トムソーヤと いた夏 【ジュブナイル】
トムソーヤにあこがれていた、君といたあの夏。
その、どこまでも高く、つき抜けていくようなスカイブルーの青い空。ここにある風景を、あんな気持ちで見上げることは、もう二度とないことなんだと思い知ったとき。気が付けば一人、同じようでもあまりに違う、晴れ上がった夏の空を見上げ。しゃくり上げるように涙をぽろぽろこぼしてた。
あの夏、あの人は透き通るように少年だった。
そして、あのときの私といえば……
このありふれた田舎の小学校のプールサイドで、揺らめく波間の反射光に照らされて…… あまりに少女過ぎた。
「マコトくん……私は、……私は」
……ハックルベリー・フィンにはなれなかったよ。
*
これは、小学校6年生の時の話です。当時の私は、とある海に近い田舎町に暮らしていました。自然に囲まれてていいね。と、人は言うかもしれません。でも、周りにあるのは海と砂浜と田んぼと山ばかり。交通の便が悪く、世間に隔絶されたようなその町には、人に伝えて印象付けらるようなものなんて、本当に何ひとつ存在してなかったのです。
そんな田舎町に、一人の男の子が転校してきました。色白で綺麗な顔立ちをした男のコでした。
「な~にあの子。なんだか、ひ弱そうね」
「転校生でしょ?」
「足細ーい」
「でも可愛い顔立ちしてない?」
「ほんとだ! ジャニーズみたい」
「てか王子?」
「あは、言えてる」
若葉萌える五月の半ば、母親に連れられたその子の姿を登校途中に見かけ、私達女子グループはそんな噂話をしました。
実は私は、その子が転校してくることを知っていました。いいえ、正確に言えば、知らされていました。私の母から。
母は地元の療養所の看護士で、その療養所に通うため、私と同い年の男の子が都会から引っ越してくることを私に告げました。
「いい? 真琴。病気とはいえ大人の都合で子供がいきなりこんな田舎町に連れてこられて何もわからなくて不安なの。少々のことは目をつぶって、親切にしてあげるのよ」
そのとき私は、お風呂上りで、バスタオルで髪の水気を取りながら、冷蔵庫をあけて牛乳を飲もうとしていたときで、
台所で洗い物をしていた母には生返事しか返しませんでした。
それにしても、今まで周りにいた、純朴で無骨なデリカシーのない田舎の男の子達を見慣れた私には、その子の姿はどこか不思議な、まるで未知の生き物を見ているような感じがしました。あまりにも現実離れした存在とでもいうのか……。
少年の名は、綾島マコトくん。余談ですが私の下の名前もまこと(真琴)という名でしたので、彼が転校して来た日から、彼が去った日まで、男子からも女子からも、そのことで時折からかわれました。
マコトくんは心臓に持病を抱えていました。知人の紹介で、この田舎町に母親と二人で療養にやってきたそうです。半年後には都会に戻るとも言ってました。
当時の私達には考えも及びませんでしたが、普通都会からやってくる子供は、田舎町を変に見下していてプライドが高く、なかなか田舎のコミュニティーに馴染みにくいものなのだそうです。でも、彼に限ってはそんな部分は微塵もありませんでした。色黒な男子達に混じって気さくに笑い話をしたり、いたずらに参加したりしていました。ただし、病気のせいで激しい運動は出来ませんでした。だから、体育や水泳の時間は教室で本を読んで過ごしていました。
ある日の水泳の時間、私は水着に着替えてプールに入る瞬間唐突に、いわゆるアレが始まって、先生にその旨を告げて教室まで生理用品を取りに戻りました。教室では窓際の席でマコトくんが本を読んでいました。プールから慌てて戻ってきた私を驚くような表情をして。
「どうしたの?」
って声をかけてきました。
私は本当のことも言えず
「少し具合が悪くなって、先生が休んでいいよって……」
なんて感じで、お茶を濁しました。
「保健室連れてってあげようか?」
なんて聞かれました。その表情は、心底親切で、マコトくんは何もわかっていないようで、少しホッとしました。私は、服を持ってトイレに向かい、着替えた後また教室に戻りました。
薬を飲んで元気になったと言った私に
