて歩き出す。僕はそれに、少し遅れてついていく。樫田さんの夏服のブラウスの、背中が微風で膨らんだりしぼんだりした。
なんで、なんて問うまでもない。樫田さんはただ単純に、そう思ったから口にしただけなのだ。お世辞じゃなくて本気で、素朴にそう思っている。彼女は「人気者」で「良い子」だから。
僕とは違う。
「はいっ」
ロータリーの端っこにある自販機の前で立ち止まった樫田さんが、購入したコーラの缶を僕のこめかみに押し当てた。僕は呆然として、立ち尽くす。結露した水滴が肌に触れ、缶のまとう冷たさがきんと頭の中を駆け抜けた。
「あれ、もしかしてコーラ苦手だった?」
眉尻を下げた樫田さんが僕を覗き込む。かろうじて、別に、と答えると、彼女はほっと息を吐き出した。
「よかったあ。いやね、高畑くんすごく汗かいてるみたいだったから」
ここに、と言って、樫田さんが自分のこめかみをつつく。僕がコーラを受け取ると、彼女はにっと口角を上げた。
「私もコーラ、飲もうかな」
一連の動作に、不自然な箇所はどこにもなかった。つまり樫田さんは、別に親しくもない異性のこめかみに缶を押しつけても違和感のない人だった。僕とは違って。でも平井くんとは、おんなじだろう。
僕になんか笑いかけないで、とっとけばいいのに。平井くんのために。
樫田さんは僕と同じ学級委員で、文武両道で誰とでも分け隔てなく接するという、現実に存在するには少し嘘っぽすぎる人だった。その上造作の整った顔を持っているし、誰にでも好かれるし(僕を除けばの話だが)、同じく整った顔を持つ人気者の平井くんとは幼馴染で恋人だ。彼女は間違いなく、クラスの頂点に君臨している。その位置を獲得する人間が往々にして発する、恐怖や強烈な存在感とは違ったやり方で、地位を堅守している。
そんな彼女と僕が同じ学級委員なのは、ただ僕がくじ引きに負けたからだった。女子は樫田さんが半ば推薦のような形で立候補、でも男子は誰も手を上げず(常に樫田さんの隣を守っている平井くんも、学級委員はさすがに面倒らしかった)、くじ引きになって僕が引き当てた。
樫田さんに向けられたのは確実に同情だったろう。クラスの中での僕の立ち位置は恐らく、「勉強しか取柄のない根暗」だ。誰も僕に近寄らない。たぶん見抜かれているのだ、僕が周りの人間を見下している、ということを。
それでも、樫田さんは僕を切り捨てない。それがどうしても信用できないのだ、樫田さんだって僕の本心に気付かないほど馬鹿じゃないってことが分かるから。気付いていてなお、僕に何を期待しているのだろう。
「ちょっと、邪魔しないでよっ」
「うっせー。自習なんてマジにやる方が馬鹿なんだよ」
「こっちはちゃんとやってんの。せめて黙ってて!」
三時間目の数学が、担当教師の体調不良で急遽自習になった。課題のプリントに取り組む人間は少ないものの、大騒ぎするほど頭の悪いやつもいない――そんな空間の中で、樫田さんと平井くんの声だけがよく通った。教室の中央で机を並べている二人は、何か言い争っている。「出た夫婦漫才」「見せつけんなよー」という冷やかしの声が教室のあちこちから飛んでいた。あまりにもうるさくて、窓際の僕はイヤホンを突っ込む。突っ込む直前、「アホ駿介っ」という樫田さんのひそめた怒鳴り声が耳に飛び込んできた。
――私は、今日高畑くんと来れてよかったって思ってるよ。
あんな言葉、平井くんにはきっと一度だって言ったことはないんだろう。
「帰りマック寄ってかない?」
学級委員と文化祭実行委員合同の放課後会議が終わって、教室に戻ったところで樫田さんが言い出した。樫田さんの隣の席で帰り支度をしていた平井くんが、顔を輝かせる樫田さんを見上げる。
「はあ?」
「いいじゃん、お腹空いたし。あ、モスでもいいよ」
高畑くんも一緒に、と樫田さんが僕に振った。まさか自分も誘われるとは思わなくて、断る前に言葉に詰まってしまう。だるそうにバッグを肩に背負った平井くんが、立ち上がって僕を凝視した。
「……僕、寄り道とかしたことないんだけど」
なぜか、そんなことを口走ってしまっていた。あ、と気付いた時にはもう遅い。樫田さんと平井くんが、目を丸くして押し黙った。
よりによってこの「人気者」たちに、馬鹿すぎる告白をしてしまった。自分と彼らを分かつ厚い段差について、自分から言及してしまうなんて。
「じゃっ、私たちが高畑くんの初めて、もらうってことで」
二人から目を背けて口元を覆っていた僕は、樫田さんの声にハッとして顔を上げた。樫田さんは勿論、平井くんでさえ僕を嘲っている気配がない。平井くんはうんざりしたような表情でズボンのポケットに手を突っ込んだまま、肘で樫田さんを小突いていた。
「エロいこと言ってんじゃねえよ、サカるな」
「なっ。エロいって考える方がおかしいでしょ、初めてって言っただけじゃん!」
「何がエロいかちゃんと分かってんじゃねえか」
