ジェントル・マン
「あなた、今ボクの右の手には何が握られているのか分かっているのか?」
今まさにオレに殴られようとしている金髪の男は、オレの拳を目の前ほんの3センチメートルにして唐突にこう呟いた。
オレはそいつの美形と呼ぶにも高すぎるイヤミったらしい鼻をペチャンコに潰してやろうと振り下ろした拳をすっと止める。
男の前髪が拳の風圧を受けて数本揺れた。しかし、ヤツはオレの拳を鼻先に眉一つ動かさない。
こんな姿を前にしては、オレも啖呵の一つも切らずにはいられない。
「お前の手の中に何があろうがナニが握られていようが、お前がオレにボコボコにされる事実は揺るぎそうにないがな」
ことはほんの数分前、オレはこの歓楽街の顔役として、巡回と威圧を兼ねた夜の見回りに通りを闊歩していた。オレが肩で風を切るように大股で歩くと目の前の人垣が自然と二つに割れる。
さびれた地方都市でまともな娯楽も少ないこの町も週末の夜ともなれば汚い垢と欲に塗れた連中がごちゃごちゃと集まってくる。そんな連中がオレの顔を見るなり静かに道を開けるのだ。
オレはこの瞬間が人生で何より気持ち良かった。この世で誰よりも偉くなった気がしたし、実際この町ではその通りだった。しかし、この時は違った。
いつもならオレの目の前にきれいな道が真っ直ぐできるはずなのだが、その先から見知らぬ男が一人こちらに向かって歩いてくる。
男はシワの無いワイシャツにツイードを羽織り、ムラのない金髪を風になびかせていた。そして、オレの前で立ち止ると唐突にこう呟いた。
「そこの君。道の端に寄ってくれないか。君がいてはとても通れそうにないよ」
「それは残念だ。ならお前はポケットの有り金を全部置いてもと来た道を引き返さなくちゃな」
「それはここを退いてはくれないってことかい」
そう言って顔を上げた男は遠目で見たよりも大分子供っぽく思えた。
女にモテそうな、いわゆるベビーフェイス。オレの嫌いな顔だ。
「ボクにはどうしても行かなくちゃいけない場所があるんだ」
「オレには関係ないことだ」
「全く冗談は顔だけにしてくれよ」
オレは瞬間、頭に血が上るのが分かった。
オレの容姿はオレの前で最も口にしてはいけない言葉。絶対的な禁句。さらに、それをオレとは全く違う、男が口にした。
オレは男の台詞が終わりきる前、まだヤツの口が開いてるうちにそのキレイな顔をぐちゃぐちゃに潰してやろうと体重を前傾、拳をヤツの鼻に叩き込む。
「あなた、今ボクの右の手には何が握られているのか分かっているのか?」
オレは拳をヤツの鼻先3センチメートルで静止、冷静さを取り戻そうと一つ深呼吸してからヤツを見る。男は前髪を微かに乱れさせている以外眉ひとつ動かしていない。
オレは相手を威圧しようとこう叫ぶ。
「お前の手の中に何があろうがナニが握られていようが、お前がオレにボコボコにされる事実は揺るぎそうにないがな」
男はやれやれと首をひと振りするとオレから視線を外すことなくこう呟いた。
「あまり物騒なことはしたくない。ボクは紳士なんだ。だから、手を除けてくれないか」
「お前はオレを馬鹿にした。この罪はなかなか許されることじゃない」
オレはヤツの前から拳を離すことなくこう続ける。
「一発、というか死ぬまで殴られてくれないか」
男はやってられないとばかりに目を閉じると自分の右手についてこう説明する。
「実はね。ボクの右手というのは不思議なことに相手がこの世で最も恐れているものを何処からともなく召喚してしまうんだよ。それは相手にとって本当に恐ろしいもので、大抵の人はそれを見ると恐怖で絶命してしまう。だから、出来ることならあまり使いたくない。それに、何がでるのか召喚されるまでボクにも分からないんだ。ある時など、手から蛇と蛙と蛞蝓が数えられないほど溢れてきて危うくボクの心臓は止まってしまうかと思ったよ。まあ、相手の心臓は本当に止まってしまったのだけど。アナタも命が惜しいならその手をひっこめた方が賢明だよ」
「そんなハッタリ誰が信じるんだ」
オレは男の発言に呆れてしまった。こんな状況で平然と嘘を吐ける度胸はたいしたものだが、男の腕はか細くとても腕っぷしに自信があるようには思えない。殴りあいになればオレに分があるのは明らかだ。
男の苦し紛れの嘘に付き合って、ヤツの寿命をほんの少し延ばしてしまったことを後悔しながら、オレは止めていた拳を再び振り下ろした。
「あーあ、知らないよ」
オレは一瞬体がこわ張るのを感じたが、すでに振り下ろされた拳は止ってくれそうにない。
男はその拳とすれ違うように右手を突き出し、オレの目の前に開いた。
そこにあったのは本来はキレイな顔を垢と泥でわざと汚し、気持ちばかりの虚勢を張った女の顔。つまり、オレの顔だった。オレの目の前に突き出された男の右手には小さな鏡が握られていたのだ。
それはオレが目を背けてきたこと。そして、最も恐怖しているオレが女であるという事実を突きつけるものだった。
死んだ父親から顔役としてこの場所を譲り受けた時から女であることは捨てた。強くなければと思った。その時から鏡を見たことも、髪に櫛を入れたことさえなかった。上手くやれていると思った。しかし、実際はどうだ。
目の前に映るのは虚勢ばかりを張った弱々しい女の顔だ。オレは父親の威光を借りていただけだった。
オレは羞恥心で死んでしまいたくなったが、いくら地面をのたうち回ろうともとても死ねそうにはない。
「だから言っただろう。ボクは紳士だって。こんなうら若き乙女を傷つけることなんてとても出来ない」
男は高笑いを一つ残して、何食わぬ顔でオレの後ろを過ぎ去って行く。
オレはそんなことは意に介さずいつまでも、いつまでも地面に顔をこすりつけていた。