1
鈍色の雲が空を覆い、冷たい雨粒が帰宅中の僕の傘にぽつりぽつりと落ちる。朝の番組で天気予報士が「雨が降る地域もありますが、小雨なので折り畳み傘で十分でしょう」と嘯いていた。何が小雨だ、クズ予報士が。豪雨じゃないか。あのクズにはこれが小雨に見えるのだろうか。電話で問い合わせてみたいもんだ。
それにしても、普通の傘を持ってきて正解だった。あのクズを信じて折り畳み傘を持ってきたやつらが憐れでならない。この秋も深まる十一月に、上から下までびしょ濡れになっている通行人を一瞥し、僕は冷笑を浮かべた。
やはり、人の言葉なんて信用するもんじゃない。信用すればするほど、損をするのは自分なのだから。
いつもの通り最寄り駅から自宅への道を歩く。高校へは電車で二十五分。最寄り駅から自宅までは徒歩で二十分。毎日四十五分もかけてあんなくだらない高校に通っているのかと思うと憂鬱になる。教師もクズ、生徒もクズ、誰も彼もクズばかり。早くあんなクズ高校を卒業して、僕は自由になりたい。誰も干渉してこない、本当の自由を手に入れたい。
僕は、本当は誰とも関わりたくなんてないのだ。クズ共なんかと関わったって僕に何のメリットもない。ただ気分が憂鬱になるだけ。だから僕はいつか完全な自由を手に入れる。このクズしかいない世界とおさらばしてやるのだ。おさらばと言っても別に死ぬわけじゃない。僕が死ぬ必要なんてない。僕は生きながら、自由な人生を謳歌する。
人通りの極めて少ない閑静な住宅街。僕が住んでいるのはこの住宅街にある地味なマンションだ。母親は何年も前に病気で他界している。父親は出張の多い仕事で、家に帰ってくることはほとんどない。そのため僕はもう何年も一人暮らしに近い生活をしている。生活費は父親が毎月振り込んでくれるし、家事全般はこんな生活をしているうちに身に付いた。だから、苦労はしていない。ずっと一人だから、今さら寂しいなんて思うこともない。
「……ん?」
数日前まで自宅の近くに雑草の生い茂る空き地があった。しかし今はきれいに刈り取られ、マンション建設予定地となっている。そこに女がしゃがみ込んでいた。足場工事の真っ最中、鉄骨が張り巡らされた工事現場で、その女は何か作業をしているようだった。傘も差さずに大降りの雨を全身に受けているせいで、黒い巻き髪が肌に貼り付いている。真っ黒なジャンパースカートもびしょ濡れで、このままでは風邪を引いてしまうだろう。
でもそんなこと、僕には関係ない。こんないかれたやつには関わらないのが一番だ。雨の日の工事現場で何かの作業をする女。絶対に変だ。きっといかれてる。
しかもいかれた女を見守るかのように、一匹の黒猫が塀の上に佇んでいる。黒猫なんて、何だか不吉だ。こんな奇妙な女の傍に近寄らない方が身のためだ。
僕はいかれた女に冷ややかな笑みを贈り、その場を後にした。
いや、しようとした。
でも見てしまった。見たくなくても目に入ってしまった。女の頭上に今まさに倒れんとしている鉄骨の存在が、嫌でも視界に飛び込んできた。
見て見ぬふりをしよう。そう思った。何故なら僕には全く関係のないことだからだ。それなのに、その場を去ることが出来なかった。自分の意思に反して体が女の方へと向いていく。そして、次の瞬間には走り出していた。
「おいっ!」
僕の怒鳴り声に驚き、女は弾かれたように顔を上げる。なんてタイミングが良いんだろう、それと同時に鉄骨が女の頭上へと倒れてきた。
「ひっ!」
鉄骨の存在に気付いた女は短い悲鳴を上げる。そのまま立ち上がって避けるかと思ったが、どうも足がすくんで動けなくなったらしい。僕は咄嗟に女を引き寄せ抱き込むと、地面に滑り込むようにして庇ってしまった。
