死の影・5
朝起きると、克己はすぐに会社に連絡をして休む事を伝えた。
篠原が勤める雑誌社に行き、残されているかもしれないメモを見つけるためだ。何とかして昨日篠原が調べたものを見つけ出さなければならない。
幸いにも有休はほとんど使っていないし、仕事も先週末に一段落ついたところで、今休んでも誰にも迷惑はかからないだろう。
克己はどうやって篠原のメモを探し出したらいいものかを考えた。
その時、インターホンが鳴る。
インターホンの受話器を取ると、男の声が聞こえてきた。
――北見署の朝倉です。
その声に克己は昨日、篠原のマンションで事情聴取を受けたときのことを思い出した。あの時は刑事の名前など気にしていなかったが、確かそんな名前だった気がする。
克己は急いで玄関のドアを開けた。
グレイのダブルのスーツを着た克己と同じくらいの年頃の男が立っていた。昨日、篠原が殺された現場を取り仕切っていた刑事だった。
「おはようございます」
朝倉翔はそう言って軽く頭をさげた。
「今日は何か?」
事件の第一発見者としていずれまた聞きにくることは予想していたが、こんなに早く来るとは思っていなかった。
「ええ、ちょっとお聞きしたいことがありまして」
そう言いながら朝倉は克己の身体の脇から家のなかを覗き込んだ。「奥さんはいらっしゃらないんですか?」
「ええ、妻と娘はちょっと実家に帰っているんですよ」
「そうですか。山崎さん、今日はお仕事ではなかったんですか?」
「今日はちょっと用事があって休みました」
そう言ってからはっとした。朝倉は自分に事情を聞きにきたのではない。家族に克己自身のことを聞きにきたのだ。
克己は自分自身が容疑者の一人になっていることに気づいた。
「ちょっとよろしいですか?」
朝倉は中に入って良いか、というように家の中を指差してみせた。
「どうぞ」
戸惑いながらも克己は朝倉を家のなかに通した。
朝倉はしきりに家の中をぐるりと見回しながら、リビングのソファに腰を下ろした。若く見えるが克己よりも年上かもしれない。何よりもその動きからは長年刑事として培われた経験が見て取れる。
「実はですね――」
朝倉はポケットからビニール袋に入った紙片を取り出しながら言った。「昨日、いろいろ事情を聞かせていただいた後でこんなものが見つかったんです」
朝倉はその紙片をテーブルの上に置いた。それを見た瞬間、克己は表情を固くした。
(これは――!)
そこには篠原のものだとすぐにわかる独特の字が書かれていた。
ビニール袋のなかの紙片に『ヤマザキ』、『女』の二文字が書かれている事がはっきりとわかるが、四つ折にされているため他の部分はあまり読み取れない。手を伸ばし、それを広げたくなる気持ちを克巳はぐっと押さえた。
「これは篠原さんの字でしょうか? 彼のズボンのポケットから発見されました」
朝倉は克己の表情にじっと視線を向けながら訊いた。
「ええ、彼のものだと思います」
朝倉はそのメモを再び手に取ると、折られている部分を広げ、まるでもったいぶるようにちらりと克己に目をむけた。
「このなかに『ヤマザキ』と書かれてますが……これは何を意味しているんでしょうね? あなたのことじゃないんですか?」
「さ、さあ……」
「それじゃ、『沢木戸晃』という男を知ってますか?」
聞いた事のない名前だった。
「いいえ。それもそのメモに書かれているんですか?」
――だとすると、その男が何かしら関わっているのだろうか。
「そうです」
「誰なんです?」克巳は身を乗り出して訊いた。
「浅草に住む『祓い屋』ですよ」
「『祓い屋』?」
「ええ、呪いや悪霊を祓うアレですね」
やはり篠原は『ヤマザキカツミ』の連続した死が何かの呪いだとでも考えたのだろう。
「それは篠原君の知り合いだったんですか?」
「そうらしいですね。仕事で2年ほど前に知り合ったようです」
克己がその男を知らないということに、朝倉はがっかりしたようだった。
「その人は何と言ってるんです? もう話しを聞きに行ったんでしょ?」
「もちろん」