「こっちの席に座ったほうがいいよ、風が涼しくて気持ちいいから」
とマコトくんは窓際の席まで誘ってくれました。そして体育の授業が終わるまでの少しの間、二人でおしゃべりしました。
「何の本読んでるの?」
私は普段から何となく気になってたことを聞いてみました。
「ん? トムソーヤの冒険」
「ああ、聞いたことあるねそれ」
いつもマコトくんは男の子達が外で遊んでる休憩時間、教室の窓際の席で一人ぼっちで本を読んでいました。この田舎町を檻のように囲む山々。そこから打ち落とされるように吹きつける涼やかな風が、教室の白く薄いカーテンを揺らして、そのときのマコト君の横顔は、病的なまでに美しかった。
「それって、どんな話?」
「ちょっぴり元気で好奇心の強い普通の男の子の話だよ。昔のアメリカの田舎町、ミシシッピィー川のほとりの小さな町で暮らす少年が冒険をしたり、周りの人達と騒動を起こしたりする話さ」
「ふうん。いつもそれ読んでるの?」
「そうだね、本は何冊か持ってきたけど、この町に来てからは不思議と、こればっかり読んでる」
そう言って彼は軽く笑った。
マコトくんは、優しいコでした。みんなと気さくに話もするし、人を建てるのが上手いというか、当時は気付かなかったのですが、処世術に長けていました。人を不快にさせるような行動や会話をすることはありませんでした。けっしてでしゃばったりしませんし、引きこもったり人をきょぜつすることもありません。とても、上手にこの田舎の子供達の作るコミュニティーに溶け込んでいました。
「ねえ、本を読むのって楽しい?」
私は自然と質問が浮かび上がってきて尋ねていました。男の子相手に、構えたりしなかったのが、今思えば不思議です。
「俺、持病があるから皆と運動できないんだ。本当は皆と遊べたら楽しいんだけどね。だからかな、この本読むとこの町で皆と遊びまわってる気分になれるんだ。もちろんまことちゃんともね」
そこまで言わせて、私はバカだ。知っていたのに。と思いました。
「……そっか、ゴメン」
落ち込む私をよそに、マコトはその秀麗な顔立ちに優しい微笑を浮かべて言いいます。
「いいんだ。本を読んでる振りをしてるけど、ここから皆が校庭で遊んでたり、プールで泳いでたりするのを眺めてるのは楽しいよ」
「へえ~」
「まことちゃんって泳ぐの上手だよね」
そう言えば、そこからは校庭の向こうにプールも見えました。
「え? そう?」
「いつも、みんなが運動してるの見てるからかな。綺麗なフォームで泳いでいるのは誰だろうってすぐ目で追っちゃうんだ」
「そ、そんなことないよ、それにプールはココから遠いじゃない。見間違いだよ」
私は顔を真っ赤にして否定しました。
「ううん。そんなことないよ。俺まことちゃんが泳いでるのすぐわかるもの。今日だってうちのクラスの輪の中にまことちゃんがいないのすぐわかったし。俺まことちゃんの泳ぎ方……好きだな。」
……好きだな。男の子に、そんなこと面と向かって言われたのは、はじめてで。私は顔が真っ赤になりました。もちろん変な意味じゃないことはわかっているのだけど。
「そ、そう。でも女子は、もう体力じゃ男子に適わないし、みんな休憩時間も男子みたいに外を走り回ったりするより木陰でおしゃべりしてる方がいいんだって。だから私今度の水泳大会も出るのやめようかと……」
私の町の小学校では、夏の間、県の大会に出る代表を決めて練習をします。私も選ばれてはいたのですが……。
「そうなんだ、……残念だね」
そう呟いたマコトくんは心底ガッカリした面持ちでした。
小学校五、六年という時期は、女子にとって、男子より先に大人への階段を二歩も三歩も進んでいった時期かも知れないです。そして男子達は、いまだ夢中になって夏の太陽の下を、犬のように駆け巡ってる。
男子と女子の間には、その頃からひょっこりと大きな透き間が出来るものなのかもしれません。そして、マコトくんはその空白地帯にあらわれた、異質な存在だったのかもしれません。男の子だけど皆とは遊べず。かといって女の子の中に取り込むには異性ということを意識し始めた田舎娘の私達には難しかったのです。
