呪術・2
ふと顔をあげる。
窓から夕陽に染まった街が見える。
香月はその街並を眺め、そこに流れる風の流れを見つめた。
(嫌だ)
心の奥で胸騒ぎがしている。
(彰ちゃん……)
彰吾は今日、山崎克巳のところへ行っているはずだ。
彰吾は自分よりもよほど呪術に関しては詳しい知識を持っている。たとえ相手がどれほどの強い力を持っていたとしても、彰吾に任せておけば大丈夫だろう……そう思ってきた。
それなのに、これまで感じた事のない不安がザワザワと胸のなかに沸きあがってくる。いや、これに似た感じは以前に一度だけ感じたことがある。
――行ってきまーす。
あの日の朝、本当はわかっていた。いつもと何かが違っている事を。何か嫌なことが起こるという予感。
香月にしかわからない言い知れぬ不安だった。
当時から人にはない力に気づいていた香月にとって、その不安感を両親に告げてはいけないような気がして、口にすることが出来なかった。
きっと気のせいだ。すぐに忘れることが出来る。そう自分に言い聞かせようとした。それが現実のものだと気づいたのは、香月の目の前に車が迫ってきた時だった。
もし、あの日の朝、素直に母に相談していれば……。
もし、嘘をついてでも学校を休むことにしていれば……。
何度、悔やんだ事だろう。けれど、時を戻す事は香月の力をもってしても叶わないことだ。もう後悔はしたくない。
香月はぎゅっと拳を握った。
(彰ちゃん)
香月はすっくと立ち上がった。
* * *
夕暮れが近づいてくるにつれ、その『気』が強くなってくるのを感じる。
『呪術』や『恨みの念』というものは陽の落ちた夜になると急激に動きはじめるものだ。それは闇のほうが『思念』の浸透率が高いせいだろう。
(来る……)
彰吾は克己の家の客間に一人、正座をして座っていた。
その周囲には外側に10枚の霊符、内側に12枚の霊符が彰吾自身を囲むように置かれ、その中央に山崎克己の血で書いた札が置かれている。外側の10枚の霊符は十干を現し、12枚の霊符は十二支を現している。十干とは「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」で天の気。そして、十二支とは「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」であり地の気である。
家のなかには結界が張られ、唯一この部屋のなかのみ結界が解かれている。
(これで『奴』は間違いなく僕の前に現れるはずだ)
『奴』が誰なのか、そして誰に対する『恨み』なのかを調べなければ前へは進めない。
克己たちは2階にある寝室にいるように指示してある。
もし、しくじることがあれば、おそらく自分も篠原と同じような最後をたどることだろう。
一瞬、昨夜西の空に見た星のことを思い出す。あれは凶星の輝きだった。だが、今更引くわけにはいかない。あれが凶星だったとしても、それを越えていかなければ、この件を解決することは出来ない。
彰吾はぎゅっとポケットにいれられた命水晶を握り締めた。いざという時にはこれが身代わりになってくれるはずだ。だが、それをも超える相手だったら?