犬も食わない痴話喧嘩を始めた二人にこれ見よがしの溜息を吐き出して、それから二人に隠れて唇を噛み込んだ。僕はこの二人がとにかく鬱陶しくて、見下ろして排除してきたのに、二人は僕を拒まなかったし突き放さなかった。なんだか、負けた気がした。
駅前のマックに移動する道中、僕は二人の後ろをついて歩いた。それは僕が遠慮したとかじゃなくて、自然にそうなった。陽に茶髪を透かしたぶっきらぼうな平井くんと、笑顔をはじけさせて彼を見上げる樫田さん。僕は二人から、少し遅れて歩いている。手を伸ばしても届かないくらいの距離間で。
「高畑くんて普段おうちで何してるの?」
「……別に何も。勉強とか」
「そっか。あ、今度数学教えてくれたら嬉しいな。駿介、あんたも一緒にね」
「やだ」
「やだじゃないでしょ、あんた中間何点取ったと思ってんのよ」
マックの窓際にあった四人掛けのテーブルを陣取って、僕らはハンバーガーやらフライドポテトやらを貪った。僕はベーコンエッグバーガーを噛み砕きながら、樫田さんから次々と投げかけられる質問にぽつぽつ回答した。同時に、正面に腰掛けた樫田さんと平井くんの様子を観察している。二人の間に甘く粘っこい雰囲気は一切なくて、それなのにこの二人は確実に恋人だった。平井くんはビッグサイズのバーガー二個を簡単にたいらげ、樫田さんはポテトをつまみ、油と塩のついた指先を軽く舐めたりしていた。ちらりと覗く樫田さんの赤い舌。僕は口内で欠片になったバーガーを、ゆっくりと飲み込む。
「ねえ高畑くん、それだけで足りる?」
「え、」
「いや駿介とかうんざりするくらい食べるからさ。ね、もっと食べようよ」
席を立った樫田さんが、僕の腕を取った。
「いいよ、もういらないから」
「じゃあ私アイス食べたいの。付き合ってほしいな」
半ば強引に僕を立ち上がらせた樫田さんは、にっと笑っていた。僕は平井くんを盗み見る。彼は烏龍茶をずこずこ音を立てて飲んでいて、こちらに頓着するそぶりを全く見せなかった。
僕は樫田さんとともに再び注文の列に並んだ。
「またどっか行こうね」
やけに嬉しそうな樫田さんが、財布を握りしめて言う。
「ゲーセンとか行ったことある? あ、今度ミスド行こうよ、あいつに内緒で」
茶目っ気を孕んだ表情で唇の前に人差し指を立てた樫田さんは、まだ僕を連れ出すつもりらしい。誰も近付くなという信号を一人で発しているであろう僕に、樫田さんは気にしないで近付いてくる。
そこまでして良い子になりたいの。
言いかけて、口をつぐんだ。それは僕の本心じゃない、悔しいけど。
「平井くん、怒ったりしないの」
何か答えなくてはと、僕は言葉を絞り出した。一瞬不思議そうな顔をした樫田さんが、吹き出す。
「大丈夫だよ、あいつが甘いもの食べらんないのが悪いんだもん」
本当にそうだろうか、と思う。樫田さんのそばに寄る人間に対して平井くんが異常なほどの警戒心を露わにしていることに、樫田さん自身は気付いていないんだろうか。だとしたらそれはやっぱり、大丈夫じゃない、気がする。
「……それに、告白したの私からなんだ」
ぽつりと、諦めたような声色で樫田さんが眉を下げた。僕は息を止めてしまう、不自然に体を強張らせて。
「だからフラれるとしたら私だし。あいつも、気にしないよ」
僕が無言でいると、樫田さんは「ごめん変なこと言ったね」と無理やりに笑顔を作っていた。
ソフトクリームを購入したあと、樫田さんはトイレに行くと告げて僕にそれを託した。僕がテーブルに戻ると、スマホを操作していた平井くんは僕を一瞥したが、またすぐに視線を戻した。彼は樫田さんを介してしか僕と会話しない。故に、沈黙が訪れる。僕は店内放送の洋楽に、意識して耳を傾けた。
「おい」
突然、平井くんが僕を呼んだ。掠れた低い声。
「あいつは」
「……トイレ」
ソフトクリームが溶け出している。尖っていたはずの先端が、丸く首を垂らしていた。ふん、と鼻を鳴らした平井くんは体を投げ出すような座り方のまま、じっと僕を見据えた。居心地が悪くて、僕は背筋を硬くする。
「お前、あいつのこと変な目で見んじゃねえよ」
「……は?」
本気で、何を言われてるのか理解できなかった。睨むように僕を射抜く平井くんに、僕も視線を返す。
「見てんだろうが。死んだような目で」
平井くんの言ってる意味が分からない。分かるのは、今、平井くんが僕への敵意を剥き出しにしていることだけだ。普段なら歯牙にもかけないだろう「底辺」の僕を、「人気者」の平井くんが。それは少し滑稽で、僕にほんの僅かな優越感を与えた。
「本当に大事なんだ、樫田さんのこと」
液体化したソフトクリームがコーンを伝って僕の手に流れ落ちる。平井くんは敵意の中に憎悪のような強くて濁った感情を、その瞳に湛えた。
この人は樫田さんと同じくらい、もしくはそれ以上に樫田さんを想っている。でもそれは樫田さんに伝わっていない。やっぱり二人は大丈夫じゃない。
「……んだそれ。馬鹿にしてんの?」