――間一髪。
鉄骨は地面に音を立てて倒れた。僕らと鉄骨の距離は数センチといったところだ。本当に間一髪だった。やはり黒猫は不吉の象徴だな。
顔も制服も鞄も傘もみんな泥だらけ。大きな傘を持ってきた意味がなくなったな。
一時放心状態に陥っていた女だったが、僕が立ち上がろうとするとやっと我に返った。図々しくも、自分の左手で僕の右手を取り、待ってくれと言う女。そのまま立ち上がることも出来ず、僕は仕方なく女と向き合った。
「あああああ、ありがとうございます!」
あがものすごく多い感謝の言葉を頂いた。馬鹿らしい挙動とは裏腹に、声は儚く消え入りそうな、澄んだ声だと思った。
「別に」
「ああああああ、あの……おおおお、お名前をお聞きしてもよろしいですか?」
名乗るほどのものではない、という良くある台詞を思いついたが馬鹿らしいので言わないでおいた。特に言ってみたいとも思わないし。……嘘ではない。
「並原調」
「調さん……ですか。と、とっても素敵なお名前ですね」
そう言って女は馬鹿っぽく微笑む。鼻の上の泥が馬鹿っぽさを更に加速させていた。
「あ、わ、私は木崎奏子って言います」
「別に聞いてない」
「あ、すすす、すみません!」
おどおどと何度も何度も頭を下げる木崎奏子。何というか、こいつを表す言葉は「挙動不審」。この言葉以外にないだろう。
「あ、あの。本当にありがとうごさいました。お、お怪我はないですか?」
「別に。ない」
「あああ、良かったです。あ、あの! お礼に何かごちそうでも……あ、でもその前にお洋服を洗濯してお風呂に……あ、わ、私の家、ここから少しかかるのですが――」
「いい」
木崎奏子の言葉を遮り、僕はそう言った。さっきは人が鉄骨の下敷きになるところを見たくなかったから仕方なく助けただけ。これ以上、関わるつもりはない。
「僕、急いでるから。じゃ」
適当に言い訳をして、今度こそ立ち上がる。そして木崎奏子を助ける時に投げ出した泥だらけの通学鞄と傘を拾い上げた。傍から見れば泥遊びをした子供のように見えるかもしれない。まあクズ共にどう思われたって僕は何とも思いやしないが。
僕は木崎奏子に背を向け、歩き出した。
「あ、し、調さん」
名前を呼ばれたら振り返らざるを得ない。仕方なく振り返ると、びしょぬれで泥だらけな木崎奏子が二つの大きな瞳で僕を見つめていた。
ここで初めて僕はしっかりと彼女の全身を自らの瞳に映した。
弱弱しい印象を受けるたれ気味の薄い眉毛。ついでに目もたれていて、とても意志が弱そうに見える。しかし近寄らなくても分かるほど睫毛はボリュームがあり力強い。その下で揺れる宝石のような瞳は美しく、黒の巻き髪は雨で濡れてさえいなければきっと細くてとても柔らかいのだろう。肌は不健康に見えるほど白く、黒髪とのコントラストが見事だ。身に着けているものもほとんどが黒。黒のジャンパースカート、黒のタイツ、黒の靴、黒のカチューシャと、今から葬式にでも行くのかと思うほど黒で統一されていた。背は高くなくとても華奢だが、豊満過ぎる胸に自然と目が釘付けに……。
「……って何を考えてるんだ」
頭を振ってから、こちらを潤んだ瞳で見つめる木崎奏子に泥だらけの傘を押し付けた。
「え、あ、あの?」
「ん。やる。返さなくて良いから。じゃ」
傘を貸してやらずにはいられなかった。どうか私を助けてくださいと必死に助けを求めるような、あんな目をされては。いや、貸したんじゃない。あれは、あげたんだ。貸したとなれば、返してもらうためにまた会わなければいけなくなる。でも僕にもう会う気はない。だからあげたのだ。もうお前とは会う気はないぞ、という意思表示だ。
それなのに――。
