ペテン師マジシャン
「無い物を出すなんて、出来るわけないじゃん!」
そう言って、佐代子は聞かなかった。私は、そりゃそうだと思いつつ、のんきにコーヒーを啜っていた。さしてこの論争に興味が湧かなかった。心の中は、穏やかなものだった。
「それを言っちゃあ、僕等の立場が無いよ」
両手を上げて、まるで降参するみたいにシンタロウは笑った。それから「マジシャンだから、僕等は」と余裕の笑みを浮かべていた。彼の長めの髪が、バルコニーの風に晒されていた。佐代子は不服そうに、両の腕をぶんぶんと上下に振った。
「絶対仕掛けがあるんだよ! お姉ちゃんもそう思うよね」
十も離れた妹は、一生懸命にせがむような視線を向けてきた。可愛いもので、いつも私は、佐代子の味方をしてしまう。それも、もうすぐ終わってしまうと思うと、寂しかった。
「そうだね。何かあるんでしょ? シンタロウ」
「綾子までそれを言うのかよ」
困ったな。と中学時代の同級生は、あの時と変わらぬ仕草で頭を掻いた。卒業してすぐに、マジシャンの下へ弟子入りした彼を、皆は驚きや羨望、あるいは呆れた思いで見守っていた。
そして、まだまだ無名の彼に、佐代子が元気が無いと相談したのは、私だった。シンタロウ、正しくは真太郎なのだけれど、芸名なのか何なのか、片仮名になってしまった彼は「丁度、新しいのが出来たんだ!」そう言って、私達の家へ押しかけて来た。そうして披露したマジックが、この論争の火種だった。
何も持っていない筈の手の平から、出てきた物は五百円玉。そんなマジックだった。
「餞別代わりに教えなさいよ。タダで五百円玉が手に入るマジック」
「教えなさいよ!」
口調を真似るようにして、佐代子はシンタロウに詰め寄っていく。私だけ椅子に座っていて、実際は低いのだけれど、何だか高みの見物をしているようだった。
「佐代子ちゃんは綾子そっくりだなあ」
後ろにじりじりと、佐代子から離れるように下がりながら、シンタロウはちらりとこっちを向いた。自分でも、佐代子は私に似てきたと思う。しかし、それはどういう意味だろうか。実際は、訊かずとも分かっていた。
「どういう意味よシンタロウ!」
「そーいうとこだよ」
机に、前のめりになりながら叫ぶと、シンタロウは色を濃くして笑った。安堵したようにも見える表情が、私の中でも弾けた。形の無い、漠然とした色々な不安が、消えるまでとは言わなくとも、色が付いていって、怖くはなくなっていく。
「ほんとにお姉ちゃんに似てる?」
「ああ、似てるよ」
ぱっと明るくなるというのは、こういう事を言うのだろう。佐代子は「シンタロウ!」と嬉しがって彼に跳び付いた。少し小さめのシンタロウだけれど、いっぱしの男性というだけはあって、軽々と佐代子を持ち上げた。
そんなに嬉しいのか。
自然と頬も、気も緩んでいった。佐代子の安心しきった顔を、私は久しぶりに見ていた。そして、この笑顔が暫く見られないのかと悔しく思った。少し冷えた春の風が、存分にバルコニーに吹いた。
「シンタロウ、ちょっと佐代子看といて」
そう言って立ち上がると、シンタロウは満面の笑みで「おう」と言った。佐代子はどこに行くの? と目で訴えてきた。そんな気がした。私に似たくるりとした髪が、少し寂しげだった。
「トイレだよ。行ってくるね」
あんたは佐代子にだけ優しいわよね。と母さんが笑っていたのを思い出した。トイレに行くのにも佐代子に確認を取ってしまう私は、本当に重症だと思った。いってらっしゃいの代わりに、佐代子はシンタロウに抱えられながら、小さく「うん」と言った。それを聞いてから、私はバルコニーを後にした。
廊下を歩いていると、不思議な気分に陥った。
佐代子がトイレに一人で行けるようになったのは、いつ頃だったろうか。そんな事を考え出した。そして、それは随分と前の筈なのに、私はどうしようもなく切なくなった。一人で立てるようになったのは、お姉ちゃんと呼べるようになったのは、ケンジ君とやらを好きになったのは。いつだったろうか。
これじゃあ。
