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悪意・2

 その男の事務所は新宿にあった。

 真行寺豊というその男はかつて『現代の陰陽師』としてマスコミにもその姿を知られた男だと石津は説明してくれた。すでに80歳を超えており、今はほんの趣味で占いを細々とやっているだけだと言う。実際、真行寺は大道易者のような服装をしていた。だが、そのシャンと伸ばした背筋を見ても、とても80歳を超えているようには見えなかった。

 真行寺の使う陰陽術は陰陽道の宗家『土御門家』の流れをくむもので、息子は京都にある神社の神主を勤めているということだ。だが、陰陽術のことなど何も知らない朝倉にとってはそれがどれほどの意味を持っているのかわからない。

 石津は以前から真行寺とは顔なじみらしく、やけに丁寧な言葉使いで山崎のことを説明している。真行寺は石津から話を聞いて、すぐに山崎のところに出かけてくれると言ってくれた。朝倉たちは真行寺を車に乗せ、山崎のもとへ向かう事にした。

(まったくどう報告書に書けばいいんだ?)

 まさか殺人事件の原因が『呪い』で『陰陽師』に依頼して事件を解決したなどと上に報告するわけにはいかない。

「あなたは……石津やその男の話を信じるんですか?」

 ハンドルを握りながら朝倉は後部座席に座る真行寺に問い掛けた。

「それは質問ですかな?」

 真行寺は軽く笑った。「私はもともとこういう仕事をしていますからな。あなたは信じていないようですね」

 後部座席に背筋を伸ばして座る真行寺の姿はまるで老舗のご隠居のようにも見えた。

「はぁ……」

「無理はありませんよ。人間というのは子供の頃から常識というものに少しずつ捕らわれるように教育されていきますからね。つまり常識が霊感を失わせていくのです。もっと自分の感じた事をそのまま受け容れる心の広さがあれば、普段見ることの出来ないものも自然と見えるようになるのですよ」

 非科学的なことを朝倉はまるで信じていないが、それでも真行寺の言葉には否定することの出来ない強さがあるように感じられる。

「――と言いますと?」

「石津君はある程度の霊感がありますからな。たぶん彼が言っているのは正しいでしょう。それにその女、あなたたちの存在も気に入らないようだ。あなたたちの周囲にはすでに『気』が纏わりついておる」