男子からも女子からもそんな透き間を、暗示させる存在。それでもマコトくんはうまく立ち回っていました。相変わらず男子のバカ騒ぎに付き合い、女子に気配りを見せながら静かに涼やかに窓際で本のページを繰る。ときおりやさしい言葉を一言二言かけて、決して無視してないことをそっと伝えながら。
そんな風にして日々が過ぎ、夏休みが始まりました。私は結局、辞退出来ずに、水泳大会の練習のため、毎日学校のプールに通っていました。県の大会は盆を過ぎた夏休みの終わりの方です。プールで泳ぎながら、ときどき校舎の教室の窓に目をやり、いるはずもないのにマコト君が微笑んでいるような気もしてました。
そのほかの時間は私は女友達何人かと毎日渓流の木陰で涼んだり、農作業をしているおじいさんの所へ言ってみたり、友達の家でクーラの聞いた部屋でだらけて過ごして見たり、そんな風に友達とおしゃべりをして過ごしました。
誰それが東京のお土産に何々をもらったとか。幾つかの駅を隔てた街にあるおシャレな食べ物屋さんのことだとか。列車を乗り継いだ都会にあるヘアーサロンで、髪の毛を切ってもらった子の話だとか。テレビドラマの話。芸能人のゴシップ。恋の話もチラホラ、もちろんほとんどは誰かのお姉さんや、知り合いの話で、ときには片思いの男の子の話をする子もいるにはいるけど……
でも、話のスケールは違っても話の内容に大差はない気がするんですよね。いくつだろうと、そういう話が好きなんですよ。女の子は。
そして、ふと夕暮れの田んぼのあぜ道を一人歩く帰り道。
森深くのヒグラシの涼やかな鳴き声が聴こえてきて……。胸を切なくもしました。
そんなとき決まって私は、そういえばマコトくんは、休みの間どう過ごしてるんだろう。なんてことを、考えたりしてたのです。
そんな風に夏休みの日々は流れ、そして、お祭りの日がやってきました。小さな田舎町ではそんな些細なイベントも町民総出の一大行事です。
私は、同い年で別のクラスの仲の良い女のコ達と、浴衣を着込んで祭り見物に出かけました。路地から表通りへ出ると、街角の家々の軒先に提灯が連なるようにぶらさがっています。昼間、あれほどけたたましかったセミの鳴き声も、陽が地平の山並みに没すると、さすがになりを潜め、夕闇は集落を包みこみ、神社に続く参道には打ち水がかけられて、残暑に蒸された泥臭い熱気が、行き交う人々の間を漂い、そこをハッピ姿の男の人達が水しぶきを上げて、いなせに駆け回ります。
道すがら、遠くから微かに聞こえていた笛の音や、太鼓のお囃子は、神社に近づくにつれ、だんだんとはっきりとした祭囃子の合奏となって聴こえだし、その間も私達を追い抜くように神輿や山車が続々と境内へと運びこまれ、そこかしこから町の人々が集まり、喧騒と笑い声がそこで響いています。まさに今日はこの場所が、街の中心です。
その参道には露店が所狭しと立ち並び、発電機の音と、客引きの掛け声、派手派手しい看板やテントがランプに照らされて、宵闇に沈んだ鎮守の森を活気付いた色合いで妖しく輝かせます。私が近所の女の子グループとはしゃぎまわりながら、そんな不思議な情緒をかもし出す夜店を次々見物していると、その道の途中でマコトくんと出会いました。マコトくんは母親と二人で祭り見物をしていたらしく、私の姿を見つけると笑顔で手を振ってきます。私は、少し気恥ずかしかったのですが、ご近所友達を待たせてあいさつをしに行きました。
「こんばんは」
「あら、こんばんは、マコトのお友達?」
「はい」
「まことちゃんだよ」
「へえ~、この子が。なかなかかわいい子じゃない」
「何いってんだよ! ごめんネまことちゃん」
「あら、いいじゃない。かわいい子にかわいいっていって何が悪いの?」
「恥ずかしいじゃないか。まことちゃん困ってるよ」
「そう? まことちゃんおばさん恥ずかしいこと言ってる?」
「いえ、大丈夫です」
「ほらごらんなさい。女同士にしかワカラナイのよ。ねえまことちゃん」
「は、はあ」
「まことちゃんお友達と来てるの?」
「ええ、まあ」
「そっか…… 大事な用でもあるの」と、マコトくんのお母さんは言いました「例えば、好きな男の子と待ち合わせしてるとか?」
