陰陽師・3
彰吾と香月が山崎克己の家に着いたのは翌日の昼を少し回った頃だった。
午前中は青空が覗いていたが、昼前くらいから少し黒い雲が空を覆いはじめている。
(雨になるかもしれない)
ふとその空を見上げ、彰吾は思った。
彰吾の姿を見て、克己は力が抜けたように玄関先に蹲った。その顔が少しやつれているように見えた。
「先日は失礼しました」
彰吾は玄関先で軽く頭を下げた。その傍らには彰吾の身体を軽く支えるように立っている香月の姿がある。
「いや……無事で良かった」
克己はほっとした顔をして二人の姿を見あげた。「中に入ってくれ」
先日、実際に女の姿を見たことで克己はすっかり彰吾の言葉を信じるようになっていた。
リビングに通されると、由紀が二人に紅茶を運んできてくれた。カップを置く指が微かに震えている。
「大丈夫ですか?」
香月が声をかけると、由紀はびくりと身体を震わせた。
「は……はい」
「心配しないでくださいね。私たちが何とかしますから」
香月の言葉に由紀は軽く頭を下げ、克己の隣へ座った。
「涼子ちゃんは?」
驚いたように由紀は香月の顔を見た。その表情には驚きと怖れが入り交じっている。由紀が怖がっているのは先日の女の存在ではない。克巳から女のことは聞かされていても実際には見ていないのだ。それを現実のものとして受け止める事は難しいかもしれない。由紀が怖がっているのはむしろ自分たちのことだ、と彰吾にはすぐにわかった。
だが、それを責めることは出来ない。突然、現れて女の『呪い』で殺されるなどと言われれば、それを恐怖に感じるのは当たり前だ。しかも、先日の彰吾の姿を由紀も目の当たりにしているのだ。
それでも香月はさらに話し掛けた。
「涼子ちゃん、2階にいるんですか?」
「……ええ」
「それじゃ私、涼子ちゃんとお話してきます」
香月は立ち上がると右足を引き摺りながら歩き出した。
「え……あ、待って」由紀はうろたえて立ち上がろうとした。
「心配しなくても大丈夫だ」克己が由紀の手を掴み、座り直させた。
「は……はい」
その様子を横目で見ながら彰吾が口を開いた。
「あれから変わったことはありませんか?」
彰吾の問いかけに山崎は口を開いた。
「私はあれからずっと仕事を休んで、この家から離れないようにしている。ただ――君がケガをした次の日に警察の人が来た」
山崎は新聞を開いて彰吾に差し出した。それは6月18日付けの新聞記事だった。
そこには刑事二人と新宿で易者をやっている老人が事故で亡くなったという記事が大きく載っている。真行寺の名前は彰吾も聞いたことがあった。
「そのなかの一人の刑事が、この家が呪われているから……と、知り合いの霊能力者の方を連れてきてくれると言ったんだ。おそらく事故にあったのはうちに来る途中だったのだと思う。これもやはり私が受けている『呪い』と関係があるのか?」
悲痛な面持ちで山崎は訊いた。
「そうですね。たぶん……あなたを守ろうとしたことが原因でしょう」
彰吾ははっきり告げると、新聞を閉じてテーブルの上に置いた。
「……やっぱり」
山崎はがくりと肩を落とした。
「ところで教えて欲しいことがあるんです」
「ああ――」
それは克己も同じ気持ちだった。「先日、君が私に見せたあの映像のことだね。あれは……あれあはなんだったんだ?」
「あれは、あの女の思念の一部ですよ」
「思念? それは……」
「先日も言ったように、あの女はすでに死んでいると思います。その時の恨みや怨念というものが、ああいう存在になっているのです」
「じゃ……あれは?」
「あの女が死ぬ前に見た一つの光景でしょう。そして、それこそが彼女があなたを殺そうとしている理由です」
「だが、あれは私じゃない」
「それじゃあの男に心当たりは?」
克己は首を振った。
「わからない……まるでぼやけた映像で……あれが誰かなんて……」
「そうですか……それじゃ『東亜銀行前橋支店』。何か心当たりはありませんか?」
「前橋? 前橋って群馬のですか? いえ……群馬には一度も行ったことなんてない」
彰吾はため息をついた。克己が嘘をついていないことは彰吾にも感じられる。
