悪魔は再び舞い戻る【ダークファンタジー】
中世ケルト地方によく似た……異世界の物語。
隊列は陰鬱に生い茂るシャーロットの原生森林地帯を貫く細道を進んでいた。それは軍隊というにはあまりにもみすぼらしい集団だった。装備は不揃いでそれぞれが着込んだ甲冑には統一性がなく、中には50年も昔の型式で、今日の戦闘ではもはや錘か飾りとしてしか役割を果たせない胴当てを着込んでいる者もいた。
ただ、まともに鎧を備えている先頭の5人ほどのものはまだいい。鎧の一部を失くしているもの、防具が揃ってはいても幾箇所か槍で穴が空けられているもの、軽い皮製の防護服を身に纏うのが精一杯というもの、そんな雑兵たちがそのあと40人ほど続いていた。隊列の中ほどには荷を乗せた小さな驢馬が4頭、祈祷役の修道士が一人。それが聖教会西北地方支部の懇請により今回王宮が遣わしたシャーロットの魔族討伐遠征部隊のすべてだった。
王国の紫紺の軍旗だけが殊更華やかにはためいていた。
エーラル王国西北の山脈の麓に広がる森林地帯。シャーロットの森と呼ばれるこの地には、400年前シャーロットと呼ばれた絶大な力を持つ老魔女が住んでいて、王に恨みを持ち森の中心に魔族を召喚させる呪いをかけて死んだという伝説が残る。
「人数だけは辛うじて体裁を揃えましたが、質の低さだけはどうにもなりませんな」
隊列の前部で使い込まれた鎧を着込んだ一人の騎士身分らしき兵が、並んで歩く同じ騎士身分の兵に話しかけた。
「まあ、仕方ない。今回は戦闘というよりは視察が主な任務だ。そして真に集団化した盗賊どもがシャーロットの森から民衆を人払いするために出鱈目な噂を立て活動しているのであったなら、威圧し追い払うのが目的。森の中での戦いなら馬や立派な装備はかえって邪魔になるだろう……」
その会話は、この隊を指揮する隊長と副隊長のものであった。
「それにしても、先の戦闘で第三王子のご不興を買ったのは災難でしたな」
と副隊長が憂いの交じる低い声でつぶやく。
「仕方あるまい。それに政治には興味がない。貴様らには貧乏くじを引かせて申し訳ないが、また一から出直しだ」
隊長が生真面目な顔で詫びるように決意を述べた。
「前線で背中から味方に射殺されるよりはマシですよ」
と会話に割って入った別の騎士身分兵が乾いた笑い声をたてた。
この10年、エーラル王国は海峡を挟んだ対岸のソルダム共和国と戦闘状態を続けてきた。その間に国力は疲弊し、裏では派閥争い、権力闘争、敵への内通が絶えず。なお前線は戦闘状態にある。国家に“魔族の噂”程度で正規軍を割く余裕などあるはずもなかった。
よって国王と聖教会の名の下に、各地で戦争に参加していない老兵や一般農産階級。そして若年兵らによる傭兵が募られ、少数の騎士身分兵の指揮のもと今回シャーロットの魔族討伐遠征部隊が組まれたのである。
鬱蒼と生い茂る高い葉の群れに昼の光は覆い隠され、薄闇に沈んだ森の中は人の手が入らないまま叢が生い茂り、原生林のけもの道を粗雑に繕っただけの小道も苔むしてぬかるんでいる。そんな拙い道筋を隊列は身なりはともかく、王の勅令を誇りに威風堂々とした気持ちで進んだ。が、混成部隊の傭兵たちは私語を禁じられるほど厳しく統率されてはいなかった。
「今時分、魔族なんぞとは聞いたためしがねえ」
みすぼらしいなりをした、明らかに下級兵卒と思しき隊員が隣のものに話しかける。
「俺の地方じゃ400年前の伝説だってお伽話だといってるぜ、聖教会と聖堂騎士団が王と正規軍に対しての地位向上を目的に広めたな」
「多分、長い戦争の合間に軍から脱走した連中が、野盗となって合流しておるんだろうな」
傭兵たちは正規の職業兵士ではなく、農民兼業ものも多い。そのせいか、不揃いの防護服とはいえあまりに不似合いだった。武器の携え方も腰が引け重心が定まらず、その重みだけで疲れていきそうな不慣れさを醸し出しておぼつかない。