「……そんな人、いません」
「じゃあよかった。ねえ、お願いまことちゃん、私これから用事があるのよ、でもこの町の折角のお祭りだし、祭りが終わるまでこの子とデートしてやってくれないかな」
「母さん!」
さすがにマコトくんも赤くなって母親に抗議しました。
「いいじゃないの、この町の思い出に、ねえまことちゃん」
言葉と表情は優しいのですが、瞳の奥に有無を言わさぬ威圧感があったので私は思わず頷くことしか出来ませんでした。
それで、私とマコトくんはそれぞれ母親と友達から別れて、二人で祭りを見物することになりました。
祭りに参加していた同じクラスの男子達も、人垣から私とマコトくんが二人でいるのを見つけるとこっちを指差してちらちら見たり、囃し立てられたりもしました。
でも、マコトくんはそんな揶揄には少しも動じなくて、時折彼らに手を振り返したりしました。この辺は、さすがに都会っ子だなという感じでした。私も、あんまりびくびくしている方が逆にかっこ悪く感じれたので、見下されないように堂々と振舞うようにしました。
「あ! まことちゃん、獅子舞が始まるよ」
マコトくんと私は、祭りでにぎわう人ゴミを掻き分けて、境内に向かいました。昭和の古い面影を色濃く残す社の境内では、神殿の奥の扉が開かれ木彫りの御神体を拝ませます。そして、奉納の子供獅子舞が始まりました。
赤と金に塗られた獅子頭が三匹、宵闇の中で妖しく浮かび上がり、生きてるかのように歯をカチカチと鳴らせながら、身をくねらせて舞い踊ります。その周りをハッピ姿の男の子たちが、時に獅子を恐れるように、時に獅子をからかうように、かがり火の炊かれた境内を右に左に跳ね踊ります。
三匹の獅子のうち二匹が地に伏せ、舞の最後は一匹の獅子が月に向かって咆哮を上げました。見物客から拍手が起こります。それは、とても見事な舞踊でした。
同級生の男の子たちの獅子舞い演技が終わり、私達は夜店見物に出かけることにしました。
参道には所せましと屋台が立ち並んでいます。それはもちろん、古式ゆかしい昭和なテキ屋の風情で、粉モノを焼いてるコワモテのおじさんが、順番待ちの出来ない子供相手に、容赦なくダメ出しのダミ声をあげ、おばちゃんがくわえタバコで輪投げの店番をし、若いお兄さんが額に汗を垂らせながら、焼きソバを、両手に持った二つのコテで、中空まで麺を振り躍らせ、ジュッという音とともに焦げたソースの香りを辺りに漂わせて焼いたりしています。他にも金魚すくい、射的、焼きトウモロコシ、たい焼き、ヨーヨー釣り、リンゴ飴、かき氷、ラムネやコーラ……。そして、祭り見物の大人達の隙間を浴衣姿の幼子達がはしゃぎながら追いかけっこしています。
「まことちゃん。ヨーヨー釣りしようか?」
とマコトくんが言いました。
「いいよ。こう見えても私、得意なんだから」
「じゃ、競争しようか?」
「いいよ、何か掛ける?」
「じゃあ、負けた方があそこに売ってあるお面の、どれか変な奴を祭りの間かぶり続けるってどう?」
「よし! 決まり」
どうやらマコトくんは、ヨーヨー釣りをするのは、はじめてのようでした。持病のため普段は、夏の今でも、長袖のダブついたシャツを着込んでいるのですが、ヨーヨーを吊り上げたその瞬間。その袖先から、真っ白な手の甲の4本の筋と青い静脈をチラリと覗かせました。その、ぎこちなくも優雅な手つきの細い指先が、赤いのと水色の水ヨーヨーと、2つも吊り上げて、初めてにしてはなかなか健闘しました。とはいえ、幼い頃から毎年鍛え上げた私の腕には敵いません。私は透明なのから桃色オレンジ……合計七個吊り上げたところで、わざと紐を水にたらして千切れさせました。
「まことちゃん。強いなあ」
「エヘへ…… まあ、ざっとこんなもんよ」
気が付けば、いつのまにかまた私は、自然にマコトくんと話をしていました。
その後私達は、お面屋さんの屋台の前まで行きました。
「どれにしようかな?」
私は罰ゲームのお面を選びます。
「あまり変なのはやだよ!」
マコトくんは懇願します。
「でも、それじゃあ、面白くないじゃん」
とはいえ、どれでも同じに見えました。
「アレにしよう。おじさんアレ頂戴!」
