悲しみに言葉を【文学】
今、この街で、僕は、孤独を、生きている。
目覚ましが鳴り、ベルを止めて起き出すと、ぼんやりした頭のまま、洗面台で歯を磨く。
顔を洗って、台所に行き、食パンをつまむと、口にくわえたまま冷蔵庫のとびらを開き、1リットルの牛乳パックを取り出す。横着に、立ったまま朝食を取りながらカーテンを開け放つと、早朝の薄明るい空は晴れ上がっていた。窓を開けて、朝の空気を取り込む。しかし春先といっても、まだ薄ら寒い。おだやかなれど冷たい風がほおを撫でる。
僕は、朝のかたづけを終えると、学生服に着替えて家を出た。母の部屋は静まったままだ。昨日の帰りも遅かった。まだ、眠っているのだろう。
通学路、影のようにうつむき加減で歩く僕に、誰も気付こうとしない。
はしゃぎながら行きかう小学生たち、登校途中に友達と出会い、世間話をはじめる同級生達。社交的なあいさつを交し合う近所の大人たち。中学の灰色の正門の前に立つジャージ姿の体育教師。
僕は下足箱から、薄汚れた上履きを取り出し、リノリウムの床に落とした。その音は僕の中でゴングのように響き、これからの僕の、圧倒的な他人の中での一日のはじまりを告げる。
教室に飛び交うおしゃべりや、文科省の指針に沿って、はみださない教師の論説を耳に通り抜けさせながら、これから巻き起こる暴力、いや、すでに始まっている。無邪気な圧力のことを考えながら、重たく、鈍い時間を、窓際のあの席で、過ごすことになる。
正直…… 苦しい。
そして帰り道。高架の中を歩いていると、ちょうど真上を列車が通る。つんざくようなその響きは、殴られたわき腹の痛みを助長する。
制服には乱れはない。あいつらも手馴れたもので、熟練の調理師のように僕の身の必要な部分だけをそぎ落とし、水槽に帰し、僕を泳がせる。
プライドも心も、あいつらは自分にしか興味がない。ただの八つ当たりだ。
でも、それでもまだ救われる。本当に怖いのは、弱っている人の心にストローを突き刺し、チューチュー吸い上げていくことを生業にしている連中だ。
「腐り掛けが一番、旨いのだ」と……
昨日、父から手紙が届いた。日付はずいぶん前だ。検閲済みのハンコが押してある。
「今日の夕方。太陽柱の夕陽を見た。今年の網走の冬は、過ごし易い。夕陽を見ながら思う…… 一番悲しいのは私じゃない、と。」
僕は、暗く静まった家の鍵を開けて、ドアノブをまわした。母親はすでに仕事に出かけていて靴はない。僕はその足で、二階にあがってベランダにのぼり、今朝干した洗濯物を取り込む。ベランダの桟からは隣町の団地群の隙間から、光が弱った薄い夕陽が雲間に隠れていくのが見えた。
僕は乾いたバスタオルを折りたたみながら、ふいに泣きたくなる衝動を押さえた。
僕だって考える。
何も言わないし、誰にも助けを求めない。
が、考える。
僕は、この街で生きている。きっと孤独だ。
でも苦しいが、悲しくはない。
多分…… きっと。