「野盗とはいえ元兵士だ。おいらたちで太刀打ちできるかのう」
「心配すんな、この人数と王の勅令を表す軍旗を見りゃすっ飛んで逃げるわい」
「向こうのほうが大人数だったらどうすんだべ」
「そんときゃ逃げ出すって副隊長が言ってたべ。お前らは当てにならんってのう」
「ちげえねえ」
と雑兵たちは笑う。
「とにかくこの任務をまっとうすりゃあ、作物の税を3年分も免除してもらえるんだ。がんばるべえ」
「んだんだ」
「そうすべえ」
部隊長は後方での、魔族討伐を甘く見た会話の内容に部隊の緩みを感じたが、それを咎めることには躊躇った。無言で歩かせると疲労が表出するだろう、それを忘れるための会話でもあるのだ。それでなくても遅れがちだった行程がさらに伸びてしまうのは好ましくない。隊長自身、鍛え上げられた肉体を持つ剽悍な騎士身分だったが、出自はあまり高くなく下級兵らの情性も把握できた。
隊列の後方で、軍旗が緩く風になびいた。
少年兵は隊の後方で不安と緊張の中にいた。少しばかり顔が青ざめ、唇は細かく震えていた。
目聡い練達の兵士たちなら彼が初陣なのだと悟る。そして、からかうような素振りを交えて、その心情を解すように努めたりもしよう。
しかし、ここにいるのは戦闘に不慣れなものたちばかり。ついこの前かり集められて形ばかりの訓練を施され、中古の武具を与えられたのみで、もう軍事行動に従事しているのだ。皆自分のことに精一杯で彼を気遣う余裕などはなかった。
少年は、不審な大火事で家族をなくし孤身となり世間に放り出された。形見は代々受け継がれた長剣だった。剣の柄には仕掛けがあり、同じく代々伝わる密書が隠されていることを生前父親から聞かされていた。少年は柄に隠された秘密を受け継ぎ、単身王都の衛兵に志願した。しかし配属先は……
うつむき歩いていた少年兵はふと列の先にいる修道士に視線を送った。深くベールを被った修道士は隊列の中ほどを荷運びの四頭の驢馬と共に歩いていた。
「修道士様は魔族を見たことがありますか?」
少年は明灰色の正装を纏った修道士に近づき、気になっていたことを吐露するように話しかけた。
「ふむ、……ある」
――あれは、わしがまだ八才の頃、初めて聖教会の大聖堂にある寄宿舎に入寮したときのことじゃった。聖堂内の礼拝堂の脇には大神官の控えの間があってな。もちろん当時のわしなんぞのような神官見習いは入室を禁じられていたのじゃが、好奇心旺盛じゃった幼い頃のわしは、ある日神官たちの目を盗んでその部屋に忍び入ったのじゃ。
その部屋の奥の壁には巨大な紅い布が掛けられた扉があってのお。わしは扉を開けて、そこへ入ろうとした。ところが向こうの部屋にも扉を開けて、わしと同じぐらいの年の修道士見習いが現れた。そして、わしが向こうの部屋に入ろうとするのを、ことごとく邪魔するんじゃ。
また、その顔が意地悪そうな顔をしておってのお。どんなにわしが素早く動いても、やつは通せんぼするんじゃ。幼いわしは、やつを小鬼じゃと思った。
「……鏡だったんでしょ」少年兵は都で聞き慣れた、鏡が今よりもっと貴重だった頃の笑い話に呆れて言った。
周りの兵士たちも忍び笑いを立てている。
「おいひよっ子。聖職者を粗末に扱うと戦いの神から罰を喰らうぞ」
隊の前方から騎士身分の兵が一人、少年兵をからかった。少年兵は恥ずかしさで顔を赤らめながら隊列の後方へ戻っていった。
やがて隊列は森の中の開けた土地へ出て、休息をとった。先に放たれていた斥候からの報告どおり、そこには奇妙な石柱群が立ち並ぶようにあり、まばらに石畳が敷かれていた。伝説の魔女の神殿跡といわれても否定できない。兵たちにそんな一抹の不安は浮かんでも、不思議と嫌悪感や恐怖を感じるまでには至らなかった。むき出しの石の神殿は森に広場のような空間を作り出しており、今までの道程で鬱々と伸びる叢や枝蔦の間を先も見えぬままかき分けて歩いてきたときより、無意識ながら幾分か心を安らがせてくれるのだ。