そのあとマコトくんは、ずっとキティーちゃんのお面を頭の上に被って祭り見物をし、ときどき小さな子供に指を指されて笑われたりしました。
私達はそれからも屋台を見周り、射的をしたり、綿菓子を買ったり、型抜きで遊んだり、焼きソバを食べたりしました。
そして神輿の奉納も終わって、今まで祭りの主役だった人達が仕事を終え、どっと参道の屋台に集まってきたところで、私達は一休みしに境内に入り縁側の廊下に座りました。
私達はそこから、露店に群がり祭りを楽しむ人々を、遠巻きに眺めました。
「ふ~っ 面白かったね」
そう言ってマコトくんは買ってきた二本のラムネを私に一つ手渡すと、自分の分は一気に飲み干しました。首を上げたマコトくんの、のど元は少し汗ばんでいて、ラムネがのどを通り過ぎる度のど仏がゴクゴクと収縮し、遠くの光に照らされて産毛が白く輝いていました。そして飲み干した後、少しむせ返りながら、私の方を振り向くと、真っ直ぐな眼差しで、さっきまでの屋台の感動を、矢継ぎ早に話し続けます。
「うん。でも……体、大丈夫?」
私は、マコトくんの体のことが心配になり尋ねました。一瞬、刻が止まり、マコトくんの表情が一変しました。
「自分のことはわかってるよ。そんな目で見ないでよ」
切れ長の目を更に吊り上げて、マコトくんは叫びました。私は驚き、そして気付きました。いつの間にか私はマコトくんのことを上からの目線で見ていました。私は無言でうつむきました。
そんな私を見て、マコトくんは態度を変えて謝ります。
「ごめん、まことちゃん。大きな声を上げるつもりじゃなかったんだ。ただ……」
私は、小さくなって消え入りそうなマコトくんの言葉を遮って言いました。
「ごめん!」
二人の間に沈黙が訪れました。
祭りも終盤に差し掛かり、ラムネを飲みながら境内で休んでいると、近くにいた人たちからざわめきがして「花火が始まるぞ!」と声が聞こえてきました。
近くの河原から、花火が打ち上げられるのです。人々はぞろぞろと移動し始めましたが、何人かは残っています。この境内からも、花火は良く見えるのです。
「どうしよっか?」
私は、マコトくんに尋ねました。このままココに留まるのか、それとも、河原近くまで行って花火見物するのか? と言う意味で聞いたのですが、マコトくんは、それとはまったく別の答を出しました。
「学校のプールに行こうよ!」
確かに、そこからも花火は見えないこともありませんが、ここより遠く離れます。それに、そんなところから花火を見る人なんて多分、誰もいません。でも、マコトくんは私の返事も聞かず、浴衣姿で歩きにくい私の手を取って、ぐいぐい引っ張って行きます。
男の子に手を握られて、引っ張っていかれるのは、はじめての体験でした。夏だというのに、その手の平はひんやりと少し冷たく、そして、しっとりとしていて……
歩行のリズムの加減で、時折私の肌に触れる彼のシャツの袖先が、少しくすぐったくもありました。
そのまま私達は小学校のプールに忍び込みました。夜のプールサイドは薄暗く、時折上がる花火に照らされます。水面は目が慣れるまで良く見えなくて、月明かりに反射した光が波間を揺れていました。
マコトくんと私は、金網に背中をもたれかけて、首を上げ、そんな風に二人で、次々と打ち上げられていく花火を眺めました。夜空の暗幕を、轟音で打ち鳴らしながら弾け、輝き落ちてゆく火花はとても美しく、私はマコトくんと二人で見た、この光景を一生忘れないだろうと頭の隅で感じていました。
「トムソーヤにはハックルベリーって親友がいるんだ」唐突にマコトくんが口火を切りました。そして話続けます「まことちゃんは僕のハックルベリーだ」
「それ、褒め言葉じゃないよ?」
私は笑って答えます。
「……なんで? ハックルベリーはすごいんだよ。本当の自由を手にしてるんだ。本当の自由。誰にも頼れない不安の中で、誰にも頼らない強さを持っているんだ。だからハックルベリーは僕の最高の勲章さ! まことちゃんはハックルベリーだよ。おかしい?」
そのとき私が、きちんと答えていれば、マコトくんはあんなことはしなかったのかもしれません。でも、私の口から出た言葉は