店内の喧騒が急に近くなる。平井くんの眉間に寄った皺は、彼の切長の目をより鋭く演出していた。でも僕は、目をそらさない。そらさないで、あいつに内緒で、と言った樫田さんの笑顔を、思い出している。平井くんでなく僕に向けられた、笑顔を。
「ごめんお待たせ……って、うわっ。溶けてるしっ」
平井くんの目線が樫田さんにスライドした。戻ってきた樫田さんは「ごめんねありがと」と僕からソフトクリームを受け取る。紙ナプキンで僕の汚れた手を拭こうとしてくれた樫田さんの腕を平井くんは掴み、自分の方へと引き寄せた。
「さっさと帰るぞ」
「え、ちょっ、まだ食べてないんだけど」
「んなもん歩きながら食え」
席を立った二人の後を追おうとして、樫田さんの財布がテーブルに置き去りにされていることに気付いた。僕はそれを引っ掴んで、遠くなり始めている樫田さんの背中に手を伸ばす。今度は、届く。そんな予感を携えて。
「高畑くんも帰ろう?」
でも僕の手のひらが樫田さんの肩に着地する直前、彼女が振り返った。僕は驚いて、さっと腕を下ろす。小首をかしげる樫田さんは微笑んでるのに、拒まれた気がした。
「てめえやる気ねえだろ」
文化祭まで残り五日、準備が本格化してクラスの中をぴりぴりとした空気が支配していた。こういう時、人間の本性は現れる。僕の班で絶大な権力を誇る(つまり派手で目立つ)男子はあからさまに苛立っていて、その火の粉は班で最も権力のない僕に向かって降り注いだ。僕らの班は内装担当で、色紙の輪飾りとか薄紙を重ねて広げたくしゃくしゃの花とか、高校生の作品にしては幼すぎるものをちまちま作っていた。僕はサボらず、でも適度に手を抜いて取り組んでいたのだが、男子はそれが気に入らなかったらしい。まあ実際、矛先はなんでもよかったんだろう。
「うぜえんだよ。てめえみてえなんがいるだけでやる気失せんだよ」
班の、いやクラスの全員が緊張して僕らに注目していた。教室の床に胡坐をかいていた僕は、僕を見下ろす男を仰いで、言った。露骨に大きな溜息を吐いてから。
「別に最初っからやる気なんてないくせに」
逆上した男子が腕を振り上げた気配があった――が、痛みや衝撃は一向に襲ってこない。不審に思って見上げたら、男子の腕を平井くんが捉えていた。
「ま、まあまあ落ち着いて。ね? 楽しくやろうよ」
平井くんの後ろから顔を出した樫田さんが男子をなだめた。引きつった笑顔と取り繕うような声色に、こういう仲裁役は慣れてないんだなということが分かった。
その後、樫田さんは「明日の学級委員の会議、予算報告とかあるしさ。今資料作っちゃおうよ」とわざとらしく説明して僕の手を引き、教卓まで導いて僕を班から遠ざけた。いたわるように僕を覗き込むその顔から目をそらす。彼女には恩着せがましいところが全くなくて、だから余計に対処に困った。この「良い子」は眩しすぎて、慣れない。近くに感じたり遠くに感じたり、僕の距離感をぐちゃぐちゃに乱す。僕を戸惑わせる。
僕に手を伸ばすことで、君は僕に、何をしてほしいと望んでいるんだろうか。
「高畑くん」
チャイムが鳴って皆が後片付けをし始めた時、樫田さんが僕の右手を取った。引っ込めようとした僕の動きより先に、手のひらに何かを乗せられた。絆創膏と飴玉。
「ここ、切れてるよ」
樫田さんが僕の中指を撫でた。確かに、第二関節の下の部分に朱い筋が走っていた。それなりに深いようだが、全然気付かないでいた。いつやらかしたのかも検討がつかない。
僕の傷口に目を落としていた樫田さんが、ゆっくりと顔を上げ、僕を見つめた。開け放された教室の窓からささやかな風が入り込んで、樫田さんの匂いを僕に届ける。何かの花の蜜みたいな、そういう甘酸っぱいような匂いだった。
「高畑くん、私まだ――」
何か言いかけたところで、彼女は口をつぐんでしまった。僕は続きを待ったけど、平井くんが樫田さんを呼んだから、それはなかったことにされてしまった。ごめんね、と告げて、樫田さんは平井くんのもとへ走っていく。その後ろ姿は、同じシルエットがいくつも混ざり合う教室の中に、ぽっかりと浮いて見えた。
根拠はない。でもさっきの一瞬、樫田さんが僕に望む「何か」の片鱗を、掴めそうな気がした。
僕を連れ出してくれる樫田さんの指先は、今、平井くんに触れている。
「樫田綾乃って、うぜー」
聞いてしまった。昼休み、校舎の東の隅にある非常階段で、だった。剥き出しの非常階段からは校庭の桜の木がそよぐ景色がよく見えて、人通りも少ないから僕は時々、ここで昼食を摂っているのだった。
声は僕の背後にある渡り廊下から聞こえてきた。僕はとっさに鉄製の階段を駆け上がって、上から渡り廊下を覗き込む。声の主は樫田さんとは真逆の意味で目立つ、同じクラスの女子グループのリーダーだった。彼女らは所謂不良みたいなもので、確かに樫田さんみたいなタイプは嫌いだろうな、と納得できてしまった。
「あんなつまんねえやつが幼馴染ってだけで平井の彼女やってんのがムカつく」