「ここまで、魔族はもとより人が暮らしを営む気配すらない。やはり噂は噂か」
石柱群の中央では、隊長と副隊長が今後の方針を相談していた。
「しかし、何ら証拠も持たず手ぶらで国都に帰っては笑われるだけでしょう」
「せめて、盗賊の痕跡でも見つけられたらいいのだが」
「もう日が傾いた刻限です。一度近隣の集落へ引き返しますか?」
副隊長に尋ねられ、沈黙の中しばし熟慮を重ねて隊長は告げた。
「いや、ここに陣を張ろう。夜になれば魔族を騙る輩も現れるやもしれん」
「我らに恐れを為さねば……ですがね」と副隊長が含み笑いをする。
野太い声で、隊長からの指示が部隊に響く。
「今宵我らはこの地に宿営する。交代で仮眠を取りながら、夜を徹して森を探索する。ついては着陣の準備に掛かる前に、戦勝の祈願をとり行なう。修道士殿お願いいたす」
頷いた修道士は、部隊を円状に立ち並ばせて儀式に入る旨を伝えた。
老齢の修道士は、明灰色で染まる修道服の胸元から小さな聖杖を取り出し、両手に握り、天空に掲げた。そしてその聖杖の中に言葉が見えるかのように見つめ続けた。やがて唇を結んだまま口内を動かし誓言をとなえ始める。
取り囲む兵士たちの中で高位の騎士身分の兵たちが囁く。
「あの年老いた爺さんの祈祷でご利益があるのかね」
「儀式だからな、形だけのものさ」
「一応国都の大聖堂の聖職者だろう」
「でも、かなり位は低そうだぞ」
「でなきゃ、こんな辺鄙な地への混成部隊に遣わされるかよ」
そんな騎士身分兵たちの雑言も耳に入れず、修道士は戦勝を祈願し続け、儀式の最後の台詞で大きく口を開いた。
「天上の神々、そして大恩ある国王陛下、あなた方の徳と威光が届いた御膝元で許されざる大罪を為そうと企むものに、我ら正義の鉄槌を今まさに下さんとす。神々よどうか御慈悲を許し賜れ。そして我らを見護りたまえかし」
修道士の言葉に続けて、隊長が叫ぶ。
「剣に賭けて勝利を誓う」
その声にすべての兵が続いた。
「剣に賭けて!」
部隊がそんな着陣の儀式を厳かに進めている間。いつの間にか森には薄く霧が立ち込めていた。そして森の奥からは、不快な笑い声が少しずつ部隊に迫っていた。
気がつけば無数の黒い影が広場を遠寄せにしている。
その気配は強辣で禍々しさを滲ませ、人の胸に不安をよぎらせる。
木々の陰から時折ちらつく姿が、そのものの実在を認識させる。
彼らがその影を見るのは初めてだった。が、知識としては知っていた。それはまさしく邪悪な化け物そのものだった。
「何かに取り囲まれているぞ。人間じゃねえ!」誰かが叫んだ。
兵たちに動揺が走る。予想した中でも最悪の事態に直面していた。
広場の端で木の幹に繋いでおいたはずの驢馬たちの姿が消えている。
隊長は舌打ちした。見るからに相手の数が多すぎる。彼は混成部隊を落ち着かせ、戦闘態勢を取るよう指示を出す。それを聞いた副隊長が、補足して退路を確保するための斥候を放つ手配をしようとした、まさにその時――。部隊が辿ってきた方向から、おぞましく穢れた笑い声と驢馬たちの甲高い断末魔のような嘶きが響いた。
その声はおよそ人間のものとは思えない。それでもその音声は、はっきりとした言語となって頭に入ってくる。
「愚かなり、人間ども」
低く割れた声だった。隊長は退路を完全に絶たれたことを悟った。
石柱の広場に姿を現した魔族は、大柄な人間よりもさらに一回り大きかった。尖ったくちばしをもつ異形の顔立ち、左右に離れた両眼は紅くぎらつき、黒々と湿った翼は邪気をたたき、そのはばたきは腐臭を石柱の広場に漂わせる。そして、他の邪な眷属たちも一体また一体と原生林の薮のそこかしこから広場へとにじり出てくる。