「きれい……」
そのとき、唐突に夜空で花火の連弾が始まりって、私は思わずマコトくんの話から逸れ、そんな言葉を呟きました。それは、今までのどの花火よりも頭上高くのぼり、空を覆い尽くすようなシャワーとなって弾け流れ、迫ってくるかのように幾筋も幾筋も降り注いできました。
「……ありがとう」
マコトくんは確かにそう言ったような気がします。今にして思えばですが。
そのときの私は眼前に広がる、夜空の暗幕に火花が作り上げた光景に夢中で、聞き流していました。
花火が終わってプールサイドに静寂が訪れると、突然マコトくんが言い放ちます。
「オレ、本当は泳げるんだ。まことちゃん見ててよ!」
「え? ちょ……」
そう言うとマコトくんはスルスルと服を脱ぎ捨て、パンツ一枚でプールに飛び込みます。
「えー、やめなよ」
あまり叫ぶと、大人に見つかって叱られると思い、私は大声にならないよう声を低くして必死に叫びました。でもマコトくんは無邪気そうに「マコトちゃん見ててよ!」と叫ぶと、クロールでプールを縦に横切り泳ぎはじめます。それは、月明かりの下、とても静かに。とても美しい波をたてながら。真っ黒な水面から覗く、水に濡れて滑ったマコトくんの、白い裸身は本当にきれいでした。プールサイドの冷たいコンクリートの上に、マコトくんの衣服とキティーちゃんのお面が脱ぎ散らかされて、淋しげに取り残されていました。そして、マコト君がそんな風に泳いでいる間、私の胸は不安で突き動かされ続けたのです。
結局マコトくんは往復50メートルを泳ぎきり、飛び込み台の下で、水の中から立ち上がると「どうだったまことちゃん?」と聞いてきました。私は「大丈夫?」と言いかけた言葉をのどに押し込み。
「上手だったよ!」と答えました。それが聞こえたのかマコトくんは満足げに笑みを返し、そのままこっちへ戻ってこようとした刹那後ろ向きに倒れこみながら、暗い水面の中にその姿を消していったのです
それから後のことは、あまりはっきり覚えていません。
私は浴衣姿のままプールに飛び込みマコトくんを地上へ引き上げました。頬をニ三度はたいて、意識が戻ったのを確認するとマコトくんに服を羽織らせて、ずぶ濡れの浴衣のまま、マコトくんを背負って診療所へ向かって駆けだしました。私は走りながら泣いていました。マコトくんの体はあまりに軽く。このまま死んでしまうのではという不安で泣いていました。
「大丈夫。ごめんねマコトちゃん。少し無理しちゃった」
マコトくんがささやく声が、生暖かい息になって耳に当たりました。それでも、さっき水面から引き上げたときの、月明かりの下からでもはっきりわかる、血の通わなくなった紫の震える唇の映像が脳裏にこびりついていて、私はさらに泣きじゃくりながら先を急ぎました。
診療所にたどり着くと、私は乱れた呼吸のまま、必死に診療所のドアを叩き続けました。そのうち奥の明かりがついて、知り合いの看護婦さんが、玄関まで出てきてくれました。マコトくんは診察室に運びこまれ、私はずぶ濡れの青い浴衣から水滴を滴らせながら、薄暗い待合室に立ち尽くしました。
気が付けば時間が経っていて、待合室には明かりが灯っていて、私は白衣に着替えていたお母さんに、頭を小突かれていました。
「まこと、しっかりしんさい!」
私は我に帰り、さっきから隣に寄り添ってくれていたマコトくんのお母さんに気付き、何度も何度も謝りました。
「ゴメンナサイ! ゴメンナサイ! ゴメンナサイ!」
「いいのよ。こんなことは慣れっこだから大丈夫。それよりまことちゃんこそずぶ濡れじゃない、早く家に帰ってお風呂に入らないと、まことちゃんこそ心配だわ」
マコト君のお母さんは私の頬に手の平を差し出して支えてくれ、微笑んでくれました。それは、今夜の月明かりのように優しい優しい笑顔でした。でも、私の頬に触れた、その細くてすべらかな指先からは、微かな震えが伝わりました。
結局マコトくんは、命に別状はなかったのですが、そのまま風邪をこじらせて三日ほど入院しました。私は毎日お見舞いに行きました。家に戻ってからも、マコトくんの家まで何度か遊びに行き、色んな話をしました。