「あああ、ありがとうございました! ま、また今度お礼をさせて下さいね! 調さんっ!」
僕の背中に向かって木崎奏子はそう言った。
――他人に下の名前で呼ばれたのなんて、一体いつぶりだろう。
家に着くと、傘を差さずに土砂降りの中を走った僕の体はびしょびしょだった。このままでは気持ちが悪いので、とりあえず制服を脱いでシャワーを浴びた。それから通学鞄を濡れタオルで拭いて、制服をドライヤーで乾かすことにした。相当時間がかかるだろうが、湿って臭くなった制服を着ていくよりかはマシだ。
制服にボーっとドライヤーを当てていると、先程のことがふと頭を過ぎる。たった数十分の間、雨の中を走った僕でもあんなに寒かったのだから、木崎奏子は相当凍えているはずだ。家もあそこから少しかかると言っていた。風邪を引いてしまうのではないだろうか。
って、何だよ。だから本当に、そんなことはどうでもいいじゃないか。僕は何故もう会うこともない女の心配なんてしているのだろう。
「馬鹿みたいだ」
そう、独り呟く。本当に、馬鹿みたいだ。これ以上何も考えないようにと、音楽プレイヤーを鞄から取ってきて再生した。歌詞のある曲はあまり好きじゃない。思考の邪魔になるからだ。このプレイヤーに入っている曲もほとんどがインストのものだ。でも今回ばかりは自分を呪った。考えるのをやめようとしても無理だったのだ。むしろ心地良い音楽が思考に最適なBGMとなって僕を悩ませた。初めて最近の曲でも聞いてみようかと思った。
木崎奏子はどんな音楽が好きなのだろう。彼女の雰囲気からして、クラシックとか女性アーティストのバラードとか、そんな感じだろうか。いや、意外と最近の女子みたいに男性アイドルが好きなのかもしれない。
って、またか。何でたった一言二言を交わしただけの女の曲の趣味を想像しているんだ。全く意味がない。僕の人生に何の得もない。もっとこの時間を有意義に使わなければ。
そうだ、この曲が駄目なんだ。考え事に最適過ぎる。僕は一度ドライヤーを置き、テレビの電源を点けた。適当にチャンネルを回し、一番思考の邪魔になりそうな番組を選ぶ。テレビもうるさくてあまり好きではないのだが、今回ばかりはこのうるささに感謝せざるを得なかった。いつもは面白いなんて感じないクズ共総出演のバラエティが、今日は少しだけ面白く感じた。
次の日も雨だった。これなら一生懸命制服を乾かさなくても良かったかもしれないな。そんなことを思いつつ、僕はビニール傘を差しながら最寄り駅へと向かう。
数日前まで雨の日以外は自転車でこの道を通っていた。しかしきちんと自転車を止めないクズ共のせいで駐輪場が有料になってしまったため、それから毎日徒歩だ。僕はちゃんときれいに置いていたというのに。何故僕までクズ共に巻き込まれて不便にならなくてはいけないのだろう。今思い出すだけでも腹が立つ。
朝から一人苛立ちながら歩く静かな道。やはり今日もいつも通り閑散としていた。昨日木崎奏子と出会ったマンション建設予定地が見えてくる。どうやら今日はいないようだ。いや、早朝だからいないだけかもしれないけれど。
それにしても、あの女はこんな場所で一体何をしていたのだろう。こんな場所に何の用があるというのか。僕なら用はない。一生ない。それでもあの女はここで何かの作業をしていた。傘も差さずに一生懸命。己の身に危険が迫っていることなんか全く気付かずに。
うん、分からん。というかいかれた女のすることなんか分かっても困るし、もうこのことは忘れよう。どうせもう会うことはないのだ。覚えていたって何の得もないし、考えるだけ無駄。こんなことを考えるくらいなら今日の昼休みのことでも考えていた方がマシだ。