(いや……今さら考えるのはやめよう)
窓から刺してくる夕陽が薄れはじめる。
彰吾は緊張をとき解すように大きく首を回してから瞼を閉じた。そして、小さく呪文を唱えはじめる。
「吐普加身依身多女寒言神尊利根陀見波羅伊玉意喜餘目出玉」
さらに彰吾は続けた。
「もえん不動明王 火炎不動王 波切り不動王 大山不動王吟伽羅不動王 吉祥妙不動王 天竺不動王 天竺山坂不動王逆しに行ふぞ 逆しに行ひ下せば向かふわ 血花に咲かすぞ 味塵と 破れや 妙婆訶もえ行け 絶え行け 枯れ行け 生霊 狗神 猿神水官 長縄 飛火 変火 其の身の胸元 四方さんざら味塵と乱れや 妙婆訶 向かふわ知るまいこちらわ知り取る 向かふわ 青血 黒血 赤血 真血を吐け血を吐け 泡を吐け 息座味塵に まらべや天竺七段国へ行なへば 七つの石を集めて 七つの墓を付き七つの石の外羽を建て 七つの石の 錠鍵下して 味塵すいぞん 阿毘羅吽 妙婆詞と行ふ 打ち式 返し式まかだんごく 計反国と 七つの 地獄へ 打ち落すうんあびらうんけんそばか」
その瞬間だった。強い一陣の風が窓を叩いた。
彰吾は身構えると目を開け、部屋の隅に視線を移した。
薄闇に紛れて女の姿が見える。香月に聞いていたように、白いブラウスに茶色のロングスカートを身につけている。髪は長く、顔部分がぼやけて見える。
女の『思念』が彰吾のほうへ向けられている。ぞっとするほど冷たい『思念』。彰吾は注意しながら、自らの『思念』をその女のほうへ向けた。
「あなたは……誰? あなたが『ヤマザキカツミ』なの?」
その問いかけに彰吾は戸惑った。
暗い思念が彰吾の頭のなかに飛び込んでくる。だが、その『思念』は彰吾が予想していたものとは違っていた。『恨み』の念は篭もっているものの、それ以上に深い悲しみを纏った思念。
「違うのね……なら、邪魔しないで」
篠原が死んだ時に感じた強い『悪意』とは違っている。まるで弱々しい悲しみに包まれた『思念』。殺意は感じられるものの、それはほんのわずかなものでしかない。これほどの弱い力で人を呪い殺すなど出来るはずもない。
「おまえは誰なんだ?」
彰吾はその女に向けて言った。「おまえに何があった? いったい何を恨んでるんだ?」
そう言いながらも彰吾は自らの『思念』を女に向けて伸ばし続ける。女が何者なのか、そして、その恨みのもとが何なのかを知らなければならない。
「邪魔しないで」女はもう一度言った。
「僕はおまえが何者かを知りたい。闇の力に囚われたおまえを救ってやろう。そのためにもおまえに何があったのか、何を求めているのか知らなきゃいけない。それを教えてくれ」
宥めるように声をかけ、その裏でゆっくりと女の思念を読み取っていく。断片的にその『思念』のなかからいくつかの映像と、言葉を拾い出す。
だが次の瞬間、彰吾ははっとした。女の思念の裏側から殺意の波が押し寄せてくる。
「消えろ」女の声が変った。
強い殺意が彰吾に向けられている。ピリピリとした空気が肌に突き刺さってくる。
突然、外側に置いた十枚の霊符が一瞬のうちに炎に包まれ灰になった。
(まずい)
篠原の死んだ時に感じた『悪意』を含んだ強い『思念』が彰吾を取り囲む。そして、内側に置いた十二枚の霊符までが今度は一陣の風に真っ二つに切られる。
(俺は間違っていた……これはただの『怨念』なんかじゃない!)
彰吾は自分の考えが外れていたことに気がついた。
「くそ!」
彰吾は目を閉じ、右手で刀院を切るとその指を額に当てた。念を自分の身体に集中する。力が自分に迫ってきている事がはっきりと感じられる。
風が部屋のなかに巻き起こった。
(式神?)
鋭利な刃物と化した風が彰吾の身体に襲い掛かる。
「ぐぁ!」
激痛が彰吾の身体を走り、その風に捲きこまれるように身体が宙に舞った。
* * *
突然、ドスンという大きな音とギーという何かが軋み、切り裂かれるような音が一階の客間から聞こえてきた。
涼子は克己の腕のなかで、さっきから口を真一文字に閉じ、身体を丸くして震えている。
(この子は何が起きているのか感じているんだ)
克己はぎゅっと涼子の身体を抱きしめた。
「今のは……?」
脅えたような目で由紀が克己の顔を見る。「何かあったのかしら?」
「さあ……」
「あの子、大丈夫かしら」
由紀は不安そうに彰吾のことを思った。
克己もそのことが心配だった。彰吾からは部屋でじっとしているように言われている。だが――
(さっきの音は?)