「やっぱりそうですか」

 助手席に座る石津が顔を強張らせ、御守りをしっかりと握るように左手を胸に当てている。

「だが、心配することはない。それほど強い『気』ではない。後ほどあなたたちにも『祓い』の儀式をやってあげよう。それよりもその山崎さんという人が心配です」

「いえ、それなら大丈夫だと思いますよ」

 助手席に座る石津が言った。「山崎さんの家には護符が貼られ結界が作られていました」

「ほぉ、誰がそのようなことを?」

「鳥居彰吾という若者らしいです。ただ、その事によって大ケガをしたと言っていました」

「なるほど……陰陽術は使い方を間違うと命にかかわりますからな」

「あんたは大丈夫なのか?」

 朝倉が訊くと真行寺はホッホッホと白い顎鬚をさすりながら軽く笑った。

「私は修行を積んでいますからな。心配することはありませんよ。まあ、私に任せておきなさい。その『怨念』、私が全て祓ってさしあげましょう」

 その時だった。

 突然、ラジオのスイッチが入り、ザーっという砂の流れるような音が車内に響きだした。

「なんだ……?」

 朝倉は驚いてラジオのスイッチを消そうとした。だが、どんなにスイッチを押してみても音が消えない。むしろその音量は上がっていく。

「これは――」

 真行寺がうめくように声をあげる。その表情からはさっきまでの余裕の笑みはすっかり消え去っている。

 そのスピーカーから声が流れ始める。

――それほど強い『気』じゃないって? 言ってくれるじゃないか。

 篭ったような男の声。その声にさすがに朝倉もぎょっとした。

――せっかくどんな奴を連れてくるかと思えば、そんな時代遅れの爺さんかよ

「先生……」

 石津が身体を震わせてを真行寺を振り返る。その真行寺の顔が真っ青になっている。

「バカな……そんな……『気』が膨れあがっていく」

 真行寺は必死の形相で数珠を持った手を胸の前で合わせた。

「ちきしょう!」

 朝倉が声をあげた。「ブレーキが効かない!」

「うぅぅ……」

 隣に座っていた石津が苦しそうにうめいた。

 そのうめき声に朝倉が横を向いた。石津の両腕がまるで自分自身を絞め殺そうとするように喉元を締め上げている。

「お、おい! 石津!」

 朝倉は驚いて声をあげた。「な、何やってるんだ! やめろ! やめるんだ!」

「……うぅぅ……たすけてぇ……」

 石津は朝倉を見て搾り出すように声をあげた。

「やめろ! 石津! しっかりするんだ!」

 朝倉は右手でハンドルを握ったまま、左手で石津の腕を掴んだ。だが、石津の腕はまったく動じることなく、ぐいぐいと自らの首を締め上げていく。

「おい、あんた! 何とか出来ないのか!」

 後部座席に座った真行寺に顔を向けると、真行寺は数珠を握り締め、必死にぶつぶつと何か呪文を唱えつづけている。

「ぅぅぅぅ……」

 苦しげな石津の呻き声。顔は真っ赤に染まり、その目からは涙が溢れ零れ落ちる。

 ゴキリ!

 その鈍く異様な音が石津の首元から聞こえた。

「くはっ!」

 空気の抜けるような音がその開いた口から漏れる。石津は目を見開き、その口からは舌がだらりと垂れ下がる。

「石津! おい! 石津!」

 朝倉の呼びかけも虚しく、石津の身体はそのまま崩れ落ちていった。「おい、じいさん! どうなってるんだ!」

 思わず朝倉は後部座席の真行寺に怒鳴った。

――くっくっく……無駄だよ。そんなジジイにどれほどの力があるって?

 カーステレオから嘲るような声が聞こえてくる。

「バン・ウン・タラク・キリク・アク」

 真行寺が目を閉じて数珠を持った手を宙に差し出し、呪文を唱え続ける。

――セーマンか。無駄だ。

 メキリと音がした。

「ぐぁ」

 数珠を握る真行寺の左手の小指が青紫色に染まり、ぷらんと垂れ下がった。次に薬指がまるで何者かに捻り上げられていくようにその関節の作りに逆らうように動いていく。

 メキリ……

「ぎゃ!」

 再び真行寺が声をあげた。その身体はまるで固定されたように動かすことが出来ない。

「……バン・ウン・タラク・キリク・アク」

 痛みに顔を歪ませながら、真行寺はそれでも呪文を唱えつづける。

 朝倉もまた動くことが出来ない。ブレーキは効かず、そのスピードはしだいに上がっていく。必死になってハンドルを握った。奇跡的に信号や渋滞に引っかかることはないが、もし、そうなれば激突するのが目に見えている。

「ぐあああ」

 真行寺が叫び声をあげた。その指はついに全て見えない何者かのよって折られ、その手から数珠がぽとりと床に落ちる。それでも真行寺はなおも呪文を唱えた。

「バン……ウン・タラク・キリク・アク」

――無駄だと言っているんだよ。

 嘲るように声が聞こえる。

 車内に風が吹いた。その瞬間、真行寺の手首がスッパリと切り裂かれた。血が噴出し、その手首がその場にぼとりと落ちる。吹き出した血飛沫が車内を真っ赤に染めた。

「うおおおおおお……」

 真行寺は右手で血が噴出し続けている左手をぎゅっと握った。「そんなバカな……信じられん……これほどの霊力など……有り得ん! 有り得んぞぉ!」

 風がそっと真行寺の顔をなぞる。

「ぎゃぁぁぁぁあぁぁぁ!」

 真行寺の目から眼球が飛び出し、そこから脳漿が混じったような淀んだ血が噴出す。

 車はぐんぐんとスピードをあげている。いや、それだけではない。ハンドルもすでに朝倉の意思とは別の動きをしている。逃げ出そうとドアを開けようとしてみても、ドアにはロックが掛けられ逃げ出すことも出来なくなっている。

「おい! どうなってるんだ!」

 朝倉が振り返ると、すでに真行寺の頭はぐしゃりと潰され息絶えていた。首は鋭利な刃物で切り裂かれたように、皮一枚で胴体と繋がっている。その切り口は篠原一美が殺されたものと同一のものに見えた。

 これまでいくつもの死体を見てきた朝倉だったが、さすがにその真行寺の姿に愕然とした。

(これが……これが呪いだというのか)

 さすがの朝倉もそれを信じるしかなくなっていた。

 130キロ……140キロ……

 すでにこの車が自らの棺桶になっていることに朝倉も気づいていた。

(ちきしょう!)

 朝倉は心のなかで叫んだ。

 もし、この事件に関わることがなければ、きっとこんなことにはならなかったはずだ。

(山崎克巳! あの野郎のせいだ!)

 車は次第にスピードをあげていく。ミシリと車体が大きく軋む。

「うあぁぁぁぁぁぁぁ!」

 恐怖に押しつぶされるように朝倉は怒号にも似た叫び声をあげた。

 遠く笑い声が聞こえた。


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