朝倉はすでに昨夜のうちに沢木戸晃の元を訪れていた。上野の雑居ビルに『祓い屋』として小さな事務所を構え、そこで御札や硝子球などを売っている胡散臭い男だった。朝倉の目には沢木戸はただのインチキ霊能者にしか見えなかった。いや、非科学的なものなど一切信じない朝倉にとっては、『霊能者』というだけで詐欺師にしか見えない。
「たいした話は聞けませんでしたよ。最近はそれほど会ってはいなかったそうですが、昨日、突然電話があって、篠原さんから除霊の依頼を受けていたということです。ひょっとしたらそのメモに沢木戸の名前があるのはそのためかもしれません。ただ、それが誰のための除霊かはまったく聞いていなかったそうです」
「そうですか……失礼ですが、そのメモには他に何が書かれているんですか?」
克己は食い下がった。朝倉はいぶかしげに克己の顔を見た。
「興味があるようですね」
「そりゃあ友人の最後のメモですから」
朝倉は不得の表情を浮かべると、ポケットから出した白い手袋を両手にはめてメモをビニール袋から取り出した。そして、四つ折になっていたメモを開くと読み始めた。
「『6月11日 東京、5月12日 秋田、4月13日 熊本』……何でしょうね、これは?」
朝倉にはわからないだろうが、克己にはすぐにその意味がはっきりとわかった。
6月11日は東京に住む山崎勝己が火事で死んだ日。
5月12日は秋田の学生の事故死した日。
そして、きっと4月13日にも『ヤマザキカツミ』の名前を持つ人が死んでいるのだ。
おそらく篠原が言ってたことはこのことだろう。
「何かこの意味がわかりますか?」もう一度朝倉は克己に声をかけた。
「い……いえ」
朝倉は克己の言葉を信じられないような目で見ていたが、それでも諦めたように肩を竦めた。
「そうですか……何かわかればと思ったんですけどね」
そう言いながら朝倉はメモを再びビニール袋に戻すと白い手袋をはずした。
「彼はやはり借金がらみで殺されたんでしょうか?」
「そういう見方をしている者もいますけどね」
朝倉はいかにも自分は違うというような顔をした。
「違うんですか?」
「借金取りが人殺しをしてどんな利益があります? 生かせてわずかずつでも搾り取るほうがよほど儲けになるでしょ。そんな殺しなんてしても割にあいませんよ。いずれにしても凶器が見つかれば一気に解決すると思いますけどね」
「凶器? どうしてですか?」
「昨日の死体ね、ありゃよほど鋭利な刃物じゃなきゃあんなふうにすっぱりと首を跳ね除けるなんてことは出来ませんよ。しかも、ああまでスッパリと首を跳ねた場合、その返り血もすごいはずだ。あなたも見たでしょ。あの部屋の様子。壁までべっとりと血が飛んでました。あの様子じゃ犯人は相当返り血を浴びてますよ」
朝倉の言葉に克己はほっとした。どうやら克己自身を犯人と考えている様子はない。だが、わざわざ克巳に事情を聞きにきたということは、克巳と何らかの関係があると睨んでいるのかもしれない。
「すぐに掴まえられますか?」
「もちろん。超特急で掴まえてみせますよ」
朝倉はそう言ってにやりと笑った。
* * *
朝倉が帰った後、克己はソファに座ると頭を抱え込んだ。
ほぼ2ヶ月の間に3人の『ヤマザキカツミ』が死を遂げている。そして、それを調べた篠原の死。これはもはや偶然といえるものではない。
(本当に呪いだっていうのか?)
今まで呪いなどということを信じたことなどなかった。それに他人に呪われるような覚えもない。だが、少なくとも篠原はそう考えていたのかもしれない。だからこそ『祓い屋』の沢木戸晃に除霊を依頼したのではないだろうか。
(そのために殺された……? そんなバカな)
自分の考えがあまりにも現実離れしていることに気づき、克己は頭を振って打ち消そうとした。だが、すでに頭に刻み込まれたその考えが消えることはなかった。それでもこれまで起きた全てのことは『呪い』という言葉意外には説明のしようがない。
(いったい誰に呪われてるっていうんだ? 俺が何をしたっていうんだ?)
