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死の影・2

 ぽかぽかした暖かな空気が街を包んでいる。

 夏を迎える直前の今の季節が克己は一年の中で一番好きだった。殊に今年は梅雨入りが遅れていて、ここ数日はずっと良い天気が続いている。

「こうやって駅まで送ってもらうのも楽なもんだなぁ」

 後部座席に深く腰掛けながら、車を運転する由紀に向かって克己はつぶやいた。普段は駅まではバスで通い、その後、電車を乗り継いで会社までは30分かかる。

「あら、毎日送って欲しいなんて言わないでね」

 そう言って由紀は笑った。

「冷たいなぁ……なぁ」

 助手席に座っている涼子に声をかける。涼子は振り向いてただ笑顔を見せた。由紀が運転するときはいつも涼子が助手席に座るのが習慣になっていた。

 もともとこのRVは結婚前に克己が買ったものだったが、結婚後は由紀のほうが頻繁に乗るようになった。距離メーターはすでに7万キロを超えているが、そのほとんどは由紀が使っている。逆に克己は由紀が結婚前に乗っていた軽自動車に乗るようになっていた。

 今朝は克巳を駅まで送ったら、そのまま二人は由紀の実家に帰ることになっている。

 結局、今晩は実家に泊まることになり、泊まりのための荷物が車の後部座席に座る克巳の横に積まれている。すでに涼子の通う幼稚園には今日から二日間休むことを朝のうちに電話してある。涼子も来年には小学校入学となる。近所の気の早い親たちは私立の有名小学校への受験を考えているらしいが、克巳たちは公立の小学校に通わせるつもりでいる。子供の頃から受験に追いまわされるのではあまりにも可哀想過ぎる。出来る限り自由にのびのびと成長させてあげたい。

 車は5分も走るとすぐに地下鉄の駅に着いた。

「お義父さんたちによろしく言っといてくれよ」

 そう言って克己は車を降りた。

「ええ、『ぜひ遊びに来てください』って言ってたって伝えるわ。じゃあね」

 からかうように言って車を発進させる。涼子が助手席から克巳に手を振る姿が見える。

 克己もそれに応えるように手を振って見送ると、駅に向かって歩き出した。

 確かに今でも由紀の父のことは苦手だったが、それでも少しずつ由紀の父との関係も変わりつつある。涼子が生まれその成長につれ、由紀の父も克巳に対する接し方が変わり始めている。

(今度、俺も挨拶に行ってみるか)

 そう考えながら克巳は改札を抜けた。


 高岡から電話が入ったのは夕方になってからだった。ちょうど手が空いたところで、克己はすぐに会社を出ると近くの喫茶店で待っている高岡の前に座った。

「昨日はありがとうございました」

 山崎が腰をおろすと、すぐに高岡は軽く頭をさげた。

 克己より二つ年下の高岡だが、見た目はもっとずっと若く見える。髪を栗色に染め、ブランド物のスーツを着込み、イマドキの若者とさほど変わらない。背も高く、顔立ちもすっきりとしている。学生の頃はバイトでモデルをしていたと聞いたことがある。

「新婚旅行じゃなかったのか? まさかもう別れましたとか言わないだろうな」

 克己は冗談を言いながらポケットから煙草を取り出して火をつけた。家族の前では極力吸わないようにしている。涼子が嫌がるのが一番の理由だった。結婚前は一日1箱以上吸っていたが、今では半分以下に減った。それでもまだ完全にやめることは出来ずにいる。