「平井も中学ん時はもっとマシな女連れてたのにね」
「言うほど可愛くねえしさあ、マジでイミフ」
「あれじゃん? 樫田んち金持ちだから」
ぎゃーぎゃー文句を垂れていた女子集団は自販機に用があったらしく、がこんという重たい音が複数鳴ったあと、声も次第に消えていった。僕は飲みかけの苺牛乳のストローを、思いきり歯を立てて噛み潰した。そうしないと、口元の緩みを抑えられそうになかった。
誰にでも好かれる。樫田さんについてはそう考えていたけど、どうやら訂正しないといけないらしい。樫田さんだって陰で罵られている。嫌われている、僕と同じに。そう思ったら、ひたすらに高くそびえていた樫田さんの地位が、切り崩されて僕に近くなった気がした。あの人だって、柔らかい感情だけに囲まれて生きてるわけじゃない。
もしかして樫田さんは、僕と違わないんじゃないか。僕が思ってるよりずっと、近いんじゃないか。
スラックスのポケットに突っ込まれた飴玉は、溶け出して袋に貼りついていた。昨日絆創膏と一緒に樫田さんにもらったそれを、空になったあんぱんの袋に入れて口を縛り、自販機横のゴミ箱に押し込む。
こんな風に、樫田さんの知らないところで樫田さんに向けられた悪意が、一体どれだけあるんだろう。
「いよいよ明日かあ」
文化祭の前日、放課後、僕は樫田さんと図書室にいた。学級委員は明日の朝、内装の様子や準備にかかった費用なんかをプリントにまとめたものを提出する必要があって、その資料を作っていた。南向きの大窓から、淡くオレンジ色をした夕日が射し込んで、整然と並んだ本や雑誌を照らしている。端の六人掛けに向かい合って座った僕ら以外、図書室には人影がなかった。
「楽しみだね」
「女装がスベらなければいいけど」
「あはは、意外と辛辣だよねえ高畑くんて」
「意外なんだ。見たまんまかと思った」
「意外だよ。高畑くん、優しい人に見えるし」
いや優しくないって言ってるわけじゃなくてね、と言い訳する樫田さんが純粋に可笑しくて、僕は息を吐き出すようにして頰を綻ばせた。樫田さんが万人に好かれてるわけじゃないと知ったあの日から、僕は樫田さんと不自然なくらい自然な会話を交わせるようになっていた。
樫田さんが、近い。今度は確実に。
「でも文化祭終わったらすぐ期末だよね。だるいなあほんとに」
「……樫田さんでもだるいとか言うんだ」
「え、普通に言うよ。そんな良い子じゃないって!」
買いかぶりすぎだよー、とケラケラ笑う樫田さんが体を揺らすたび、彼女の左側に落ちた影がゆらゆら動いた。「僕には充分「良い子」だよ」なんて本音を零してしまうほど、空気の読めないやつじゃない。僕はじっと、樫田さんの少しく丸っこい字がプリントを埋めていくさまに目を落としていた。
「樫田さんは頭良いし大丈夫でしょ」
「それを言うなら高畑くんの方でしょー。こないだの中間、トップだったし!」
僕らの高校は今時古風なことに、定期テストの成績優秀者を廊下に貼り出している。
「問題は平井くんだね」
「お、言うねえ。ほんとあいつ全然勉強しないの。それ指摘すると「留年しない程度に上手くやってるからいい」なんて威張り出すし、もうほんと馬鹿」
平井くんを罵倒しながら、樫田さんは一番優しく笑っている。
「あ。ごめん高畑くん、スマホ教室に忘れてきたみたい。取ってくるから待っててくれる?」
帰り際、樫田さんはそう言って図書室を走り出ていった。リュックを広げた僕も、ロッカーに仕舞っておこうとして忘れたカチューシャ(明日の衣装の一部。やたらにふりふりしたレースが二重にくっついている)が入りっぱなしであることに気付く。別に持って帰ったっていいけど、どうせ待ってるなら追いかけようと思って僕も教室に向かった。もうほとんどのクラスが準備を終えていて、いやに寂寥とした校舎に上靴の音が木霊する。
「あれ、あんたなんでいるの?」
教室後方のドアから僕らの二年三組に入ろうとした時、中から樫田さんの声が漏れてきて、それが誰かに話しかけているような内容だったから、僕はためらった。半分ほど開いたドアの陰に隠れて、聞き耳を立ててしまう。
「一組のやつらの準備手伝ってた」
「え、そんなのありなの。まあいいけどさ、あんたももう帰る?」
立ったままスマホを操作する樫田さんの隣に座っているのは、平井くんだった。彼はこちらに背を見せているから、表情までは窺えない。喫茶店仕様に机と椅子が並び替えられた室内の、彼らは真ん中にいた。
「お前今までどこいたんだよ」
「図書室だよ。高畑くんと明日提出するプリント作ってたの。私は高畑くんと帰るけど、あんたも一緒に帰る?」
スマホをスカートに仕舞って、樫田さんが言った。
「……高畑、ね」
吐き捨てるような、平井くんの声色。紺を帯び始めてきた空が、窓を突き抜けて彼の茶髪に落ちていた。
「俺あいつ嫌いだわ、高畑」
「え、なに急に。てかそういうこと言うのやめなって言ってるでしょ、いつも」
