鈍色寓話
昔々、あるところに一人の修道士がおりました。
彼は慈悲深く気高い志を持ち、厳しい戒律の元に、旅をしながら様々な国や町に己の信ずる教えを広めておりました。
そんなある日、辿り着いた町で修道士は住人の一人からこう言われます。
「もう何年もこの町には夜が来ておりません。あの山の向こうに高い塔が見えるでしょう。そこにおわします時の娘が、夜をくださらないのです」
山間のその小さな町は、確かに常に太陽が地を照らし闇を迎えることがありません。住民は眠りたくとも眠れない、毛布を被ったり窓のない部屋を作ってそこに入ったりして何とか眠っていましたが、作物も取れなくなり困り果てていると言います。
「お願いです、私達がどんなにお願いしても、時の娘は聞き入れてはくれません。でも貴方さまのようなご立派なお方の言葉なら、素直に従うのではないかと思うのです。塔に上がって、娘に頼んでくれませんか」
修道士は少しとまどいましたが、困っている人を放ってはおけません。泣き崩れ懇願する村人が、彼が頷いた時に口角をほんの少し上げたのも気づかず引き受けました。
「これでまた、町の寿命が延びるだろう」
修道士を見送った後、村人達は邪悪な笑みを見せて囁きあっていたのです。
そんなことは露ほども知らない彼は、うっそうと木の繁った森を抜け、ひどく険しい山を登り必死に進んで行きます。
塔に登るのに二日をかけ、そこからさらに何重にもらせんを描く階段を上って最上階に辿り着きました。
かつてない光景に、修道士は呆然と中を見渡します。
「貴女が時の娘というお方ですか」
数階分は優にあろうかという高い天井のその部屋は、色とりどりの無数の窓が並んだ、大きな礼拝堂でした。窓は装飾も大きさも様々で、壁という壁にひしめく様に空いています。
中央にあるのは神の像などではなく、丸い銅版を掲げ持つ台座でした。そこに娘は立ってこちらを見ています。とても美しい顔をした娘でしたが、手足はどういうわけか長い綱となって銅版に巻きつき、終わりが見えません。
そして身体はというと心臓の辺りから、人の身丈ほどはあろうかという錆び付いた鉄の杭が顔を覗かせていました。
彼女は銅版に標本の様に縫いとめられているのでした。
「貴女は一体何者なのです」
「わたくしは時を司る者、それ以外の者ではありません。用向きを伺いましょう」
異様な光景ではありましたが、娘の口調が冷静だったので彼は本題に入ることにしました。
「なぜこの町に夜をもたらしてはくださらないのですか。このままでは皆が病気や飢えで死んでしまいます」
娘は苦しみに満ちた声で言いました。
「夜が来ないのはわたくしが眠れないからです。数年前、ちょうど貴方の様にここを訪れた者がおりました。それからわたくしが眠ろうとすると、決まって彼は夢に現れます。恐ろしくてとても眠れず、町に闇をもたらすことが出来ません。いつの間にか身体からは鉄の杭が生え、こうして苦しみに喘いでいます」
「どうすれば貴女を、そして町の人を救うことが出来るのでしょう? 私に出来るものなら、力になりたいのです」
「この胸に刺さった杭を抜いてください。そうすれば私に死が訪れ、次の娘が生まれるまで町は闇を迎えるでしょう」
自ら信ずる教えに殺生を禁じられている修道士は、首を横に振りました。
「出来ません。私の神は、なんびとたりとも殺してはならないと仰せです。貴女の夢にその人が出てこないようになればよろしいのではありませんか」
娘はくらい笑みを浮かべて言いました。
「ならばあの人の記憶をわたくしから消してください。美しい姿をして私を見、化け物と怯えたあの人。生まれて初めて絶望と屈辱という、人の感情を与えたあの人を。この脆弱な身体は、見る見る悪意に錆びて腐っていく。いくら取り替えても、取り替えても、止むことがありません」
「時の娘、それは『恋』と呼ぶのではありませんか。貴女はその人のことを」
ああ、と娘は嘆きました。
「白く清いお人。貴方は私のこの姿を見ても醜いとも恐ろしいとも言わなかった。貴方がわたくしを少しでも救いたいとお思いになるのなら、その身体をわたくしにくださいませんか」
彼女の言わんとするところがようやくわかった修道士は、やや黙って考えてから答えました。
「いいでしょう。それでこの町が救えるのなら」 途端に娘は烈火のごとく怒り出しました。
「貴方はどうしてそうお人よしなのです。町の人に騙されたのがまだわからないのですか?」
彼女の怒りに共鳴するかの様に、壁が、窓が一斉に音を立てて揺れ始めます。
「ここ数年、何人ものよそ者がこの塔に登って来ては、私の身体になったのです。住人は最初から恐ろしがって、誰ひとりここに来ようとはしません。貴方がたとえ犠牲になったとしても、彼らはしてやったりとほくそ笑むだけなのですよ」
しかし彼は全く動ずることもなく、さらに一歩足を踏み出して娘に近づきました。
「哀れな時の娘。たとえ町の者達が感謝しなくとも良いのです。悪意に囚われるのは悲しいこと。願わくば、私の身体で貴女の憂いが晴れますように……」
そう言って彼女の身体を両腕で抱きとめたその時、耳元で低く囁く声がしました。
「貴方の信ずる神は殺生を禁じているのでしょう。ご自分を投げ出すのも、それに当たるとお気づきにならないとは」
え、と修道士が顔を見上げるよりも早く、いきなり娘の身体が中から裂けて、真紅の闇が彼を飲み込んでしまいました。
※※※※
「……やはり迷いがあった方が良いわ。それでこそ器はよく馴染むというもの」
修道士の身体を手に入れたことによって、娘はそれまでと全く違う姿に変わりました。もう胸から杭も飛び出ていません。手も足も、全くの人の形になりました。
「綺麗なばかりの修道士さん。貴方の正しさ潔さが、私にはすこうし合わなさそうだったの。でもこの頃あまり人が来ないものだから、ごめんなさいね」
誰とはなしにそう呟いた時、ふいに胸に息苦しさを感じてうずくまります。
「あ、ああ。またなの。また駄目なの──」
内側から食い破られるようにして、出てきたのは緑に覆われた細い木の枝でした。見る間に広がって、銅版につるを伸ばして巻きつきます。葉の合間、つるから生えたおびただしいとげが、娘自身にも刺さりました。
そして大輪の白い花がいくつも付いて、ようやく彼女は修道士の心を知りました。
「わかったわ。眠ってあげましょう。でもお願いだから夢には出てこないで……」
悲しげな笑みを浮かべて、娘は瞼を閉じました。
その両目は以降、再び開くことはありませんでした。
※※※※
何年かぶりにこうして町に訪れた夜は、逆に何十年も明けずに人々をさらに苦しめました。
修道士の身体が朽ちてしまった頃、差し込んだ朝日を喜ぶ者は誰ひとりおらず、町は何ものも存在しない荒地となっていたそうです。
─了─
修道士が本当は何を思っていたのかは、ご想像にお任せします。
ここまでお読みくださいまして、ありがとうございました。