「明日、出発する予定です」

「今日はどうしたんだよ?」

「山崎さんに一言お礼言っておこうと思いまして。これまでずっと山崎さんにはお世話になりっぱなしでしたからね」

「何言ってるんだよ」

 照れくさそうに克己は笑った。それでも素直に礼など言われるのは嬉しいものだ。

「本当にありがとうございました」

 高岡はまた深々と頭をさげた。今まで高岡をまるで弟のように可愛がってきただけに、その態度に克巳は心から高岡の今後の幸せを願った。

「それにしても良かったじゃないか。あんな奇麗な人と結婚なんてな」

 相手はまだ大学を卒業したばかりの22歳というからなおさら驚きだ。

「そうですか?」まるで他人事のようだ。

「いつから付き合ってたんだ?」

「まだほんの2ヶ月くらいですかね」

「たった2ヶ月? ずいぶん短いんだな」

「見合いですからね」

「仲人は東亜銀行の柳田常務だっけ?」

「もともと柳田さんの紹介です。そうでなければ僕なんて彼女と結婚なんて出来ませんよ」

 高岡は苦笑いして言った。

 東亜銀行は『ヒューマンバンク』のメインバンクになっている。確かに政界や財界に顔の効く常務の柳田が声をかければ、それを断るのは難しいだろう。

「なんかあったのか?」

「いろいろとね……もともと僕とは身分が違いますから。彼女の父親なんて、最初は僕のことなど人間扱いしてくれませんでしたよ」

 高岡は肩をすぼめて笑って見せた。

 克己は由紀の父親とのことを思い出した。克巳が初めて由紀の実家に挨拶に行った時は、家にも上げてもらえなかった。

「父親っていうのはそんなものさ。うまくやりたいなら早く子供を作ることだな。孫の顔を見ればすぐに心も和むようになるよ」

 現に由紀の父親も涼子が生まれてからは克巳への対応はがらりと変わった。きっとどこの父親でも同じなのだろう。自分もいずれはそういう父親になるのかもしれない。

「そうですかね……山崎さん、奥さんやお子さんはお元気ですか?」

「ああ、また遊びに来てくれよ」

 そうは言ったものの、おそらく高岡が遊びに来る事を由紀は快くは思わないだろう。

「ありがとうございます。あの……これ、先日も車御借りしたお礼です」

 高岡は足元に置かれた紙袋から菓子折りを取り出した。

「別に気にしなくてもいいよ」

「これまでもずっとお世話になってますから。たいしたものじゃありませんけど、ぜひみなさんで食べてください」

「ありがとう……そういや、いつも車でどこ行ってたんだ? なんかこの前はずいぶん泥がついてたらしいじゃないか。女房が言ってたよ」

「すいません……ちょっと急いでいたので洗いもしないで返してしまって……」

 一瞬、高岡の表情が曇った。

「いや、それは構わないんだが……どこに行っていたのかと思ってね」

「ちょっと……」

 高岡は言いにくそうに言葉を濁した。

「まあ、構わないんだ。またいつでも必要になったら言ってくれよ」

「ありがとうございます。でも、今度僕も車買うことにしたので、もうご迷惑かけることもないと思いますよ」

 そう言って高岡は笑った。


   *   *   *


 仕事から帰るとすぐにシャワーを浴びてパジャマに着替えると、ビールを飲みながらぼんやりとTVを眺める。

 今夜は由紀と涼子がいないせいか、やけに家のなかが広く感じる。

 これまでもちょくちょく実家に泊まりに行くことが多かったため、一人で夜を過ごすことには慣れている。由紀や涼子の姿が見えないのは寂しい気もするが、それでもたまにはこうして一人でのんびりと過ごすのもなかなか良いものだ。

 ほろ酔い気分で足を投げ出してソファに寝転ぶ。こうしていると独身時代に戻ったような気がしてくる。

――みっともない格好しないでよ

 ここに由紀がいたら、きっとこう言うだろう。

 今日だけは由紀の目を気にしないで済む。最近では涼子までが由紀の真似をして、口うるさく言うようになってきており、克己としては気を使うことも昔に比べて多くなった。

 由紀に『みっともない』と言われるよりも、涼子に言われるほうがより心が痛む。そんな時は自分が父親になったのだとしみじみと感じる。

 克己は今日、高岡からもらった菓子折りの包装を破いた。中身は草加煎餅の詰め合わせで、克巳はなかからニンニク煎餅を一つ取り出した。ビールのつまみ代わりに一枚食べ始める。ニンニクの香りが部屋に広がる。きっと涼子がいたら『臭い、臭い』と騒ぎ出す事だろう。涼子が何よりも嫌うのがシイタケの煮た時の香りと、このニンニクの香りだ。

 どんなことをしていても涼子のことを考えている自分に気づき、ふっと苦笑いする。

 その時、電話が鳴り出した。由紀からだということはすぐにわかった。いつも実家に泊まる時には夜になってから電話をよこす。

 克巳は口のなかに残った煎餅をビールで喉の奥に流し込むと受話器を取った。

 案の定、電話は由紀からのものだった。

――問題ない?