いつのまにかすでに昼を過ぎている。
もともと会社を休んだのは篠原がメモを残していないかどうかを調べるためで、それは朝倉の来訪によって解決してしまった。――かといって、今更、会社に行ってもこんな気持ちのままでは仕事になるはずもない。
昼食もとらないまま、克己はいつもの休日のようにごろりとソファに横になった。とても食事をする気にはなれない。
その時、ポケットのなかにいれた携帯電話が鳴り出した。ディスプレイに表示されたのは見た事のない番号だった。
克己は身体を起こすと電話に出た。
――山崎克己さんですね。
相手の男は丁寧な口調で言った。
「ええ、そうですが……あなたは?」
――篠原さんの知り合いのものです。あなたの件で昨日ちょっと相談を受けましてね。
「クマ……いや、篠原の知り合い? どういうことです?」
――山崎さん、昨日、篠原さんに頼みごとをしたでしょ?
「ああ」
――で、彼は死んだわけだ。
まるで自分のせいで篠原が死んでいるとでもいうような男の言葉に克己はカッとなった。
「何が言いたいんだ? 誰なんだあんたは?」
――何を怒ってるんですか? 篠原さんのため? 彼は自業自得です。僕はちゃんと忠告してあげたんですから。しょせん、彼の手におえる相手じゃないってね。それなのに彼は無視したんです。彼は相手をナメてかかった。だから殺されたんです。
男の声はまるで怒っているようだった。
「いいかげんにしてくれ! あんた誰なんだ?!」
克己は思わず怒鳴った。
――生憎ですが、そう簡単に名乗る事は出来ません。名乗ったら僕まで『奴』に狙われますからね。篠原さんが殺されたことがそれを証明してるでしょ。名乗る時はそれなりの覚悟を決めなきゃ。それにね、僕のことを詮索する暇があったら、奥さんやお子さんのことを考えてあげたほうがいいですよ。……とはいっても奴の狙いは今のところあなたであって、よほどのことがない限り、奥さんやお子さんが命を落とすようなことはないでしょうけどね。
自分だけならいざ知らず、由紀や涼子までが危険に晒されているということに克巳はぞっとした。
「あんたは何を知ってるんだ?」
――知っているのはあなたじゃないんですか? 僕はただ、見えるものだけを教えてあげているだけですよ。もし、あなたさえ望めば、あなたの力になってあげてもいい。
「どうすればいいんだ?」
――まず現実を理解することですよ。今、何が起きているのか、それを先入観なしではっきりと理解する。まずはそこから。
それだけ言うと男はぷつりと電話を切った。
(どういう意味だ?)
克己はすぐに発信元に折り返し電話をかけた。
――はい、野沢です。
しわがれた男の声。明らかにさっきの男の声とは違う。
「さっきの男は?」克己は声をかけた。
――は? あんた、どちらさん?
「え……山崎です。さっきそちらから電話をもらったんですが」
――何をバカな事を。私はあなたに電話などしていませんよ。
克己は頭を掻き毟った。
「いえ、そんなはずありませんよ。そこの番号からの電話でした」
――勘違いなさってるんじゃありませんか?
「しかし――」
――あんたもしつこい人だね。そもそも、この電話は孫と話しをするために買ったもんで、あんたと話しをするためのもんじゃないんだ。
男の怒ったような声とともに電話は切れた。
(なんだ?)
携帯電話の着信履歴と、発信履歴を見比べる。そこにはまったく同じ番号が表示されている。だが、さっきの男の言ってることが嘘だとは感じられない。
(何が起きてるんだ?)