そして、夏休みも終わろうかと言う日曜日。県の小学生部門の水泳大会が開かれました。マコトくんは朝から、お母さんと一緒に応援にきて暮れました。私は見事決勝レースまで勝ち残り、結果県2位になりました。
夏休みが終わり、学校が始まってからも私達は積極的に仲良くなっていきました。友達に囃し立てられたりもしましたが、それは恋などと言う感情ではないと、私は自覚していました。なにしろマコトくんには、そんな気はないのです。
そして、
だからこそ……、
わたしはハックルベリーフィンになりたいと願ったのです。
秋が深まり、運動会や、遠足や、楽しい行事がありました。もちろんマコトくんは直接は参加は出来ませんでした。でも、観客席の中や先生の車の助手席から、私達に向かって楽しそうに声をかけてくれました。
11月の終わり、もう山々は綿帽子をかぶり、里にも雪が降ってこようかという冬の始まり。 マコトくんは予定よりはやくこの町を離れることになりました。
見送った駅のホーム。私は、泣かないことに決めていました。それで、マコトくんが窓から半身を乗り出して、手を振りながら去っていく列車に、こっちも笑顔で手を振り返し続けました。
ハックルベリーなら、きっとそうするだろうから。
*
その後、マコトくんとは何度か手紙のやり取りをしました。
クリスマスが来て、
年が明け、
雪がしんしんと降り積もり、
春の予感が、里に降り
春風が吹き、
サクラ舞い、
若葉が萌えて、
長雨の後、
また、夏が……
夏祭りの準備の喧騒が、再びこの町をつつむ頃。
その連絡は、静かに私の元にやってきました。
*
私は母とともに喪服に身を包んで、マコトくんの暮らした都会の街に列車と飛行機を乗り継いで、向かいました。葬祭場で、マコトくんのお母さんは、すでに泣き腫らし化粧のはげ落ちた、腫れぼったい顔をして、私の訪れを喜んで迎えてくれました。
「ごめんなさいね。秘密にしてて」
すでにマコトくんは、直る見込みのない病に冒されていて、私の町へは、治療のためではなく、田舎で生活してみたい願いをかなえるため、ただそのことのためだけに、やってきていたのです。
「本人には病状のことは伝えてなかったけど、なんだか薄々気付いていたみたいなの……」合併症になり、成功する確率の少ない手術に向かう前「……まことちゃんのことをしきりに気にしてたわ」
私は、泣きませんでした。マコトくんの葬儀が終わり、その夜泊まったホテルでも、帰りの飛行機の中でも、特急列車に乗り換えても……
次の日のお昼過ぎ、私は、ふるさとの町へ帰ってきました。母は仕事に出掛け、私は一人、町を散歩しました。いつもの私じゃなく、マコトくんの視点に立って町を眺めることにしました。
彼はこの町に何を求めていたんだろう。彼はこの町で何を手にしたんだろう。
最後に私は小学校へ行き、そのプールサイドに立ちました。お盆前の午後、学校の敷地内に人影はありませんでした。激しく照りつける陽光と、熱い足元のコンクリート。マリンブルーの水面は、おだやかに波を立て、水底に引かれた白い線を屈折させ、揺らしていました。
私は一年前のこの夏のことを思い返します。
そして、突然涙があふれました。それは止めどもなく流れ続ける涙の洪水と嗚咽の合唱でした。私は、押さえつけていた感情をコントロールできなくなり、ただただプールサイドに立ち尽くし、ずっとその場所で空を見上げたまま、目頭を拭うこともなく、両手をだらりと垂れさせて、バカみたいに泣きじゃくり続けたのです。
*
ハックルベリーになりたいと、心から願ったあの夏の、どこまでも高く、つき抜けていくようなスカイブルーの青い空。
ここにある風景を、あんな気持ちで見上げることは……、もう二度と、手に入れられないことなんだと思い知ったとき。気が付けば私は一人、同じようでもあまりに違う、晴れ上がった夏の空を見上げながら、しゃくり上げるように涙をぽろぽろこぼしてた。
あの夏、あの人は透き通るように少年でした。
そして今の私は、このありふれた田舎の小学校のプールサイドで、揺らめく波間の反射光に照らされている。
「マコトくん……私は、……私は」
……ハックルベリーには、なれないみたいだ。