呪詛流し・3
都内、代官山にそびえたつ高層マンションの最上階。その一室で高岡久志はぼんやりと外を眺めていた。
暗闇のなかに街の燈がまるで星の運河のように光り輝いている。
妻の幸恵は大学時代の友人と遊びに行っている。いつものように帰宅は深夜になってからだろう。いや、ひょっとしたら今夜もいつものように実家に泊まるのかもしれない。結婚はしたものの、これまで育ってきた環境が違うせいだろう。それほど強い愛情は湧いてこない。だが、高岡にとってそんなことは些細な事に過ぎない。
もともと愛情があって結婚したわけではない。全ては自分の出世のためだ。全国的に支社を持つ大会社の社長令嬢。これままいけばいずれ自分が社長の椅子に座る事は間違いないだろう。
つい一年前までは今の自分を想像することなど出来なかった。両親が交通事故で死に、施設に預けられたあの日から高岡の人生は変わった。
(いつか這い上がってやる)
いつもそう思い続けた。
『施設の子』
どんな時も他人から呼ばれるときに、その肩書きがついてまわった。
両親がいない子として学校の中でも外でも苛められる事があった。何度辛い思いをしたことか……。そのたびにいつか見返してやるんだと心に誓った。
(こいつらをいつか見下して生きてやる!)
人を憎み、世の中を恨んで育った。
それが高校2年の時、一人の教師との出会いが高岡の気持ちを変えた。
ある時、教師は高岡の目を見つめて言った。
――いったい何を君は怖がっているんだ? 素直に生きなさい。君はただ一人しかいない。他の誰と比べる必要もないんだよ。もっと気楽に生きればいいんだ。
その一言が高岡の心を溶かした。それからは心のなかにある野心を封じて生きてきた。
心が安らぐような生活。そんな毎日にそれなりに満足していた。だが、いつも心のなかにほんの少し物足りなさを感じていた。
ソフトウェア開発の派遣業務として高岡が東亜銀行の開発プロジェクトに参加したのは1年前のことだ。そこで偶然、常務の柳田晴彦と知り合う事になった。柳田はなぜか高岡を気に入り、ある日、声をかけてきた。
「相談があるんだ。ゆっくり話でも出来ないかな」
柳田は高岡がこれまで足を踏み入れた事もない料亭に招いた。なぜ柳田がそんなことをしてくるのか、高岡には真意がわからなかった。
「君は『白樺学園』の出身らしいね」
その言葉にはっとして高岡は柳田の顔を見つめた。そこで高岡はやっと思い出した。幼い頃、何度か学園に訪れる柳田の顔は見たことがある。
「あなたは……」
「実は私も子供の頃はあの学園にいたことがある。ただ正確には孤児ではないがね。私の父はある代議士をしていてね。その父が愛人に産ませたのが私だ。母は私が幼い頃に死に、父は私を施設に送り込んだ」
「……そうだったんですか」
どう答えていいかわからず、高岡は言葉を濁した。
「おいおい、勘違いしてもらっては困る。私は自分の運命を嘆いたことなどない。むしろ私は父に感謝しているよ。私は施設でこの世の中がどれほど理不尽なものかを知る事が出来た。それに父は私が成長してからは、いろいろと便宜を図ってくれたからね。今の私があるのも父の地位や金のおかげだよ」
「……はあ」
「だが、時にはそれが足かせになることもある」
柳田の声が低く変わった。「やはり上に行けば行くほど『生まれ』を気にするようなバカな奴が出てくるのも事実だ。前橋支店の支店長もその類の男だ。頭取に目をかけられていることを良いことに、私の方針に一々逆らうようなことを言う」
「あの……なぜ私を?」高岡は痺れを切らして訊いた。
「君は気が短いな。まあいいだろう。実は君に頼みがあるんだ」
「私に? 何でしょうか?」
「前橋支店に鯨岡という警備員がいる。実直な男だ。だが、目の見えない妹と暮らしていて、金を欲しがっている。君、そいつと組んで前橋支店を襲ってくれないか?」