一瞬、頭のなかに篠原の死んでいた時の姿が思い出された。
首が弾き飛ばされ、血に塗れた身体。
「おい――」
克己は由紀に声をかけると、涼子を手渡した。「ちょっと下の様子を見てくる」
「だ、大丈夫なの?」由紀は不安そうな目を克巳に向けた。
「ああ」
怖くないといえば嘘になる。頭のなかでは『祟り』や『呪い』など信じてはいないが、現実に自分に関わった篠原は死んでいる。そして、鳥居彰吾という若者ははっきりとこれらの事件が『呪い』であると宣言している。
部屋を出ると震えを理性で押さえるようにしながら、克己は階段を一段づつ降りて行く。すでに陽が落ち足元が見えないほど暗くなっていたが、明かりを点けていいものかどうかもわからず、そのまま手探りで降りて行った。
階段を降りて突き当たりにある客間の襖がほんの少し開かれている。
「鳥居君……」
恐る恐る克己は声をかけた。返事がない。
克己は襖に手をかけた。ゆっくりと開いていく。部屋の中は暗く、よく見ることが出来ない。克己は闇に目を慣れさせながら、部屋のなかを覗き込んだ。
「鳥居君……」
声をかけようとして、思わず克己は息を呑んだ。部屋の片隅に誰かがいる。
「誰だ?」克己はその人影に声をかけた。
「山崎……克己か」その人影が克己に顔を向ける。
(女だ)
そこに夢の中に出てきた女の姿があった。ガクガクと身体が大きく震えた。
「な……お……おま……」
言葉にならないまま、克己はその場に崩れ落ちた。
「誰を連れてきても無駄だよ。あんたのことは必ず殺してやる」
女の顔ははっきりと見えないものの、自分に向けられた女の殺意はひしひしと感じることが出来た。
「いったい……なぜ……?」
やっと口から言葉らしい言葉が発せられた。
「なぜ? 今さら何を言っている? おまえが私たちにやったことを思い出してみろ!」
その投げつけられるような言葉に克己は思わず顔を背けた。
(いったい俺が何をしたというんだ?)
なぜ、それほどまでにその女が自分を恨むのかがわからなかった。
再び克己が顔をあげた時、女の姿はすでに消えていた。
「う……」
暗闇から声が聞こえてくる。
克己は目を凝らして、そこをじっと見た。彰吾が倒れている。克己は震える足を押さえるように立ち上がると、壁のスイッチをいれた。
「あ!」
その光景に克己は思わず声をあげた。
客間の畳がまるでナイフをまっすぐに当てたように切り裂かれている。そして、その部屋の隅に鳥居彰吾の姿があった。青いシャツが鋭利な刃物で切られたかのように裂け、シャツは血でぐっしょりと濡れていた。
部屋に貼られた霊符も、彰吾を取り囲んでいた霊符もすべて真っ二つに切られている。
「鳥居さん!」克己は彰吾に駆け寄った。
「うう……」
彰吾はうめきながら克己の顔を見た。「ちょっと……しくじっちゃいましたね……」
「い……今、救急車を」
そう言って立ち上がろうとする克己の腕を彰吾の血だらけの手が押さえた。克己の手首に彰吾の血がぬらりと絡み付く。
「そんなもの……呼ぶ必要ありませんよ」
痛みを堪えるような低い声で彰吾が言った。
「何言ってるんだ? 血だらけじゃないか このままじゃ死んでしまう」
彰吾の胸からは血が滴り落ち、畳を赤く濡らしている。その出血の量は生きている事すら不思議に思える。
「なぁに……このくらい……大丈夫ですよ」
彰吾は克己の腕を握る手に力を込めて起き上がろうとした。
「お……おい」
「大丈夫……ですよ」
真っ青な顔で彰吾は起き上がるとぶつぶつと何やら呪文を唱えた。「血の道は父と母の始めなり、血の道かえせ血の道の神」
「おい……」
克己の心配など気にもせず、彰吾は呪文を唱え終わると顔を克己のほうへ向けた。右手は克己の腕を握ったままだ。胸に当てた左手の指から血が滴り落ちていく。
「とりあえずこれで……大丈夫。それよりもあんたに訊きたいことがあるんだ」
彰吾は克己の目をしっかりと睨んでいる。
「何を――」
「あんた……こいつのことを知ってるか?」彰吾が克己の腕を握り締めた。
その瞬間、一つの映像が克己の頭のなかに飛び込んできた。
一人の男が暗いところに立っている。その右腕には拳銃が握られ、まっすぐ自分のほうへ向けられている。
(これは……いったい)
撃ち込まれる拳銃。そして、その映像はぶつりと切れた。
「ああ……今のはいったい……」
だが、彰吾は答えなかった……いや、答えられなかった。彰吾の身体はうめき声とともに前のめりに崩れ落ちていった。




