死の影・1
がくんと音を立てて電車が止まる。
その振動に山崎克己はふと眠りから覚め、振り返って駅名を確認すると慌ててホームに降りた。そして、一つ大きく背伸びをすると、克己は帰路へ急ぐ人々のなか、披露宴の引き出物の紙袋をぶらさげながらゆっくりと歩き出した。
披露宴で飲んだビールの酔いがほんの少し冷めはじめている。
ざわついたホームをすり抜けながら、のんびりした足取りで改札を抜けた。
スポットライトに照らされた新郎新婦の姿が思い出される。
高岡久志と知り合ったのは五年前のことだ。
克己が勤める『フレームアイ』は人事管理および給与管理のパッケージソフトを作っている会社で、克己はそこでシステムエンジニアをしている。その手伝いとして『ヒューマンバンク』という人材派遣会社から派遣されたのが高岡だった。高岡は克己よりも二つ年下の29歳だ。出会った頃から不思議と馬が合い、しだいに休日も一緒に遊びに行くことも多くなった。その後、高岡は自社での内勤のため仕事上克己と会う機会はなくなったが、それでもプライベートでの付き合いは続き、今でも時折会っては飲んだり遊びに行ったりする間柄だった。
高岡も克己のことをまるで兄のように慕い、子供の頃の思い出などもいろいろと話してくれた。高岡は小学2年の夏に交通事故で両親を亡くし、施設で育てられたのだそうだ。
――子供の頃は結構辛い思いもしましたよ。けど、それが逆に糧になったんだと思います。
高岡はそう言って辛い過去を笑い飛ばした。
その後、中学を卒業すると、施設を出てバイトをしながら高校、大学に通ったのだと話していた。
就職後は今でも施設に寄付を続けているらしい。
今日の結婚式にも親代わりとして、施設の園長という年配の女性が出席していた。
苦労の末に掴み取った幸せ。高岡の話を聞いているだけに、克己の胸には今日の結婚式は格別熱い思いがあった。
克己は駅を出ると周辺を見回した。
造成地の工事のためにパワーシャベルで削り取られた不格好な山の向こうに夕陽が沈んでいくのが見える。夏も近くなり、日が沈むのも遅くなった。すでに6時半を回っている。
大型の黒い4WDが駅前のロータリーを回りながら、ゆっくりと克己に近づいてきた。
運転している妻の由紀の隣には5才になる娘の涼子の顔が見える。克美は目の前に止まった4WDの後部座席のドアを開け乗り込んだ。
「おかえりなさい」由紀と涼子が声を揃える。
「ただいま」
ドアを閉めながら克美が答えると、すぐに由紀が車を発進させた。
ショートヘアが揺れ、耳につけた白いイヤリングが西日を受けて輝いて見える。27歳の由紀は子供がいるとは思えないほど若く見える。
「どこか出かけてきたの?」
白いブラウスに濃紺のフレアスカート姿の由紀を見て克巳は訊いた。涼子もよく外出する時に着るお気に入りの赤いワンピースを着ている。
「午後からちょっと涼子とデパートに買い物に行ってきたの。結婚式どうだったの?」
「良い結婚式だったよ」
窓の向こうを流れていく商店街の街並みをぼんやり眺めながら克己は答えた。夕陽に街並み全てが赤く染まって見える。
「お客さん、いっぱいだったんじゃないの? なんていってもお相手は社長令嬢でしょ?」
「ああ――」
高岡が結婚したのは彼が勤める会社、『ヒューマンバンク』の社長の娘だった。『ヒューマンバンク』は全国的に有名な人材派遣企業だった。結婚式には銀行やさまざまな企業の重役たちが顔を揃えていた。もともと高岡はある銀行のシステム開発に派遣されていたのだが、その銀行の重役に大層気に入られたことが原因で、社長の娘との結婚話が持ち上がったのだそうだ。
「これで次期社長は決まりね」
花嫁は社長の一人娘で高岡は婿養子に入る事になっている。結婚を機に高岡は一気に部長昇進という話だから、由紀の言うようにいずれ社長就任ということも十分考えられる。
だが、由紀のその言い方には刺が感じられた。
由紀はあまり高岡のことを好きではない。これまでも何度か家に高岡を呼んだことがあったが、決して良い顔はしなかった。
「よせよ。そんなことを言うと、まるでそれを目当てに結婚したみたいじゃないか」
「そういう噂があるって言ったのはあなたよ」
「そんな噂をするバカな奴がいるって話をしただけだよ」
由紀が高岡の悪口を言うのを聞くのはあまり心地良いものではない。
「ずいぶん肩もつのね」
「あいつはそんな奴じゃないよ」
克己は外を眺めながらネクタイを外し、ジャケットのポケットへと押し込んだ。
「ま、いいわ。次期社長さんになったんだもの。もううちの車借りに来るようなこともないでしょうしね」
由紀は皮肉の篭ったような言い方をした。高岡はこれまでにも幾度となく克己の車を借りに来ていた。
「いいじゃないか、車くらい」
「でも、毎回何百キロと走ってくるのよ。それに、先月なんてタイヤが泥だらけだったわ。いったいどこ行って来たのかしら」
「いいじゃないか泥くらい。少しくらい我慢しろよ」
「でも、洗って返すくらいの気遣いがあってもいいんじゃないの。そのくらい普通常識じゃないの。そんなんじゃ人望なくすわよ」
由紀は口を尖らせた。
確かに最近の高岡の評判はあまり良いとは言えなかった。仕事にはルーズで、金には汚く、世渡りが巧いなどともっぱら悪い噂ばかりが目立つことが多かった。
(何かあったのかな?)