ショックとかはない。予感のようなものはあったし、何より、人気者でやたらに人付き合いの多そうな平井くんが、嫌いになるほどに僕を意識していたのだという事実の方に驚いた。あと、樫田さんはやっぱり「良い子」なんだな、とも思った。
この時点では本当にそれだけだった。衝撃的だったのは、次に平井くんが放った言葉だった。
「高畑、俺らのこと馬鹿にしてんじゃん」
「ええっ、そんなことないって。普通に良い子だよ、高畑くん」
「つうかあいつ、お前のこと好きだろ」
お前のこと好きだろ。
……それはつまり、僕が樫田さんを、好きだってことなのか。
横顔の樫田さんはきょとんとして、それから吹き出した。
「なあに言ってんの、そんなわけないじゃない。大体、あんたの言ってること矛盾してるよ?」
平井くんは立ち上がって、樫田さんの方を向いた。その目はまっすぐに、睨みつけるみたいに樫田さんを見据えていた。クラスのムードメーカー的存在で、どちらかといえばおちゃらけたキャラである普段の彼からはとても想像がつかない、樫田さんだけのための瞳だった。
「俺、本気で言ってんだけど」
二人の間に沈黙が横たわる。そののち、樫田さんは逃げるように平井くんから目を背けた。
「で、でも、ありえないってやっぱり。考えすぎだよ」
前髪を触りながらごまかすように笑った樫田さんの右腕を平井くんは掴み、前髪から引き剥がしたあとで唇を重ねた。重ねるというよりは押しつけると言った方が合ってるかもしれない、それぐらい一方的で、勢いがあった。押し返そうとする樫田さんの後頭部を押さえた平井くんは必死としか形容できない様子で、ただならぬ雰囲気を放っていた。
この二人を結びつけているものは、それぐらい「本物」なのだ。
「……笑ってんじゃねえよ」
唇が離れたあとで、平井くんが呟いた。右腕を捉われたままの樫田さんの目元が熱っぽく蕩けていることが、遠目にも分かった。
もう一度、二人の唇が重なり合う。僕は踵を返して、廊下を走った。
――平井も中学ん時はもっとマシな女連れてたのにね。
別の女を愛撫しただろう唇で、平井くんは樫田さんに触れる。
――よかったら一緒に帰らない?
――高畑くんと来れてよかったって思ってるよ。
――楽しみだね。
僕にそう言った唇で、僕に微笑みかけた唇で、樫田さんは平井くんに触れる。
図書室の前にある男子トイレに駆け込み、僕は思いきり蛇口をひねって唇を拭った。何度も何度も、拭った。目の前の鏡には、自分の顔が映る。口元を濡らした僕が。平井くんとは違う顔をした、僕が。
汚い。平井くんも、樫田さんも。僕とは違う。
トイレを出て図書室に戻る。さっきまで僕らがいたテーブルの上には、二人ぶんの鞄が置き去りにされたままそこにあった。無骨な僕のリュックの、隣にある樫田さんのバッグには、キーホルダーがついている。くまが東京タワーを抱き締めてるチャーム型のキーホルダー、それが平井くんとお揃いのものであることは、クラスの誰もが知っている。
ねえ、君は僕と同じじゃなかったの。近くにいるんじゃなかったの。
「――樫田さん」
これは恋じゃない。でも僕は、樫田さんを愛おしいと思う。良い子で鬱陶しくて無防備で、汚いところなんかこれまで一切見せなかった彼女を、つまり僕のことなんかどうだっていいと思ってる彼女を、愛おしいと思う。だからあんな汚いところ、最後まで隠し通してほしかったのに。僕は知りたくなかったのに。馬鹿なんだよ君は。見せつけるなよ。
「――樫田さん」
君がいけないんだ。僕なんかの前で大事なものを曝け出してしまう、無防備すぎる君が。僕の近くに居着いてくれない君が。
僕は樫田さんのバッグについたキーホルダーを毟り取った。それを自分のリュックに押し込んで、図書室を後にした。
文化祭当日、僕らの高校は人で溢れ返っていた。外部の人間も自由に出入りできるため、泣き声やら奇声やら色んな声がそこら中から湧き出していて、騒々しさに拍車をかけていた。
そして僕らのクラスはといえば、物凄いことになっていた。なにせ男子がメイド服(黒いジャンパースカートとやらに白いエプロンとカチューシャ)を着て女装、女子が執事服(全身黒の、典型的なやつ)を着て男装をしているのだ。視界に与えるインパクトは、暴力的なまでに強い。クラスメイトも、げらげら茶化し合っているのもいれば、本気でうんざりしたような顔をしているやつもいた。
「うわあ、似合ってるよ高畑くん!」
僕のメイド服姿を見た樫田さんが、声を華やげて駆け寄ってきた。当然、彼女は僕の姿になんらかの反応を示した、唯一の人だった。
「高畑くん顔綺麗だもんね。ちゃんとメイクとかしたら本当に女の子に見えそう」
「それ、褒め言葉なの?」
「褒め言葉だよお。あ、ごめん、嫌だった?」
執事服姿の樫田さんが、心配そうに僕を覗く。平時は下ろされている髪が今日はポニーテールになっていて、その動作と一緒に左右に振れた。僕は顔を背ける。