周囲の化け物がこの魔族に合わせて部隊との間隔を狭めているところを見ると、恐らくこの集団の首領なのであろう。木々の奥が巨大な蝙蝠のような羽音でざわめく。姿を見せた怪物たちの幾つかは、怪異な形の翼を持っていた。
奴らはこの世のものとは思えぬ言語で嘲弄交じりの囁きを交わしている。叢の中から黄色く光る両眼を覗かせる。威嚇のうなり声が白い牙の間からほとばしり出る。そして怪物たちの影は時折、聞くものの耳をえぐるかのような奇声を発した。
部隊は、恐怖に包まれた。怯む隊員を隊長が一喝する。
「後先など考えるな。力を集中してヤツらを追い払え。元々それが我が部隊の本来の目的であろう。肝を据えろ」
隊長の野太い声が森と魔族の禍々しい威圧を切り裂くように、朗々と轟いた。
「エーラルの諸王よ天上の神々よ、わが軍を護りたまえかし。エーラルの栄光をわが手に」
隊長がその逞しい右手を頭上に伸ばし、振り下ろす。
「エーラルの栄光をわが手に!」
喊声をあげて部隊は正面の魔族の首領へ突撃を開始した。豪気なラッパの音が高々と鳴り渡る。ちぐはぐなボロ装備の集団が、怒声をあげた洪水となって流れた。
騎士身分の指揮兵たちの攻撃怒号が、陰黙だったシャーロットの原生林に響き渡る。突進する傭兵たちの軍靴が大地を踏みつけていく音が周囲に轟く。対する魔物たちも耳を塞ぎたくなるような嫌な叫び声をあげ、ためらいもなくその身を躍らせてきた。
部隊は恐怖に反抗するように意味もなく声を荒げ叫び続ける。迫りくる両陣の興奮が頂点にたちしたとき魔物と部隊は激突した。嬌声に似た魔族の鳴き叫ぶ声が空気を裂くと、そこに兵士たちの怒声が入り混じった。刀槍のひらめきが走り、折り重なる兵士たちの甲冑が鳴り、かざされた無数の剣と槍が魔族に向かって伸びていく。
しかし倒れていくのは常に人間たちのほうだった。魔物たちは巨体を宙空でくねらせて攻撃を巧みにかわし、石畳や叢の上に着地すると、そのままおぞましい奇声を発して反撃に転じた。
化け物たちの爪が、拳が、牙が、傭兵たちの胴当てを切り裂き、頸部を殴打し、喉を突き刺した。そこに勇気を振り絞って迫る一人の騎士身分の兵。その白刃をかわし、相手の横腹に鎧ごとえぐる痛烈な一撃を叩き返す。
傭兵たちにとっては今日が生涯最後の厄日となった。寄せ集めだった彼らの急ごしらえの練度では集団戦闘を成す術もなく、文字通りなぎ倒されていく。断末魔が広場のそこかしこで聞こえ、赤い鮮血が飛散し、敗者は地に倒れた。そこに立ち残るのはいつでも黒く邪悪な影だった。
石柱が血しぶきでまだらに染まり、惨殺され折り重なった屍が野の草を覆っていく。傭兵たちは圧倒的な実力差を目の当たりにした。彼らのなけなしの誇りと借り物の剣は、魔物の硬い爪に弾かれ刃こぼれを生じた。傭兵たちは精神を追い詰められて、続々と狼狽の叫び声を上げる。
部隊の統制が崩れた。
隊長は部下たちを大声で叱責し浮き足立った味方を鎮めさせようとした。だが突如として頭上から蛇が降りかかり、隊長の眼前を覆う。一閃で蛇は両断され、頭のない胴体が枝からぶら下がった。しかし周囲では一方的な殺戮が繰り広げられる。
傭兵たちの祈りにも似た鈍い咆哮と、大量の血しぶきが宙空に噴き上がる。化け物たちは人間どもの哀願には目もくれないとばかりに、その鋭いくちばしや長い鉤爪に次々と、その血を吸わせていく。魔族の首領も、すさまじい速度で傭兵たちの間を駆け抜けていく。その腕は巨大で鋭い鉤爪を持ち、歴戦の騎士身分兵をも、まるで抵抗の仕方を知らない子山羊のように容赦なく殺害していく。
兜をつけたまま首が飛び、地面に血肉が滴り、石柱の広場を人間の死臭が覆った。悲鳴が脈打って流れてくる。
魔族の攻撃と殺戮は積み重なる兵士たちの屍を、時が刻む数だけ増やした。