さらりと柳田は言ってビールを呷る。あまりの言葉に高岡は呆然として柳沢の顔を見つめた。
一瞬、沈黙が流れる。
「い……今、何て……?」
「前橋支店を襲って欲しいと言ったんだ。聞こえなかったか?」
冗談のつもりなのだろうか。その高岡の表情を見て、柳田は笑った。
「冗談かと思っているのか? 私はあくまでも真剣だ。銀行強盗じゃなくてもいい。現金輸送車でも襲われれば、その全ての責任を追及することが出来る」
「そんなことで支店長を追い込めるのですか?」
「責め方次第だろうね。それに彼の女関係のゴシップも一応握っているからね。最悪でも発言権を抑えることが出来ればいいんだよ」
「なぜ私にこんな話を?」
「君という人間を気に入ったからだよ。君に野心はないのか? それとも今の生活に十分満足しているのかな? そんなはずはないだろ。君には私と同じ匂いがする」
「私は――」
野心がないといえば嘘になる。今の生活になど決して満足などしていない。いずれのし上がってやろうといつも思っている。今まではその手段も機会もなかっただけだ。
(もしかしたらこれがチャンスなのかもしれない)
高岡は震える手でぐっとビールを一息に呑むと口を開いた。
「やります!」
心のなかに封じられていた野心が再び動き出す。一度走り出してしまえば、迷うことはなかった。鯨岡や林葉という男を仲間に引き込み、現金輸送車を襲うことに成功した。初めから鯨岡たちを生かしておくつもりなどなかった。高岡は鯨岡と林葉を誘い出した。迷ったのは鯨岡の妹の処分だった。しょせん目が不自由であることはわかっている。高岡のことも、事件のことも知らないだろう。だが、完全に見えていないわけではない。もし、鯨岡を訪ねる自分の姿を見られていたとしたら……そして、鯨岡から何か自分について聞いていたとしたら……。
偽名を使ってはいるものの、それでもどこか不安に感じた。
(迷うな)
全てを奇麗に終わらせるためにはエリカのことも殺すしかない。
高岡は鯨岡たちが金の隠し場所に向かうとすぐに鯨岡の住むアパートを訪れ、エリカを連れ出し三人を殺した。いや、正確には生き埋めにしたに過ぎないが、生きていられるはずはないだろう。
金は未だに手付かずのまま隠されている。高岡は柳田に頼み込み、社長の娘との縁組みを取り計らってもらった。全ては高岡の思うように進んでいる。
(これからだ)
やっと光の当たる場所を歩き出せるような気がしていた。
パチパチと蛍光燈の明かりが瞬きをして、ぷつりと明かりが消えた。
(停電?)
高岡は外を眺めた。街の明かりはそのまま光り輝いている。
どこかからうっすらと声が聞こえてくる。
ナウ・マク・サン・マン・ダ・バサラ・ダン・カン・ダマカラ・シャダ・ソワタ・ヤ・ウン・タラタ・カン・マンやオン・キリキリ・バサラ・ウン・ハッタ
ぞくりと背筋に寒気が走った。
(なんだ……?)
高岡は振り返った。戸口に誰かがいる。
「誰だ? 幸恵?」
白っぽい服を着たその女は何も答えようとしない。
(違う。幸恵じゃない)
高岡は眉をひそめてその姿をはっきりと捕らえようとした。
「誰だ?」
部屋のなかに嫌な空気が流れている。寒気がする。
相変わらず呪文のようなものがどこかからうっすらと聞こえている。
女が音もなく近づいてくる。
「誰だ? どこから入ってきた?」
高岡は構えてもう一度繰り返した。すると女はうつむいていた顔をあげた。
「やっと見つけた」
「何? 誰なんだ?」
高岡はじっとその女の顔を見つめた。記憶が蘇ってくる。「……お、おまえは」
鯨岡の妹のエリカだ。その見えないはずの目でじっと高岡を見つめている。
「バカな……おまえは死んだはずだ」
高岡の顔が青ざめていく。
(違う……そんなはずはない。あいつは死んだはずだ。全ては土のなかに埋もれたはずだ)
あの時のことを思い出す。
(奴らが生きているはずはない!)