「嫌ってわけじゃない、よ」
「ほんと? よかったあ」
「ねえ樫田さん」
僕は、これから片付けに行くんだろう樫田さんの手元のバッグに視線を落として、言った。あたかも今、気付いたみたいに装って。
「キーホルダー、ついてないね」
「え? ……ああ、そうなの。どっかで落としちゃったみたいで」
苦笑しながら、樫田さんは昨日までキーホルダーがついていた部分を爪ではじいた。僕はじっと、樫田さんの顔を見ている。
どうして笑えるの。あれは大切なものなんでしょ。大事に持ってた、平井くんと同じものなんでしょ。
ねえ、僕が盗ったんだよ。
「うわっ、平井やべえ!」
教室中に響いた大声。振り返ると、メイド服に着替えた平井くんがクラスメイトに囲まれて立っていた。なぜか得意気な表情で、腰の前で手を組みながら「お帰りなさいませえ」なんて作った甲高い声でパフォーマンスしている。彼はそういう道化役を、自ら買って出るのだった。彼の周りの人間は「キモい!」「目に毒だっつーの!」と平井くんを罵倒しながら、爆笑している。さらに平井くんは、ちょっと尻を突き出しながら投げキッスまでしてみせていた。
「ちょっ、駿介!」
樫田さんはあっけなく僕から離れて、平井くんの方へ走り寄っていった。平井くんも、樫田さんを発見するともう他の人間なんかいないみたいに彼女しか見なくなった。
「似合ってなさすぎっ。不気味だから変なことすんのやめなよ!」
「うっせーな、お前だって似合ってねえよ。スタイル悪ィしチビだし」
「なっ、それはしょうがないでしょ! あんただってその格好でガ二股すんのやめてくれる?」
ぎゃーぎゃー言い合っている二人を、僕は教壇の上から、白けた気持ちで眺めていた。こうやって他のやつらに主張しているのだ、二人は。こいつは自分のものだから近付くなと。樫田さんは僕に綺麗な言葉ばかりをくれたけど、あっちの方が「本物」だと思えるのは、つまりそういうことなのだ。
でも、君たちのやり方が通用しない人間だっている。
それは僕もそうだし、窓際に凭れて樫田さんを睨んでいる、例の不良女子集団だってそうだ。君たちを祝福しない人間なんて大勢いる。隙を縫って壊してやろうと企んでる人間だって、いる。少なくとも、ここに。でも君は無防備だから、そんなことにも気付かない。
僕はどうしても、君の笑顔を歪ませたいというのに。
文化祭は大きな事故もなく終わった。異性装というコンセプトが珍しかったのか僕らのクラスはそれなりに盛況で、最終的な売上も僅かに黒字だった。閉式終了後、学級委員は体育館の後片付けをしたために、解散は他より遅れた。教室に戻ると、賑やかな内装はそのままに、人の姿だけががらんとなくなっていた。
「ひゃー、みんな行っちゃったねえ」
もう制服に着替え直している僕と樫田さんは、ロッカーからバッグを取り出して帰路につく用意に取りかかった。僕らのクラスは駅前のカラオケボックスで打ち上げをすることになっている。
「高畑くんやっぱり人気だったね。写真とかたくさん撮られてたでしょ」
にんまりと口角を上げる樫田さんの方は見ず、僕は教卓にリュックを投げ出した。
「本当はあんなの死んでも嫌だけど、みんながサービスしろってうるさいから」
「ふふ。高畑くん普段おとなしいけど、今日は色んな人と喋ってたね」
「そうだっけ」
「そうだよ。色んな高畑くん見れて、私嬉しかったな」
出た、「良い子」。でもそれはもう、蔑みの対象じゃなくて樫田さんの一部だ。
「笑った顔とか、こんな機会なかったら見れなかったかもだしね」
樫田さんは僕の隣にバッグを置き、二本の人差し指をそれぞれ頰に添えて悪戯っぽく笑った。夕暮れで、教室は一面オレンジに染まっている。僕はまた夕日の中を、樫田さんといるのだった。
「学級委員の仕事、まだまだいっぱいあると思うし。これからもよろしくね、なんて」
僕の目の前に樫田さんがいる。手を伸ばせば届いてしまう場所にいる。平井くんに見せるようなものじゃない、ありふれた笑顔で、いる。
「……ほんと言うとね、私、高畑くんとはどうしても距離がある気がしてたんだ」
唐突な告白に、僕は息を呑んだ。樫田さんは目を伏せて、でも笑んだままだった。
「突き放されてるっていうか素っ気ないっていうか……って、これじゃ私が被害者みたいな言い方になっちゃってるけど、でもそんな感じがして」
間違ってないよ、とは心の中だけで伝えた。僕は君が鬱陶しくて、見ているだけでイライラして、でも今は、愛おしいと思う。僕らの間にある距離を、僕と同じように自覚してくれていた樫田さんが愛おしい。もしかしたら平井くんよりも強く、僕は君を愛おしんでいるかもしれない。
「でもやっと、ちょっとは近付けたかなあって。ごめん、勝手に思ってるだけだけど」
それが、あの時君が言いかけたことなの。君が僕に期待して、望んでいたことなの。
僕と同じに、君も僕の近くに来たかったの?