副隊長はどこかで怪物に左腕を引きちぎられたのだろう。片腕となりながら尚、剣をかざし、対峙した魔族の首領に奇声をあげて突進していった。
副隊長はその速度をいささかも緩めなかった。しかし彼のその勇気は、結果として彼の命を代償として要求した。長剣と鉤爪とが交錯し、すさまじい刃音が鳴り渡る。すれ違ったあと倒れこみ土に帰したのは副隊長の方だった。新たな血が大地に吸い込まれた。
隊長は血と泥で汚れた顔でその戦いの成れの果てを見て呆然とした。しかし、長年積み上げてきた矜持が一呼吸置いて自我を取り戻させると、彼は透かさず部隊に向けて撤退命令を絶叫した。しかし時すでに遅く、生き残った兵士たちはそこかしこで悲鳴の大きさを競い合っていた。
そのとき隊長は眼前に見た。彼を狙って血塗れた鉤爪が高く振りかざされるのを。反射的に剣を水平にひらめかせた。しかし烈風に等しいすさまじい速度で宙返りした魔族は自身の後方へと身をひるがえす。隊長の戦意と剣は、そこでくじける。その精悍な体躯は彼の背後に忍び寄っていた別の魔族から、既にくちばしで背中から胸までを貫かれていた。
王国の軍旗は地に堕ち、泥にまみれた。
それからも流血は続いた。しかし戦闘は徐々に収束し、倒れた兵士たちは最後の力で地面を這いずり、だが生きながら肉を削られ骨を抜かれた。そこかしこで化け物たちが人間の息の根を止めていった。
森を覆った霧が晴れていく。地面は血肉と泥でどす黒く湿っていた。部隊は魔族に殲滅され、折り重なった屍は人間のものだけだった。それらは用済みとなって放られた舞台袖の操り人形のように無惨に積みあげられていた。
「魔族よ何ゆえ常世に現れた」
それは厳かな修道士の声だった。
晩餐を嗜んでいた全ての魔族の動きが止まり、声の出どころを探る。広場の片隅で修道士と少年兵が、無傷のままで立ち尽くしていた。
少年は痺れたように剣も抜けぬまま、動けなくなっていた。頭では戦おうと臨むのだが、肉体がその指示に逆らっているかのようだった。自分自身の鼓動と呼吸が早まっているのを感じ、異様なほど汗が染み出ていることに気付く。しかし修道士はこの殺戮を目の当たりにしながら、状況に不釣合いなほどのゆとりある笑みを、無数のシワが刻まれたその表情に浮かべ、静かに魔族の首領に語りかけたのだ。
「魔族よ何ゆえ常世に現れた」
再び修道士が落ち着いて問うと、魔族の首領が長いくちばしを持つ顔を声のする方に向けて注視し、意外そうに口を開いた。
「ほう、結界を結んで隠れておったか。だが所詮あざとい小細工。その程度の結界ならば目を凝らせば我には見えてくるぞ。おやおや、随分とお年を召された修道士さまだ……。よかろう、その術に敬意を表して、お前は逃がしてやろう。都へ帰り伝えろ『シャーロットの森に再び魔族が現れた』とな、さすれば大勢の間抜けどもが再び我の元へ訪れよう。我の慎ましい胃袋を満たすためにな。さあ行け」
そう修道士にはき捨てると魔族の首領は少年に眼を向けた。
「そっちの小僧は旨そうじゃ、こっちへこい、苦しまずに殺してやる。若い男の筋はしなやかで弾力があって、それはもう美味じゃからのう」
修道士は、少年を庇うように魔族の首領の前に立ち塞がる。
「天地創造の神の思し召しによりて、この世の万物が委ねる理を、お察しくだされ」
そう立ち塞がって誓言を唱え始める修道士に魔族の首領は苦笑し、表情は険悪さを増した。
「阿呆うめが、聖なるものを盾にすれば怯むとでも思ったか。今、我は腹を減らしておる。多少不味くとも、貴様から先に喰ろうてやるわ!」
魔族の首領は跳ねるように躍りかかった、修道士の体にその尖った口先が伸びた。
魔族の首領のくちばしがまさに修道士を喰らわんとする、その刹那。少年は見た、誓言を唱え続ける修道士の体であるはずのものが、法衣の中心からバリバリと音を立てて割れ、その隙間から無数の目玉があちこちに睨みを利かせた異様な姿を。
