死の影・4
篠原から電話があったのはその日の夕方になってからだった。
――ちょっとわかったことがあるんだ。まだほんのちょっと調べただけだが、手を打つなら早めのほうがいいだろう。久しぶりに飲みながら話さないか。
克巳は仕事が終わるとすぐに篠原の住むマンションに向かった。
駅の東口から出るとその左手にある坂を登る。
篠原の住むマンションはその坂を登ったところにあった。わりと傾斜のある坂で、「毎日、その坂を歩くだけでいい運動になる」と篠原は笑っていた。そのわりに一向に痩せない篠原をからかったこともあるが、確かに200メートル近く続くその坂は普段運動などしていない克己の脹脛の部分に強い圧迫感を感じさせた。
坂をのぼりきると、克己はその右手に立つ白い12階建のマンションの敷地に入っていった。マンションの窓にいくつも灯りが点っている。
篠原は6年前に結婚していたが、2年前に離婚して奥さんと子供は埼玉にある実家で暮らしている。一人息子はすでに4歳になっていて、今でも月に一度の約束で泊まりに来るらしい。
克巳たちから離婚の原因を問い詰められ「性格の不一致」などと、タレント並みのことを言っていたが実際には昔からのギャンブル癖に愛想を尽かされたに過ぎない。
克己は5階でエレベータを降りると右手にある篠原の部屋を目指した。部屋の前でチャイムを押す。だが、返事はなかった。念のために腕時計をちらりと見る。
午後8時20分。約束は8時だった。すでに20分も過ぎている。
もう一度チャイムを押してみたが、やはり反応はなかった。
(まだ帰ってきてないのかな?)
克己はスーツのポケットから携帯電話を取り出して篠原の携帯の番号を押した。
ドアの向こう側から電子音が聞こえてくる。それが篠原の携帯の着メロであることはすぐにわかった。前に会ったときに篠原の携帯から流れる『森のくまさん』のメロディーに思わず笑った記憶がある。
(なんだ、いるんじゃないか)
克己は携帯を切るともう再びチャイムを鳴らした。だが、それでも一向に返事がない。仕方なく克己は試しにドアノブを掴んだ。鍵はかかっておらず、すっとドアが開いた。中から明かりが漏れてくる。
「クマ……いるのか?」
ほんの少し開けたドアから克己は部屋を覗きこんだ。ぐるりと部屋を見回した。リビングに抜けるドアが開いており、そのドアの傍に横たわる篠原の大きな身体が見える。
(なんだ、寝てるのかよ)
克巳はドアを大きく開けると、一歩踏み込んで声をかけた。
「おい――」
思わず声を失った。克巳はそこに有り得ない光景を見た。
リビングに横たわる篠原の身体、そして、その首が離れたキッチンの端に転がっている。目が白目をむいている。その口元はまるで生きているときと同じようににんまりと笑っているように見える。
「おぁ……」
言葉にならない声が喉元からこみ上げてくる。
背筋が震えた。身体が硬直し、動けなくなる。喉が詰まり、息苦しさを憶えた。
(死んでるのか?)
何かの冗談じゃないかと目を擦った。だが、そこにあるのはまさしく篠原の死体に間違いなかった。首を失った身体からは大量の血が流れたらしく、絨毯がどす黒く染まり、よく見ると壁には血が吹き付けたような跡が残っている。
足がガクガク震えだし、思わず腰を抜かしたようにその場にしゃがみ込んだ。
このまま逃げ出したくなる衝動を堪えて、克己は震える手で携帯電話を取り出した。へたに逃げて誰かにその姿を見られれば、逆に犯人に仕立て上げられかねない。混乱する頭のなかで、克巳は必死に冷静を保とうと努めた。
手から携帯電話を取り落としそうになるのを、懸命に両手で押さえながら、克己は警察を呼ぼうとした。
指が震え、たった三つの番号がなかなか押せない。
「くそ」
大きく息を吸いこみ、呼吸を整えてから番号を押した。
* * *
疲れ果てていた。
警察の事情聴取のため、克巳が家に帰りついたのは11時を過ぎた頃だった。
現場の状況から警察はほぼ間違いなく他殺との見方で捜査を進めるようだ。
ギャンブル癖が災いし、いくつか借金もあったようだ。リビングのテーブルには街金からの督促状が山になっていた。おそらく金に関わるトラブルで殺されたのだろう、と一人の刑事が話していた。