すぐ、離れるくせに。
「ちょっとだけかもだけど、高畑くんのこと知れてよかった」
でももっと知りたいな、と樫田さんは微笑む。
僕のことを知って、それで君はどうするつもりなんだろう。僕が君を愛おしんでいることを知って、でも同時に悪意を抱いていることも知って、君は僕に何を思うのだろうか。
「樫田さんは楽しかった?」
不意の問いかけに、樫田さんがゆっくりと顔を上げて僕を見た。首をかしげている。
「え?」
「平井くんと回ったんでしょ、文化祭。楽しかった?」
ぽかんとしていた樫田さんは、質問の意味を理解すると、頰にほんのりと夕日のせいじゃない赤みを差して、口を開いた。
「楽しかったっていうか、あいつが一方的に楽しんでた感じかなあ。なんかずっと食べてばっかいたし」
「でも楽しかったんでしょ?」
だからそんな顔するんでしょ、はにかんで、顔赤くして。でもそんな表情、僕なんかに見せちゃいけないと思う。平井くんだけに見せなきゃ。だから君は無防備なんだよ。それを見た僕が君に何を思うか、考えてよ。
僕は樫田さんを見据えた。樫田さんは少し戸惑った顔をしたけど、そのあとで頷いた。
「屋上は行った? 月、見たの?」
僕らの高校にはジンクスがある。文化祭の日、屋上で昼間の月を見つけることができたカップルはずっと幸せでいられる、というものだ。人付き合いに疎い僕でも知っている、馬鹿らしいけど有名な、そして結構信じられてるらしいジンクス。
平井くんはそういうお祭りごとに便乗したことが好きそうだし、樫田さんも純粋だから、てっきり「行ったよ」なんて答えが返るだろうと予想していた。でも違った、樫田さんはちょっと困ったようにかぶりを振って、「行ってない」と告白した。
「駿介、そういうの信じない性質なんだよね」
「……へえ。樫田さんはそれでよかったの?」
本当は見たかった。そう、言ってほしかった。俗っぽいことを、有象無象の他のカップルと変わらない、くだらない面もあるんだってことを、僕にはっきりと晒してほしかった。これ以上二人を、完璧だと思いたくなかった。
僕の願いは届かずに、樫田さんは「いいよ」と呟く。
「そういうのに縋らなくても大丈夫だって、思ってるから」
信じてたいって方が正しいかもしれないね、と樫田さんは苦笑する。僕は樫田さんの後ろにある、昨日平井くんが座っていた席に焦点を合わせていた。深くて暗くて、どこまで沈んでも先が見えない奈落に急降下していくみたいな感覚があった。膝が震えて、立っているのがやっとだった。
ジンクスなんか当てにしなくても、キーホルダーなんかなくなっても、二人はずっと二人のままだ。僕が何をしたところで壊せない。でも壊せないってことを、僕は信じたくない。
だって僕も、樫田さんのそばにいきたいんだから。
「……って、そんなのどうでもいいよね! ごめん、帰ろっか」
喋りすぎたと思ったのか、樫田さんは焦ったように、はぐらかすみたいに捲し立ててバッグを肩にかけた。教室を去ろうとする樫田さんの上腕を、僕は反射的に掴んでいた。
「高畑く、」
「僕は知ってるよ、樫田さんのこと」
樫田さんが僕を見上げる。濡れたレンズに、僕の顔が丸く歪んで映っている。
「キスしてたでしょ、ここで」
樫田さんは何を言われているのか分かっていないらしかった。呆然と僕を見つめる樫田さんの唇を、視線でなぞる。
「昨日ここでキスしてたよね、平井くんと」
樫田さんが、目を見開いた。動揺したように瞳をさまよわせて、僕の手を振り払おうとする。でも僕は放さない。樫田さんの体が、僕の影に覆われる。静寂の中に、完全下校を促すチャイムが割入ってきた。
「ご、ごめんね。私、気付かなくて。変なもの、見せちゃって……」
樫田さんは目線を落として、それからぱっと頭を上げた。作った笑顔がそこにあった。
「忘れて、ほしいな。本当にごめんね」
――……笑ってんじゃねえよ。
樫田さんはこうやって何度も、平井くんといる時も笑顔で逃げようとしたことがあったんだろう。「良い子」だから相手を突き放すこともできなくて、笑うことでごまかしてきたんだろう。
「忘れないよ」
でも僕は、樫田さんの思惑通りになんてなってやらない。
「僕がどう思ったか教えてあげようか」
「え――」
「汚い」
ひゅっと、樫田さんが息を止める音がした。握った腕が、微かに振動した。
「汚いって思った。君も、平井くんも」
静止したまま僕を見つめる樫田さんの、双眸にじわじわと涙の膜が張った。それは雫として零れ落ちることなく、澄んだ水晶体を潤ませたままでなみなみと溢れる。僕はそれを、つついて手に入れたいと思う。だってそれは昨日、悦びに溶ける瞳と全く同じ色をしていたから。