裂けた割れ目は鮫の口のように無数の細かい牙を持ち、襲い掛かった魔族が躍らせた身を、逆に頭から喰らいついた。
老修道士の身体を顔から腰にかけてまで縦に裂いて出来上がった巨大な口は、その肉体のどこに収まるというのか、魔族の体すべてをはさみ込み、骨を砕く音を立てながら容易に飲み込んだ。
「そこそこ美味かな」
その声は、先ほどまでの修道士の声とは違い、遠く地の底から聞こえてくるようだった。
「強きものが弱きものを糧にする。それがこの世の理なんじゃわ」
首領を殺され、怒りを露わにした周囲の魔族の眷属どもが、修道士の形をした化け物に咆哮を上げながら一斉に襲い掛かる。しかし勝負は一瞬でついた。怪物たちの体は宙空にはね、一瞬遅れて大地に激突し地響きをたてた。奇怪な形の翼が溺れるように地面をかき回し、四肢と尾が激しく痙攣した。
本日最大にして最悪の叫びが石柱の広場に掻き轟いた。
その圧倒的な力を目の当たりにして、他の魔の眷属は我先に逃げ出した。残ったのは傷ついて動けぬ異形どもで、地面をのた打ち回りながら、ぬめぬめとした粘液をその跡に光らせ、腐敗した鶏卵のような悪臭を放つ。
修道士の形をした形容しがたい生き物は広場を跳ね回り、魔物の臓物を次々とそのトゲのような無数の歯を持つ巨大な口で器用に引きずり出し、音を立てて次々と喰らい尽くしていく。口内に埋め込まれた無数の目玉が歓喜をあげるように、焦点の不揃いな瞳孔を収縮させる。
修道士の爪牙から逃れた魔物たちは逃げ去った。石柱が立つ森の広場に、血脂で練り重なった兵士たちと魔物の無数の屍を残し静寂が訪れた。怯えて固まっていた少年に修道士の姿をしたものは振り向き告げた。
「好物であるお前たちの香ばしさに埋もれていたおかげで、奴らに我の危険な匂いを勘付かれずにここまで近づけた。礼を言っておこう」
少年は振り向いた修道士の縦に割れた体を見て恐怖した。裂け目にある無数の眼球がくるくると不審な動きを続けたまま、その生き物は気まぐれに思念で少年に語りかける。
「怯えるな。お主を喰らいなどせぬわ。我が舌は高貴に出来ておる。人間ごろの下卑た脂の味は好かぬでな」
少年は恐怖と怯えで発狂しかけながらも、自制して問いかけの言葉を発した。
「お、お前は、何者だ」
「何者とな? ふむ。ではお主こそ何者だ、なにやら人間の中でも懐かしい血筋の匂いがするのお」
少年は言葉に詰まる。何者? と相手に問うておきながら、自分が何者かと問われると返答に窮すことを自覚した。
「さて、逃げたあやつらも食しておこう。次に生粋の魔族を狩れるのも、何時になることやら分からんからな」
そう囁くと、化け物は疾風のように森の奥へと魔物たちを追っていった。
森の奥からおぞましい絶叫が一つ鳴り、途絶えた。そして木霊のように修道士の声が少年兵に届く。
「少年よ、我は400年前に死んだとされる魔女シャーロットの成れの果ての姿。国に帰りて民に伝えよ。この森に我が呪いが続く限り、魔族は再び舞い戻るとな。さすればうぬが讐も叶い、民草に広がった恐怖が呪いの力をいや増し、我が贄を引き寄せる。クヒャヒッヒャ……」
*
五日後。
少年兵は血と泥に汚れた顔で国都にたどり着いた。狂気に取り付かれながらも、使命を放棄することに抗い、王宮の内外にてその出来事を懸命に触れてまわった。だが、誰一人として素直に耳を傾けてくれるものなどいなかった。賄賂と政治的立ち回りにしか興味のない国都の宮廷書記官たちは、この辺境の事件を盗賊との戦闘による部隊の壊滅として処理し上奏した。
国王の返答は、この事件をこれ以上追求しないことであり、聖教会も表向きは無関心だった。
その後、少年は戦場へ行った。
シャーロットの魔族の噂を語るものは、もういない。