「あなたのこと……許さない……」
ぽつりと女のつぶやいた。窓も開けていないのに、部屋のなかで風がふわりと吹いた。
(殺される)
はっきりと自分に向けられた冷えた殺意が感じられる。
目の前にいる女が何者なのかはわからないが、それでもいかに危険な存在であるかは感じ取ることが出来た。
ざわざわと全身の毛が総毛立ってくる。
「ま……待て……待ってくれ……俺は頼まれただけなんだ」
「頼まれた?」
「そうだ。頼まれたんだ。お……俺がおまえたちを騙すことを決めたわけじゃない!」
高岡は女に向かい賢明に言った。
「誰に頼まれたの?」
「そ、それは――」
「この人?」
すっと女が両手を高岡のほうに差し出した。その手の上にバレーボールくらいの大きさの物体が乗っているのが見えた。
「やぁ……高岡くん」
ゆっくりとその物体が口を開いた。
「ひぃ!」
女の手に乗せられているのは柳田の首だった。肌の色は真っ白に変わり、口から血をぽたりぽたりと垂らしている。目は力を失っているが、瞼を半分開き虚ろな目で高岡を見つめている。
その光景に高岡は言葉を失った。
(バカな……夢だ……こんなことがあるものか)
だが、頭ではそう思っていても、女から目を逸らすことが出来ない。
「高岡くん……君……しくじったね」
パクパクと柳田の口が開き、そのたびに口から血が滴り落ちて床を濡らす。
「俺はしくじってなんていない!」
「わ……わ……私のことまで……知られるとはね……が、がっかりだよ」
女が近づいてくる。その手に抱えられた首はしっかりと高岡に向けられている。
「違う……俺は殺したんだ……間違いなくこいつらのことを殺したんだ! 俺はちゃんと仕事を果たしたんだ!」
高岡は頭を抱えて叫んだ。
「なら……なぜ……なぜ私は殺されなければならないんだ! 君はしくじったんだよ!」
「あんたが俺に計画を持ち込んできたんじゃないか! あの兄妹のことだって教えてくれたのはあんたじゃないか! お……俺はあんたにそそのかされたんだ!」
「おまえも死ね」
その声にはっと顔をあげる。
柳田の首が目の前に差し出されている。
「ひぃ……」
悲鳴にもならない声が口から漏れ、高岡はのけぞった。「や……やめてくれ」
「さあ、一緒に行きましょう。お兄ちゃんたちが待ってる」
女の囁きがそっと耳に触れる。
風がそよそよと高岡の首のあたりを流れていった。
* * *
彰吾は相変わらず、呪文を繰り返していた。その彰吾の身体に香月は黙って念を送り込み続けている。
暗い闇の向こうで何が起こっているのか、それは見ることは出来ない。
二人が感じ取れるのは、二人を取り巻く『思念』が彰吾の呪文に反応するようにうねり、どこかで強い『力』が動いているということだけだ。
その二人の姿を山崎は身体を震わせながら見つめていた。山崎に出来るのは二人を信じて、その結果を待つ事だけだ。雨の冷たさ以上に、この屋敷を取り巻く空気が心のなかに不気味な陰を落としている。風が杉の林を揺らし、まるで闇が悲鳴をあげているような音が聞こえてくる。細かな雨は相変わらずシトシトと霧のように降り続いている。すでに三人の身体は雨でぐっしょりと濡れている。
一瞬、唸りをあげて強風が三人のまわりを吹き抜けていき、次の瞬間、ぴたりと風が止んだ。
彰吾が呪文を止める。
香月は暗い空を見上げた。周囲をずっと取り囲んでいた『気』がゆっくりと解き放たれていくのを感じる。
「彰ちゃん……」
「……終わった」
彰吾は大きく息を吐いた。彰吾には女が復讐を果たしたことをはっきりと感じ取ることが出来た。暗く、悲しい『思念』が薄れ、意識は空気へ溶け込むように天へと昇っていく。
「いったい……どうなったんだ?」
不安そうな目で、山崎が恐る恐る背後から声をかけた。
「終わったんです……女はすでに復讐を果たした。これでもうあなたが狙われることはないでしょう」
彰吾は姿勢をそのままに答えた。
「復讐を果たした? それじゃ……高岡は? 高岡はどうなったんだ?」
その問いかけに彰吾は何も答えようとせずに立ち上がり振り返った。思わずふらりとその身体を崩れそうになるのを香月が慌てて支える。雨に当たったせいか、その顔が青く染まっていた。
「この下には何人もの人が殺され……埋まっています。女はその全ての『恨み』の念を糧にして自らの復讐をしようとしたんでしょうね」
「もう私は安全なのか?」
「ええ……彼女の『思念』は消えましたから」
彰吾はどこか浮かない表情でそう答えた。




