魔王の困惑
『魔王』
1000年に一度蘇り、魔族を先導し、人間を恐怖に陥れると伝えられている存在。その都度、世界中から勇者が探し出され、魔王討伐に向かうとされる。
だがポポル村は田舎すぎて、国からの御布令さえ届かないことすらある。
魔王が現れたという話は村には知らせが届いていないけれど、現れていて情報が届いていないだけなのか、魔王が本当に現れていないのかさえ定かではない。
だからこそ、その恐怖の存在が、私の家で私の下着をつまみあげているなんて。しかも、片田舎でパン屋を営む私に、匿えと言うだなんて。
「そんな事、信じられるか!明らかなる不審者め!」
私は居間にあった箒の柄を持つと、まるで剣の如く掲げた。自慢じゃないが、この箒で叩いて泥棒を成敗した事もある。
牛の角(っぽく見えるもの)は、作り物で、私を騙そうとしているに違いない。
そう思い込み、私が成敗しようと箒を振り上げると、魔王と名乗ったその男は動揺する事もなく、ただ冷笑を浮かべた。
「な…何で笑うのよ!」
余裕さえ見えるその様に、私は箒を振り上げて必死に威嚇をしながらも、咄嗟に逃げ場を探して視線を泳がせた。口で口撃していなければ負けてしまいそうな、嫌な予感が心を占めはじめていた。
その心の隙に気づいたかのように、男は微笑む口元を引き締め表情を硬くすると、鋭い視線を私へと向けた。
途端、どうしたことだろう。
部屋の温度が氷点下かと思えるほど、冷たいものが背筋を這い上がった。鳥肌が腕を覆い、ぐっと唾を飲み込むのがやっと。箒を持ち上げる腕が震えて、足を釘付けされたかのような恐怖が、相手が瞬時に変えた表情で心を占めてしまった。
歯の根が合わないという言葉の意味を、心の底から理解させられた。
もしかしたら、もしかするのかもしれない。
本当に、目の前にいる人物は………。
恐怖が、私の心を諦めへと変化させていった。
手を私の方へ掲げ、じわりじわりと真綿で苦しめるように近づいてくる存在を前に、私はゆっくりと目を閉じた。箒とともに高く掲げていた手を下ろしていく。
男の衣服の衣擦れの音だけが耳に入り、私は更に硬く硬く目を閉じた。
そのまま、どれくらいの刻がすぎただろう。
てっきり殺されるのだとばかり思ったが、何も起こらないし、苦しくもなんともない。
そっとそっと目を開いてみると……私のほんの至近距離の、1メートル手前で自分の掌を見て首をかしげている男がそこにいた。
冷たい雰囲気は一切消え失せ、どこかとぼけたような姿だ。
私が目を開けたことに気づくと、男はもう一度私の方に掌を突き出した。
咄嗟に目を閉じたが、やはり何も起こらず、もう一度目を開けば、突き出された掌が眼前にあり、その指の隙間から焦ったような困惑した様子の男の顔が見えた。
「…………魔力が枯渇している……。あやつとの戦いで、ほとんど消費したか……。」
男の独白に、とりあえず口を挟まずに様子を見る。
男の言う『魔王』という事を鵜呑みにするならば、伝承の通りならば『あやつ』というのは勇者で、勇者との戦いで魔力をほとんど使い果たした……という事だろうか。
あの恐怖を与える威圧感は本物で、死の恐怖を感じた。けれど、本当に『魔王』なのだろうか。
疑いの視線を送っていると、男は掌を一度引いて己で握りこぶしを作り、すぐに私の向って恭しく差し出した。まるで貴族のような礼儀正しささえ感じさせる態度に怯むと、男はまるで何事もなかったかのように笑顔を浮かべた。
「娘、俺の魔力が戻るまで、俺をここに匿え。さすれば、この世界の半分をお前にやろう。」
「いや、別にいらない。」
一瞬、2人の間に冷たい風が吹き抜けた(ような気がした)。
男は驚きのあまり目を見開き、私の方に半歩身を乗り出した。
「世界の半分でも満足できないだと!?なんと強欲な娘だ。」
「いや、そういう事でなくて…。」
世界なんて貰ったところで、嬉しくないし統治できるとは思えない。
どのモノに高く税金をかけるとか、法を布くとか、そんな小難しそうなことを考えるだけで、頭がこんがらがるに違いない。パン屋の経営だけで精いっぱいだ。
「では金か。一生かかっても使い切れない金をお前に用意しよう。」
これならどうだとばかりに胸を張り、自慢げに笑む男に私は冷たく返した。
「日々暮らす生活費があればそれでいいんで、別にいらない。」
またもや冷たい風が、2人の間を吹き抜ける。
男は愕然と口を大きく開き、頭を鈍器で殴られたかの如きショックを受けている表情を浮かべた。
綺麗な顔が歪む姿は、滑稽だ。
「ならば、何が望みだというのだ!」
「しいて言うなら、貴方がここから去ることかしら。」
私がそう返すと、男は目を閉じて頭を抱えた。
世界の半分をもらっても、扱いに困ると思うんですよね、実際。