悦と、哀。正反対の感情を内包する瞳が、どうして同じに光るんだろう。
「あ、の、私っ……」
今にも消え入りそうな声で、樫田さんが何か訴えようとする。でもそれは言葉になりきらず、僕を拒絶することもできなかった。樫田さんは完全に俯いて、僕を視界から排除する。
「ごめん、なさい。高畑くん――」
垂れて樫田さんの顔を隠す毛先から、例の甘酸っぱい香りが漂ってきた。平井くんはこの香りを抱いて、この皮膚に触れて、唇を犯していた。彼にできることが、僕にできないはずがない。
樫田さんが汚いなら僕も汚くならなきゃいけない。じゃなきゃ釣り合わない。そして僕を汚くしてくれるのは、樫田さんだけだ。僕は樫田さんによって汚くなりたい。
「樫田さん」
樫田さんの顎を持ち上げる。彼女が身をねじる前に、僕は唇を彼女のそれに押し当てた。一瞬間やわい感触が僕の下唇を撫で、すぐに霧散する。樫田さんに勢いよく胸を突き飛ばされた僕は、よろけて背後の教卓に激突した。がしゃん、という金属音が、沈黙にやたらと激しく響く。
樫田さんは震えて、僕を突き飛ばした手の形を保ったまま硬直していた。まるで彼女の方が大罪を犯したみたいに、頰を蒼白にして目元を充血させている。こんな状況にあってさえ罪悪感を覚えている彼女は、やっぱり「良い子」以外の何物でもない。
身を翻して教室から逃げ出そうとする樫田さんの肩を捉え、振り向かせる。
「やだっ、放してっ」
「僕のこと知りたいんでしょ」
君はそう言ったじゃない。だったら逃げないでよ。最後まで、全部知ろうとしてよ。
何度も何度も首を振って否定する樫田さんを、僕は廊下側の壁に押しつけた。バッグを落とした樫田さんの、両手を拘束して押さえつける。強引に唇を重ねて、僕は樫田さんを支配した。目を閉じて昨日の光景を思い出して、僕は平井くんがやっていたように彼女に口付ける。息吐く間さえ惜しみながら、樫田さんを知ろうとする。
平井くん。樫田さんに触れることは、君だけの特権じゃない。
樫田さん。僕も君に、近付きたいと思うよ。
「樫田さん、」
樫田さん。明日から君は僕に触れた唇で、平井くんにも触れるのかな。
自分のとは違う唾液の味がして、つまりそれは樫田さんのものだった。甘いのか苦いのか酸っぱいのかなんて判断がつかない。脳内は沸騰して真っ白で、ただ樫田さんの味だってことだけが、はっきりと理解できていた。
「樫田さん、」
幾度も呼びかける。でもその先は続かない。伝えたいことがあるはずなのに、どうにも言語化できなくて、愛おしさを持て余す。
樫田さん。ねえ、樫田さん。
……離れないで。
その時、この場にそぐわない、あまりにも作り物じみたシャッター音が聞こえてきた。ハッとして後方のドアを見遣ると、スマホを構えた女子が立っていた。不良集団のうちの一人だった。彼女は「やべっ」と叫んで、踵を返して逃げていった。
残された僕は、樫田さんを見下ろした。両手首を解放された樫田さんは、細い涙を零したまま、微動だにしなかった。ドアの方へ視線を向けたまま、固まっている。淡い桃色をした唇は、粘着質な液体にまみれててらてらと光沢を放っていた。
「追いかけなくていいの?」
両肩を跳ねさせた樫田さんは、僕を見ようとしない。
「平井くんと、いられなくなっちゃうよ」
そこでやっと、恐怖に歪んだ目で樫田さんが僕を睨んだ。睨んだ、と表現するには弱々しすぎる瞳だったけど、樫田さんは確かに僕を拒絶した。そして床に転がっていたバッグを拾い上げると、教室を飛び出していった。僕は一気に力が抜けて、その場にしゃがみ込んでしまう。額を押さえる。汗が滲んでいる。
盗まれたキーホルダー、意思に反したキス、これから樫田さんを陥れるだろう、あのスマホの写真。これまで潜在していた悪意が表面化して、でも、それでも君は「良い子」のままでいられるんだろうか。平井くんとの「名物カップル」を、守ることができるんだろうか。
ねえ、やっぱり君たちは月を探した方がよかったんだよ。互いが互いを思い合っていることに無自覚でいる君たちが、大丈夫なわけがないじゃないか。
僕の気持ちは恋じゃない。恋ってきっと、もっと優しい想いなんだと思う。僕が樫田さんを愛おしむ気持ちには優しさなんてこれっぽっちも含まれていない。でも、僕は確かに樫田さんが愛おしい。それだけは何があっても変わらなくて、だからもし樫田さんが一人になるようなことがあるなら、その時は僕が平井くんの代わりに彼女を守るべきだろう。
僕が、手を伸ばすのだ。樫田さんがこれまで、僕にしてくれていたように。