教室はうるさい。精神衛生上も良くない。せっかくの昼休みなのだからとことん休んでおきたい。どうやら便所飯とかいうのが流行っているらしいが僕は却下だ。何が楽しくて便所で飯なんか食べないといけないんだ。飯が不味くなる。食堂は教室以上にうるさいし、他に休める場所はあるだろうか。教室で我慢しておくべきなのか。いや、なんで僕が我慢しなきゃならないんだ。おかしい。
――そうだ。屋上はどうだろう。うちの高校の屋上は、自殺した女生徒の霊が出るという噂が広がって、近付く人間はほとんどいなくなったはずだ。だからきっと昼休みも貸し切りだ。雨の日は流石に無理だが、屋上なら見晴らしも良いし、落ち着いて読書が出来る。
気が付くと、いつの間にか駅に着いていた。ちょうど来ていた電車に飛び乗る。やはりあんな女のことを考えるより自分のことを考える方がいくらか有意義な時間が過ごせたな、と移りゆく景色を眺めながら思うのだった。
そう、もう会うことはない。久しぶりに何故か名前を覚えてしまった木崎奏子という女も、僕の人生に何の影響ももたらさないクズの中の一人でしかないのだ。一生会うことなんかない。
――はずだった。
はずだったのに、僕はまた出会ってしまった。昨日と同じような服装で、同じような作業している木崎奏子に。一つだけ違ったのが、黒い傘を差しているという点だった。僕があげた傘だろう。どうやら使ってくれているらしい。しかし傘はあまり意味をなしていないように感じた。作業に夢中になり過ぎて、完全に斜めを向いてしまっているからだ。黒い巻き髪も黒いジャンパースカートも、昨日と同じでびしょびしょだった。
そして、今日も彼女の傍らには謎の黒猫がいた。野良猫だろうか。それともこの辺で飼われている猫なのだろうか。まあ、そんなことどうでも良いんだけど。
「あいつホント、何してるんだ……」
気になる。気になりはするが……気付かれないように通り過ぎよう。昨日は仕方なく関わることになったが、今日は通り過ぎても何ら問題はないはずだ。僕は出来るだけ工事現場から離れて歩いた。パシャパシャと雨水を踏む音が辺りに響くが、作業に集中している木崎奏子は気付かないだろう。
「あっ! 調さんっ!」
と思ったのだが、気付かれてしまった。うーん、どうすべきなのだろう。このまま無視して通り過ぎるか。それとも少し話すべきか。いや、別にあいつと話すことなんてないな。よし、このまま気付かないふりをして通り過ぎよう。そうしよう。
「し、調さーん! あ、あれ? 聞こえないのかな。し、調さーんっ!」
どう考えても聞こえる距離だが、僕はただただ知らないふりをした。
「うー。私の声が小さいんでしょうか。よしっ! 調さーんっ! しっらっべっさーんっ!」
しつこい。ものすごーくしつこい。そしてうるさい。聞こえているから黙ってほしい。一応ここは住宅街の一角なんだ。はあ、仕方ない。僕は渋々木崎奏子の方を振り向いた。
「あ、気付いて下さった! 調さん!」
何が嬉しいのか、満面の笑みで道路に飛び出す木崎奏子。どうやら僕の方に近寄ってこようとしているらしい。
――その時だった。
細い道から突然バイクが飛び出してきて、木崎奏子の方へと曲がってきた。
前から歩行者と自転車の衝突事故が問題になっていた。「この道は出た先が良く見えないから気をつけるように」という内容の紙がこの辺の住人には配られている。多分このバイクのクズは住人ではなかったのだろう。それか、ただ単に約束事が守れないクズ野郎か。
僕に気を取られている木崎奏子は迫るバイクに全く気付いていない。バイクの方も必死に木崎奏子を避けようとしているが、タイヤが滑って上手く操作出来ないらしい。
「ちょ、危なっ!」