昔、克己の勤める会社に派遣で来ていた頃はもっと素直で、まわりから好かれていたはずだ。妙な噂がたちはじめたのはここ一年くらいのことだ。克巳もここ一年は以前と違ってあまり頻繁に付き合うことも少なくなっていた。今日の結婚式のことも、ほんの一ヶ月前に車を借りに来た時に聞いたばかりだった。
「ねえ明日なんだけど……」
由紀の声にはっとして我に返る。「実家に帰ってきたいんだけど、いいわよね」
「何かあったのか?」
「うん、ちょっと今日お父さんから電話があったのよ。お母さんが具合悪くて寝込んでいるらしいの。お父さんはああいう昔気質の人でしょ。一人じゃ何も出来ない人だから……」
千葉にある由紀の実家は車で2時間ほどの距離だ。由紀は一人娘ということもありこれまでも月に一度くらいのペースで行き来していた。由紀の父親は以前運送会社で働いていたが、今年62歳となり、すでに退職して年金暮らしをしている。
「構わないよ。たまには親孝行してこないとね」
「ありがとう。早めに戻るから」
「ゆっくりしてきなよ。なんなら二、三日泊まったって構わないから。俺のことは心配しなくていいよ」
「あら、どうしたの? 今日はずいぶん優しいわね」
「どうもしないさ」
克己は笑ってみせた。結婚式で見た花嫁の父の涙に感動したとはなかなか言いづらい。
「ねえ、ご飯どうするの?」
助手席に座った涼子が由紀に声をかける。
「さあ、お父さんに聞いてご覧なさい」
由紀はちらりと克己に視線を送りながら言った。
「ねえ、どうするの?」
甘えたような声で涼子が振り返った。
「そうだな……」
涼子が丸い目を輝かせるようにして後ろに座っている克己を見つめている。何を期待しているかは十分わかっている。「パスタでも食べて帰るか?」
「やったあー!」と、涼子が喜びの声をあげた。
半年前に近所に出来たイタリア料理店。雑誌にも取り上げられたことのあるその店のトマトソースのパスタが涼子のお気に入りだった。そうそういつも食べに行くことは出来ないが、最近では何かあるときには必ず家族でその店に行くようになっていた。
涼子の笑顔を見るたびに由紀と結婚して良かったと思う。
由紀と結婚したのはいわゆる『できちゃった結婚』だった。それでももともと由紀とは結婚を考えて付き合っていたため、由紀の妊娠がわかった時にも克己自身それほど慌てるようなこともなかった。だが、由紀の父はとても厳格な性格で、由紀の妊娠を知った直後に克己のもとへ怒鳴り込んできたこともあった。
最終的には二人で由紀の父に頭を下げて許してもらったのだが、そのこともあって克己は由紀の父のことが未だに苦手だった。
(一緒になれて良かった……)
今は心からそう思える。
いずれ高岡もそういう日が来るかもしれない。ふとポケットに入れていた結婚式での新郎新婦のスナップ写真を取り出して、ぼんやりと眺めた。
食事を終わらせて家に帰る頃にはすっかり日も落ち、涼子はぼんやりと眠そうな目をするようになっていた。食事の後にすぐ眠くなるのは父親似かもしれない、と克己は思う。克己自身、昼食を食べた後などはひどく睡魔に襲われる。
「さあ、家に着いたぞ」
そう声をかけながら克己は涼子の身体を車の助手席から抱き上げた。軽く小さな涼子の身体をひょいと持ち上げ、そのぬくもりにどこか安堵する。
「何ニヤついてるの?」
克巳の姿を見て、からかうように由紀が言った。
「こういうのってやっぱ幸せっていうのかな?」
「やぁね。どうしちゃったの? 急に」
「いや……なんか……ちょっと思っただけだよ」
「他人の結婚式を見て、やっと自分の幸せに気づいたのね」
玄関の鍵を開けながら由紀は笑った。