「ああ、いたって平和なもんさ。独身時代を思い出してるよ」

――何してたの?

「風呂あがりにゆっくりとくつろいでいたところだよ」

――ビール飲んでソファに寝転がって、テレビ見てたってとこね。

 まるでどこかで見ているかのように由紀は笑って言った。その言葉を聞いて、なぜ女というのはこんなにも勘が働くのだろう、と思う。

「ま、そういうことだ。鬼のいぬ間のなんとやらってさ」

――あら、誰が鬼なの?

「決まってるじゃないか」

――それじゃ、ちっちゃい鬼に変わってあげるわね。

 すぐに涼子の声が聞こえた。

――私、鬼じゃないよぉ

 『ちっちゃい鬼』といわれたことに本気で抗議するような涼子の声に克己は笑った。

「そうだな。涼子は鬼なんかじゃないよな」

――じゃあ、鬼って誰?

「お母さんだよ」

――えー、お母さんだって鬼じゃないよ。

「そうか? 実はお母さんの頭には角が生えてるんだよ」

――ホント?

「今夜、こっそりお母さんの頭を覗いてごらん。きっと小さな角が生えているからさ」

――うん……見てみる

 素直な涼子の言葉が可愛らしかった。

 再び、由紀が電話口に出た。

――明日の夜には帰るから、ゆっくり羽伸ばしてね。

 由紀は笑いながらそう言って電話を切った。

 克己は受話器を置くとまたソファに座り一口ビールを飲むと新聞を広げた。

 読むところはたいてい一面、三面、そしてテレビ欄と決まっている。その程度で新聞を取るのももったいないと思う事もあるが、それでも時々は記事の隅から隅までをじっくりと読むこともある。今夜のように一人で夜を過ごす時には、いつも読まないところまでも目を通してみるのもいいだろう。

 ふと、一つの事件が目に止まった。


『6月11日午前3時20分ごろ、東京都千代田区御陵峰ケ堂町、会社員山崎勝己ヤマザキカツミさん(51)方から出火、木造2階建て約150平方メートルのうち2階部分約30平方メートルを焼いた。山崎勝己さんは逃げ遅れ、搬送先の病院で死亡した。

 警察や市消防局によると、出火当時、山崎さん方には山崎さん夫婦と子ども3人がいた。他の4人は逃げ出して無事だった。山崎さんが寝ていたとされる2階寝室付近がよく燃えているといい、現場検証して出火原因を調べている』


 普段ならば決して気づかずに見過ごしてしまうような記事だ。自分と同姓同名の人間が死んだと考えると、やはり少し気持ち悪かった。

 酔いが冷める気がする。ふいに昨夜の電話を思い出した。

――おまえも、おまえのまわりの人間も不幸にしてやる!

 ぞくりと寒気がした。克己はその言葉を忘れようとするように頭を振った。

(ただのイタズラ電話に決まってる)

 だが、あの時感じた嫌悪感。あれは何だったんだろう。

 一瞬、由紀に電話して火の元に気をつけるよう言おうかと考えたがすぐに思いとどまった。由紀が戸締まりや火の元に十分気をつける性格であることは克己もよく知っている。むしろそんな電話をすれば気味悪く感じるだけだろう。

 こんな記事はただの偶然に過ぎない。同姓同名の人間など他にもいるはずだ。

 克己は思いをうち捨てるように新聞を綴じ、テーブルのうえに投げ捨てた。


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