バイクのクズ男が叫ぶ。奏子はそれに気付き、振り向こうとした。でも今はむやみやたらに動かない方が良い。下手に動くとバイクに直撃してしまう。
「奏子、ストップ!」
僕は叫んだ。奏子は「え?」と驚きの声をあげつつも、大人しくその場に立ち止まる。そんな彼女の数ミリ横を、バイクがものすごいスピードで通り過ぎていった。雨で濡れて重くなっているはずの奏子の髪がぶわりと舞い上がる。
「あっぶねえんだよ、ブスっ! いきなり飛び出してくんなっ!」
バイクのクズ男は振り返り、そう捨て台詞を吐いていく。奏子にももちろん非はあるが、飛び出してきたのはそっちも同じだろうが。しかもブスとか全く関係のない捨て台詞を吐きやがって。別に奏子は、ブスじゃない。むしろ可愛い方だと思う。……多分。うん、多分。僕は知らない。多分一般的にいったらそうなんじゃないかと思っただけである。僕の好みだとか何だとか、そんなことではない。本当に。絶対に。
何か言い返してやれば良いのに、奏子は未だに放心状態だった。
「おい、大丈夫か」
「あっ」
僕が声を掛けると奏子はびくりと肩を震わせ、我に返った。大きな瞳をパチパチと瞬かせ、大きく深呼吸を一つ。そしてすぐ僕に深々と頭を下げてきた。
「また助けられてしまいました。調さん、ありがとうございます」
「別に。多少僕のせいでもあるし。僕を見つけて飛び出してきたんだから」
いやいや、何でだ。確実に僕のせいじゃない。こいつが勝手に飛び出して、バイクと衝突しそうになっただけ。うん、僕は悪くない。
「し、調さんは悪くないです。私、一つのことに集中すると周りが見えなくなる質で……」
眉尻を下げ、「困ってしまいます」と苦笑いを浮かべる奏子。本当に、な。このままだとこいつの死因は事故死で決まりだろう。
「でも作業に集中してたのに、僕のことは気付いたんだな」
「あ、今日の一番の目的は調さんだったのです。だから作業は片手間で、ずっと足音に注意を注いでいました」
「頑張りました」と自慢げに笑う奏子。頑張るようなことでも、自慢するようなことでもないだろう。変なやつだ。
「これからもそうしたら? いつか事故死するぞ。じゃっ」
早口でそう捲し立て、僕はその場を立ち去る。少し会話はしたし、これで良いだろう。今度こそ、これで奏子との縁は切れた。もう会うことはない。
「ままま、待ってください。こ、これ。昨日のお詫びの品です」
左手で僕のブレザーの裾を掴み、奏子は言う。仕方なく振り返ると、大きなラッピング袋を手渡された。その場で中身を確認してみると、真っ黒なマフラーが入っていた。
「何これ」
「あ、あの……こ、これから寒くなりますし、マフラー……使って頂けたら、と」
「編んだの? 一晩で?」
「は、はい」
「こんなに長いのを?」
「な、長すぎましたか?」
昨日あの時間から帰って、こんなに長いマフラーを編んでしまうだなんて。どんな集中力だ。一つのことに集中すると周りが見えなくなる、という彼女の性格には長所も確かに存在しているようだ。
「こんなのもらっても困るんだけど」
「あ、や、やっぱりマフラー持ってらっしゃいますよね。じゃ、じゃあ雑巾にでも何でも使ってやって下さい。お友達にあげて下さっても結構ですし……」
「いや、そうじゃなくて」
「あ、め、迷惑、ですか? あっ! も、もしやあの方は彼女さんですか? そ、そうですよね。彼女さんいらっしゃいますよね。そ、それなのに私は何たることを……」
「あの方? いや、いない。こんなことされたら気を使うって言いたいだけだ」
こいつはどれだけ一人で話を広げていくんだ。一人の時も自分自身と会話出来るから退屈しなさそうだな。