克己は再び頭をかかえた。その時、玄関からドアの開く音が聞こえた。
妙な胸騒ぎがした。克己はすぐに立ち上がると急いで玄関に向かって走った。そこに由紀と娘の涼子の姿があった。
「なんだ……おまえたちか」
「なんだじゃないわよ。びっくりしたぁ。なんでこんな時間に家にいるの?」
克己の姿を見て由紀は驚いたように胸に手をあてた。その額に包帯が捲かれている。
「どうしたんだ? 頭……」
「うん……ちょっと事故っちゃって」
「事故?」
ぞくりと背筋を冷たいものが走った。「おまえ……ケガしてるのか? 涼子は?」
慌てて二人の様子を観察した。由紀は額に包帯を捲いているが、涼子はどこもケガをしている様子はない。
「大丈夫よ。ちょっとダッシュボードに頭をぶつけただけだから」
由紀はバツが悪そうに答えた。「でも、私が悪いんじゃないのよ。急にブレーキがきかなくなっちゃって――」
「ブレーキが?」
「そうなの。運良く車の通りが少なかったからガードレールにぶつかっただけで済んだけど……すっごく怖かった。車は安岡さんに連絡して引き取ってもらったから」
安岡とは車の販売店の営業で、車の車検等に関しては安岡に面倒見てもらっている。克己は思わずしゃがみこんで涼子の身体を抱きしめた。
「無事で良かった」
そう言って涼子の顔を見た。妙に涼子は黙りこくって、表情が固い。
「涼子、どうしたんだ?」
「きっとびっくりしたのね。なんか大人しくなっちゃって。ごめんね涼子」
由紀が涼子の代わりに答える。
「そうか、怖かったか」
克己はそっとその頭を撫でた。すると涼子が真剣な目で顔をあげた。
「あの時、後ろの席にあの女の人がいたんだよ」
「え? 女の人って――」
「夢に出てきた女の人。家に火をつけた人だよ!」
きっぱりと涼子は言った。その身体がわずかに震えている。
「やぁね、怖い事言わないでよ」
由紀は軽く笑ってみせた。だが、克己には笑うことは出来なかった。その克己の表情を見て由紀も笑うのを止めた。
「いったいどうしたの? 克己さんまで何怖い顔してるの? まさか今の話を信じたわけじゃないでしょう。涼子は何か勘違いしてるのよ。夢と現実がごっちゃになってるだけよ」
「違うよ!」涼子が声をあげた。
「わかってるよ」
克巳はそっと涼子の身体を抱き上げた。その克巳の表情に由紀の表情が強張った。
「……克巳さん」
「あのな……涼子の言ってること、間違いじゃないかもしれないんだ」
「どういうことなの?」
話さなければならないだろう。あの電話のことも、篠原のことも。
克己は二人をリビングに連れて行くと、これまでの経緯をすべて話した。涼子にまで話していいものかどうかは迷ったが、女の姿が見えるというのであれば、理解出来るかどうかは別として、涼子にも話しておいたほうがいいだろう。
由紀は半信半疑というような顔で話しを聞いていたが、やがて、克己が真剣だという事がわかると、その表情は固くなっていった。
「……それって私たちが誰かに恨まれているってことなの?」
話しが終わると由紀は険しい目でそう訊いた。
「わからない……俺にもまだ何がなんだかわからないんだ」
「どうして?」
うろたえるというよりも、由紀の表情は怒りに近かった。「なんで私たちがそんな目にあわなきゃいけないのよ。きっと誰かの悪戯に決まってるわ」
確かにそんな簡単に信じられるような話じゃないことは克巳にもわかる。何よりあの女の声を聞いた克巳自身がまだ信じ切れていないのだ。
「俺もそう思っていた。いや、今でもそう思いたいよ。けど、それが『呪い』なのかどうかは別として、何かが俺たちのまわりで起こっていることは確かなんだ」
言い聞かせるように一言一言をはっきりとした口調で言った。涼子はそんな克己の隣に座ったまま、黙ってじっと聞いている。
克己はさらに続けた。
「ただ、さっきの電話でこの件の真実がわかる奴がいるらしいってことがわかったんだ」
「誰なの?」
「さあ……わからないよ。若い男だったけど、名前も名乗ろうとはしなかった。ただ、電話の様子では俺のことも今度の事件のことも知っているみたいなんだ」
「どうするの? 会うの?」
「わからない。あまりに一方的な電話だからな。ただ、また連絡すると言ってたし……そいつが言うには、おまえたち二人の命までは問題ないだろうって。だが、今日の事故のようなことも考えられる。十分注意してくれ」
それが今、克己に言える精一杯の言葉だった。