まるで母親みたいだと続けたかったけれど、それは違うなとも思った。当たり前の事だけれど、私は佐代子を産んではいないし、佐代子は私の事を、お姉ちゃんと呼ぶ。そして、母さんの事をママと呼ぶ。初めてママと呼ばれた時に、母さんは泣いたそうだ。私はその時、残念ながら学校にいたらしく、学校から帰宅した私に、母さんは嬉しそうに報告したらしい。でも正直、覚えていない。私が始めて佐代子にお姉ちゃんと言われた日も、覚えていない。ずっと、それこそ佐代子が産まれてすぐから、私は佐代子にお姉ちゃんと呼ばれていたような気がする。それは、錯覚以外の何物でもないのだけれど。私は母さんの娘である前に、佐代子の姉だという認識の方が、強い。繋がっていると感じるのは、離れ難いのは、佐代子だ。
不思議だと考える内に、バルコニーへと戻っていた。私の顔をガラス越しに見るや否や、佐代子は急いでシンタロウに耳打ちした。
何だろう。
ぼんやりとした頭で、その様子を見ていた。シンタロウの表情は此方からは見えない。見えるのは私と同じ位の背丈をした、後姿だけだ。あと、佐代子の嬉しそうな顔。
何かに気付いたときには、私は笑っていた。佐代子が嬉しそうにしている。私がいなくとも、変わらずに笑顔を見せてくれている。さっきも佐代子を笑顔にしてくれたのは、シンタロウだった。馬が合うのだろうか。
負けたような悔しさよりも、安堵で心を埋めてから、バルコニーへの扉を開けた。
「ただいまー」
あえてさっきの耳打ちは見なかった事にした。子どもにとっての秘密は、ほんとうに大切なきらきらした物だからだ。それを目の前で踏みにじるのは不粋だ。大人は子どもの秘密を、大きく包んで、返してあげるべきだと思っている。
「おかえりっ」
ちょっとだけ浮いた視線と、わざとらしいくらいの笑顔。子どもはこんなにも分かりやすい。
シンタロウは私と佐代子の様子を交互に見てから、また頭を掻いた。先よりは愉しげにしていた。
近づいて来た佐代子の頭を撫でていると、吹いた風が冷たく感じた。顔を上げて辺りを見渡せば、日が落ちていっていた。
「そろそろお部屋に戻ろっか」
促すように佐代子の背を押した。シンタロウにも視線をやれば「そうだな。俺はそろそろ帰るよ」と言った。
「新作も披露出来たしな」
「そう。ありがとね、今日は」
「シンタロウ!またマジック見せてね」
その言葉を聞いて、驚いた。先まで散々「出来るわけが無い!」と大声を上げていたのに。シンタロウのマジックが見たいと言うだなんて。
さては種を明かしたのか、それとも佐代子の納得する理由を述べたのか。種を明かして佐代子が理解出来るとも思えないので、きっと何か適当な五百円玉の出現する理由を教えたのだろう。
「うん。またいつでも見せてあげるよ」
「約束だからねっ!」
妙に誇らしげなシンタロウと、期待に目を輝かした佐代子が奇妙に感じられた。そんなにもマジックで何か通ずるものがあったのだろうか。
「そうだね。また来てよ? 私がいないときでもさ」
詰まりながらだったけれど、言いたい事の二割は伝えられた気がした。私がいなくても、佐代子に会いに来てあげて、笑顔にしてあげてほしい。
「ああ、あとでおばさんに僕の番号とか伝えといてくれないかな? 佐代子ちゃんとの約束だから」
「いつでもマジック見せてあげるっていう?」
「まあそんなとこだよ」
「なっ?」とシンタロウが佐代子に目配せをすれば「ねー!」と佐代子も返事をした。
「ふーん……」
そのやり取りが面白くない気がしたが、怒るほどでもなく、大人しくシンタロウを見送った。シンタロウが玄関から見えなくなるにつれて、佐代子の私の手を握る力が込められていった。吹いた風は、決して冷たくも、温かくもなかった。ただ左手は温かかった。
―――
オーストラリアに留学して半年後、シンタロウから手紙が届いた。
『この手紙を開いたあなたへ
一ヶ月以内に佐代子ちゃん家の扉を、叩いてあげて下さい。
追伸
佐代子ちゃんには教えたけど、僕が強く願えば手の平から五百円玉だって出せるし、留学して遠くへ行ったお姉ちゃんを寂しくなれば出す事も出来る。
それがあのマジックの種さ。』
これはアシスタント料をがっぽりいただかないと。
そう考えて笑った。強く願えば出てくる、そんな便利な五百円玉をたくさん。