「そ、そんな。お気を使わずとも結構です。調さんは私の命を二度も救って下さったのですから。ここにこうして立っていられるのは調さんがいて下さったからです」
別に救いたくて救ったわけじゃない。ただの成り行きだ。こいつが危険になっている現場をたまたま見てしまったから、仕方なく助ける形になってしまっただけだ。
「感謝してもしきれないです。本当に、私を救って下さいましてありがとうございます」
でもこんな風に感謝されるのは悪くない、かもしれない。
「これからはもう少し周りを見ることだな」
「そうですね。死ぬわけにはいきませんし」
死ぬわけにはいかない。そう言って奏子は笑う。
僕は死にたがりが心底嫌いだ。逆を言えば、生きることに喜びを感じている人間は嫌いじゃない。必死に生きようとしている人間が、僕は好きだ。
「……これ、もらっとく」
「は、はいっ! ありがとうございます!」
奏子の笑顔を見ていると、胸の奥が熱くなる。このどうしようもない気持ちは一体なんなのだろう。
「それじゃ」
いてもたってもいられなくなって、僕はその場から退散することにした。このままここにいると、心臓病で死んでしまいそうな気がしたのだ。それくらい、心臓がどきどきと大きく脈打っていたから。
「あ、調さん」
「……まだ何か?」
「あの、先程奏子って呼んで下さいました。覚えて下さって、ありがとうございます」
頬をほんのりピンクに染めながら、上目遣い気味に奏子は言う。もう、何というか、ああ……。早く家に帰りたい。
「無意識だった。呼び捨てしてごめん」
「む、むしろ嬉しいです。下の名前で呼んでもらえることなんて、全然ありませんから」
「そ」
僕も同じだ。久しぶりに下の名前で呼ばれた。奏子もなのか。ということは、こいつも……一人、なのだろうか? いや、あだ名が「きさきん」だから下の名前では呼ばれないとかそんな理由だろう。僕とは違う。同じじゃない。
「あ、あの、また会えますか?」
こいつは僕にまた会いたいと思っているのか? 何故だ。意味が分からない。また助けてもらおうと思っているのか? それなら会いたくない。願い下げだ。そう何度も何度も人が危険な目に遭う現場なんかに遭遇したくない。
「毎日ここ、通ってるから」
ああ、僕は何を言っているんだ。
「そうなんですね。じゃあ、また会えるかもしれませんね」
何がそんなに嬉しいんだ。何でそんなに無邪気に笑うんだ。
「じゃ、今度こそ僕は帰るから」
「あ! は、はい。す、すみません。引き止めてしまって。それでは、また!」
「ん」
軽く頷いて、僕は逃げるようにその場を後にした。走って走って、思い切り走って、家に着いた頃にはまたびしょ濡れだった。ビニール傘め、ちゃんと傘の役目を果たせよクズ。そんな風に思いながら、ブレザーを脱ぐ。シャワー浴びるのめんどくさいな。何かもう、疲れた。自然乾燥にしよう。でも制服はちゃんと乾かさなくては。またひたすらドライヤーをかけるお仕事をしなければならないのか。そしてまた、先程のことを思い出して僕は悩むことになるのか。とりあえずテレビの電源を点けてみる。すると昨日とは違ったバラエティがやっていた。クズが司会でクズがゲストのクズ番組だ。企画もクズ。トークもクズ。演出もクズ。テロップもクズ。小道具も音響も何もかもクズ。それなのに、やっぱり少しだけ面白く感じてしまった。
でも奏子からもらったマフラーが目に入った瞬間、僕の思考は違う方向にシフトした。バラエティの内容が頭に入ってこない。全てを奏子と関連付けてしまう。
嫌になって、制服を乾かすのをやめ早々に布団に潜った。羊を三千匹数えたところまでは覚えている。きっとその辺りで何とか眠りにつけたのだろう。