克己は警察からの事情聴取の時、篠原に頼んだことは話さなかった。余計なことを喋って痛くもない腹を探られたくはない。あんなことが篠原の死に関わっているはずがない。
(それにしてもなんでこんな時に)
篠原が殺されたこともショックだったが、克己が頼んだ調査の結果を聞くことが出来なかったことも悔しかった。
夕方に電話をもらったとき、篠原は『わかったことがあるんだ』と言っていた。しかも、『早めに手を打ったほうがいい』とも言っていた。『手を打つ』というのはどういうことなのだろう。それが何を意味しているのか、篠原が死んだ今となってはそれを知る術はない。
リビングのソファにどっかと身体を投げ出した。
ふと留守番電話のランプが点灯していることに気づき、克己は重い腰をあげて再生ボタンを押した。
――お父さん、お仕事ご苦労様。明日、帰るからねー
涼子の声だった。
たった一言のメッセージだったが十分心が和む。何があっても、涼子の声を聞くだけで元気になれる気がする。若い頃には子供など欲しいと考えた事などなかったが、実際に涼子の存在は克己の価値観をがらりと変えた。
声は次に由紀のものに変わった。
――今朝はありがとう。お父さんも喜んでいたわ。それじゃ、また明日ね
克己はネクタイをはずし放り投げると、再びソファに倒れこんだ。疲れ果てて、もうこのままこの場に眠ってしまいたい気分だった。
その時、突然、電話の電子音が静まりかえった家のなかに鳴り響いた。
克己ははっとして立ち上がった。
涼子からかもしれない。涼子の声を聞く事が出来れば、今の暗くなった気分も振り払えるかもしれない。
「はい」
だが、そこから聞こえてきたのは涼子の声とは似ても似つかないものだった。
――殺してやる。
先日の電話の声だった。相変わらず音が歪み、ザーザーという雑音が聞こえている。
「誰だ……誰なんだ?」
――ヤマザキカツミ……おまえだけは絶対に許さない。
低い声。女の声のような気がするが、はっきりとは判別出来ない。
「何言ってるんだ? あんた誰だ?」
だが、相手はそれには答えようとはしない。
――おまえに関わったからあの男も死んだんだ。
(あの男? まさか――)
篠原の死んだ光景が頭に蘇ってくる。
――おまえを護ろうとする奴もみんな殺してやる。
「まさか……篠原を殺したのは……おまえなのか?」
――……おまえはゆっくり殺してやる。
それだけで電話は一方的に切れた。
愕然とした。
篠原が殺されたのが自分のせいだということに責任を感じるのと同時に、はっきりと自分が狙われている事を再確認し不安が全身を包み込む。
(待てよ――)
そもそも克己が篠原に調査を頼んだことを、なぜ知っているのだろう。
克己自身、そんなことは誰にも話していない。それとも篠原が調査の段階で誰かに漏らしたのだろうか。
そして、克己が依頼したことが篠原の死につながっているのだとすれば、一連の『ヤマザキカツミ』の死はただの偶然などではなく、すべて関連性があるということになる。
(そんなバカな!)
頭がおかしくなりそうだ。
何よりこれは明らかな脅迫だ。
警察ならば、どこから電話がかかってきたものか突き止めることが出来るかもしれない。だが、警察に電話しようと手を受話器に置いてから、ふとその手を止める。
こんな話をしたところで果たして信じてもらえるだろうか。そもそも他の『ヤマザキカツミ』の死は新聞記事を読む限り全て事故とされている。篠原の死とは何の関連性も見つけだされてはいない。しかも警察では篠原が殺されたのは金銭トラブルだと見ているはずだ。こんな状況で警察に話しても相手にしてもらえるとは思えない。たかが1、2度の悪戯電話にびくびくしていると思われるだけだろう。
(くそ! どうしたらいいんだ?)
克己はテーブルの上に拳を叩き付けた。
その瞬間、克巳は篠原の癖を思い出した。篠原はメモ魔だった。仕事柄かどんなことでも忘れる事がないようにメモに取る癖を持っていた。その癖は大学時代からずっと変わっていない。もし、克己が依頼したことについて篠原が何か調べたのだとすれば、それもメモとしてどこかに残っているかもしれない。
メモ帳は肌身離さず持っていたはずだ。――とすると、今は警察が証拠品として持っているのかもしれないし、仕事関係のものならば会社にあることも考えられる。
いずれにしても、そのメモを捜すことだ。