あながち由紀の言うことは間違っていないかもしれない。
この家を買ってちょうど1年が過ぎる。決して豪邸というわけではないが、それでも家族3人が暮らすには十分だ。ローンはまだ29年残っている。ローンの返済計画を考えると、それだけでウンザリしてくるが、それでもやはり今の自分は幸せなのだろう。妻の由紀と娘の涼子、この二人が元気でそばにいてくれる限り何があってもがんばろうという気持ちになる。
「さあ、お風呂にはいらないとね」
ソファに涼子をおろすと、由紀がすかさず声をかけた。
「少し寝かせてやれよ」
「だめよ。そんなことしたら風邪ひいちゃうでしょ」
由紀は涼子の身体を揺すった。「さ、起きて。こんなところで寝ちゃだめよ」
「うーん……」
まだ眠そうな目をしながら涼子はしぶしぶ立ちあがった。
それを横目で見ながら克己はどっかとソファに腰を下ろしてTVのスイッチをつけると、スーツ姿のそのままの姿でごろりと横になった。
まだ5歳の涼子もいずれは結婚してこの家を出て行くことがあるのだろう。
新婦の父親の涙が頭に残っている。
(俺もあんなふうに泣くのかな……だったら婿養子って手もあるよな)
そう考えてから、ふと可笑しくなった。まだ十年以上も先の話だ。今から考えたところで仕方がない。若い頃は会社の先輩たちが娘の写真を見せて、『絶対嫁になんかやるもんか』と言うのを笑って聞いていたが、今では自分もすっかり同じようになっている。
再びポケットのなかから結婚式のスナップ写真を取り出した。
そこに映った高岡の顔がやけに冷めて見える。
――あいつは金につられたんだよ。
そう話していた同僚の言葉が思い出された。信じたくはないが、こうして写真を見るとどこか二人の関係がよそよそしく見えてくる。
(ただの噂だ)
考えを振り切るように、頭を振って克己はその写真をテーブルの上に置いた。
その時、部屋の電話が鳴った。克巳は面倒くさそうに立ち上がると電話を取った。
「はい山崎です」
反応がない。ただ、ざらざらとした音だけが受話器の向こう側から聞こえてくる。
「もしもし?」
もう一度声をかけてみた。だが、やはりざらざらとした砂の流れるような音だけが聞こえてくるだけだ。ディスプレイ上には『非通知』の文字が表示されている。
(なんだよ。いたずらか?)
そう思って切りかけた瞬間、ぼそりとした声が聞こえてきた。
「は? 何ですって?」
一瞬、その声が聞き取れず克己は受話器を耳に押し当てて聞き返した。ざらざらとした音のなか、今度はハッキリと聞こえてきた。
――おまえも、おまえのまわりの人間も不幸にしてやる!
その声に全身が凍り付いた。それは男のものとも女のものとも判別出来ない不気味な声だった。受話器から憎悪に満ちた空気が流れこんでくるように感じて、思わず受話器を取り落としそうになった。
「……な、何だって?」ごくりと唾を飲み込む。
――おまえも、おまえのまわりの人間も不幸にしてやる!
まるで録音テープのようにまったく同じような口調で同じセリフを繰り返した。その声に背筋に悪寒が走る。
「ふざけるな! おまえは誰だ!?」
叫ぶと同時に、ぷつりと電話が切れた。
受話器を持つ手が震えている。額からは冷たい汗が流れ落ちていく。
(どうしたんだ?)
たったあの一言。その一言でなぜこれほどまで恐怖を感じるのか、克己自身わからなかった。汗でぐっしょりとシャツが濡れているのがわかった。
「電話、誰からだったの?」
お風呂から出てきた由紀が涼子の頭をバスタオルで拭きながら声をかけた。
「い、いたずら電話だよ」
とっさに克己は答えた。
(ただのいたずらだ)
早くあの声を忘れたかった。