「実は昨日、ちょっと調べていたのですが……去年の年末に東亜銀行前橋支店の現金輸送車が強盗に襲われるという事件が起きました。警備員の二人のうち一人が撃たれ死亡し、もう一人も肩と足を撃たれて重傷。犯人たちは現金約6千万を奪い逃走しました」
「その事件があの女と何か関係してるというんですか?」
「その重症を負った警備員も今年の春に妹とともに行方不明になりました。その妹、生まれつき視力が弱く、ほとんど目が見なかったそうです。先日、あの女を見たとき気づいたんですが……女はあなたの名前は知っていましたが、あなた自身のことは知らなかったんじゃないかって気がするんです。てっきり私はその犯人の一人があなたじゃないかとも思ったんですが……」
「バカなことを――!」
むっとしたように克己は言った。「私はそんなことなどしていません!」
「ええ、確かに違ったようですね。ですが――やっぱりあなたに呪いをかけているのはこの女なんじゃないかと思います。そこでお願いがあるんです」
「何でしょう?」
「これから一緒に前橋に行ってもらえませんか?」
彰吾の言葉には強い意志が感じられた。
* * *
香月は足を引き摺りながら階段を登った。
足に痛みはないし、医者は完治していると言っている。それでも足は動かなかった。
――精神的なショックからかもしれません。
あれからすでに14年が過ぎるというのに、右足は未だに自由に動いてはくれない。他人にはない特殊な能力、そして動かない足。一時、そのことが大きな心の傷になっていたこともあるが、今では全てを受け容れる事が出来るようにあっている。彰吾の存在がどれほど救いになったか知れない。
香月は階段を上がると、突き当たりのドアをノックした。
「……はい」小さな声が聞こえてくる。
香月はドアを開け、中を覗いた。部屋の隅に膝を抱えて座っている涼子の姿があった。
「入っていい?」
香月は涼子に向けてニッコリ笑いかけた。
その問いかけに涼子は黙ってコクリと肯くのを見て、香月はわざと大きくドアを開けたまま部屋のなかに足を踏み入れた。
脅えたような目で涼子が香月を見上げている。
「ねえ、ちょっとお話しよう」
香月は涼子と同じ目線になるようにしゃがみ込んで、涼子に話し掛けた。
「……何を話すの?」
「何がいいかなぁ」
そう言って香月は涼子の隣に座りこんだ。
「お姉ちゃん……この前も来てたよね」
「うん……あの時はお友達を迎えに来たの」
「あのお兄ちゃん?」
「そうよ」
「あのお兄ちゃんはいったい誰なの? この前……血だらけになってたよ」
幼い涼子にとって先日の彰吾の姿はよほど怖かったに違いない。
「怖かった?」
「うん……」
素直に涼子が肯く。「死んじゃうんじゃないかと思った」
「大丈夫だよ。お兄ちゃんはお姉ちゃんがちゃんと守るんだから」
「お姉ちゃん、強いの?」
「うん。お兄ちゃんより強いよ」香月は笑ってみせた。
「あの女の人より?」
「女の人?」
「うん……いつも夢に出てくるの。あのお兄ちゃんにケガさせたのもあの女の人なんでしょ?」
「涼子ちゃん……その女の人が見えたの?」
「昨夜も夢に出てきたの」涼子はそう言って身体をぶるっと震わせた。
「昨日も?」
「最近、毎晩のように出てくるんだ……そんなこと言うとお父さんたちが嫌がるから言わないけど……でも、あの人……怖い…でも可哀相な人のような気もする」
「そう……」
香月はそっと左手を涼子の肩に回して抱きしめた。こんな小さな身体で両親のことを健気に想っている。助けてあげたいと思った。
「あの女の人は誰なの? 夢のなかに出てくるあの女の人はいつも泣いているよ」
「さあ……誰なんだろうね。それはお兄ちゃんが調べ出してくれるよ」
「お父さん、殺されちゃったりしない?」涙を潤ませながら涼子は訊いた。
「まさか。そんなことお兄ちゃんやお姉ちゃんがさせない」
「ホント?」
「ホントだよ」
コツンと涼子の額に自分の額を当てる。涼子は香月の瞳を見てにっこりと笑った。
涼子のためにも、全てを終わらせたいと思った。




