トワの大いなる学習帳:「レース(ミニカー2)」
「ぶーん」
俺が白い部屋で覚醒した体をゆっくり起こすと、ちょうどトワが先日譲ったミニカーを床から離陸させているところだった。彼女は小さな右手で握りしめたミニカーの高度を徐々に上げ、自分の目線と同じ高さまで来た所で水平飛行に入った。
「しゅぱー」
ミニカーをプレゼントした時は反応が薄くて焦ったものだったが、自分で考えた擬音をつけるとはどうやら随分と気に入ってもらえたようである。初めてトワを見た時はその大人びた雰囲気から中学生ぐらいだと推察したけど、もしかしたら小学生ぐらいの年齢なのかもしれないなと最近では思うようになっていた。知能はとても高く論理的であったが、逆に好奇心という部分だけ切り取って見るともっと幼く、未成熟に思えた。
「ずががっ」
ミニカーからミサイル的な何かが発射された音がした。どうやら何かと交戦中の設定らしい。少女はいつも通り何の説明も無く床のすぐ上をふわふわと浮いていたが、気が乗ったのかその内右手を高く掲げて決して広くない部屋の中をゆっくりと、しかし縦横無尽に飛行し始めた。
「あ、アキラ」
「気に入ったみたいだな、それ」
ようやく俺の存在に気付いた少女が旋回を止めたかと思うと瞬きの後には壁際から俺の前へと移動を済ませていた。俺はもうこの手のことには突っ込まないことにしていた。
「名前もつけた。偽アキラ男だ」
「何だその一面も揃ってないルービックキューブみたいな名前は」
キュビズムもびっくりのポストモダンセンスだ。少女は普段通りの無表情にも見えたが、よくよく観察すると少し早い息遣いや目の開き方から少し興奮していることが窺い知れた。初めて会った頃と比べると随分感情表現が豊かになったなぁと俺は一人感慨に耽る。
ふと少女の背後の壁に視線がいった。今まで全く気がつかなかったが、その壁の一部は意識して注視すると扉のような構造物があるように見えた。一度視覚情報として意識に入った影響か他の三方の壁もどうやら平坦では無く凹凸があることが徐々に感じられるようになっていく。しかしそれはあくまで感覚的に“そう思える”だけであって、どんなに目を凝らしても、あるいはどんなに接近しても白い靄がかかったようになり細部をはっきりと目視することは出来なかった。
「なぁ、トワ」
俺は偽アキラ男が如何にして重力から解放され空を航行出来るようになったかを熱心に説明しているトワの口上を遮って質問した。
「あれは何だ?扉か?」
「・・・・・・」
少女は話を止め、黙ってこちらを見返した。そのことに関して返答したくないというよりは、どう答えたら良いものか分からないといったような惑いの色を俺は彼女の視線から感じた。
「話を変えよう。前にこの部屋に俺以外に二人人間が来ると言ってたよな?その二人について教えてくれないか」
「ジギのことは話しても良いが、ディンには口止めされている」
ジギとディンというのは二人の名前だろうか。口止めされる程度の接触があったことにも驚きだが、外国人であることも気になるところである。疑問はつきず、増える一方だった。
「よし、じゃあこうしよう。今からレースをする」
レースという知らない単語に目を大きくして瞬きしているトワに、俺はポケットから取り出した第二のミニカーを突き出した。おお、と少女が息を呑み手を伸ばしてくる。俺はその手をサッとかわしてミニカーを高く掲げた。少女が不満そうな目をして偽アキラ男で俺の脇腹をつつく。
「これは景品だ」
「景品?」
「条件を満たすともらえるもの。このレースでトワが買ったらこの第二のミニカーをやろう。その代わり、俺が勝ったら扉とジギとディンの情報をくれ」
「分かった」
客観的に見れば明らかに不釣り合いな条件のためそれなりの交渉を考えていたが、少女はこちらの提示に二つ返事であっさりと了承した。彼女にとってこれらの情報にあまり価値がないのか、それとも余程ミニカーが欲しいのか。
「よーし、じゃあルールの説明だ。俺たちが今いるこの壁際にミニカーの尻をつけてセットする。そこからミニカーを走らせて先に向こう側の壁に車の鼻先をくっつけた方の勝ちだ」
「なるほど。平和的だ」と少女は何か深い発見を得たかのように何度も頷いた。
「じゃあ行くぞ。ドンでスタートな」
俺は今回のレースに勝利する自信があった。運動能力は人並み以上にあったし、陸上部の妹に子供の頃から散々付き合わされてきたのだ。いくら彼女が空を飛ぼうがこの短距離なら勝算は十分にある。この勝負に勝てればこの夢の世界の構造に関して確信を得られるものが手に入るかもしれないと思うと、自然と鼓動が速くなった。
「よーい・・・」
俺は息を整え、大きく吸った。
「ドン!」
「勝ち」
瞬きをする間もなく、反対側の壁にテレポートした少女が上下にぴょこぴょこと浮遊しながらこちらにミニカーの催促をしていた。
今日学んだこと
レース・・・ある諍い、あるいは決めごとを行う上で血を流さないために生み出された平和的な解決手段。
・参加者は武器ではなくミニカーを手に取りレースに臨む。
・私が間違いなく勝つ。