想うこと、その憤り【文学】
一人暮らしも長く続くと、部屋に連れ込んだ女の子もそれなりの数にのぼる。
恥らうように顔を伏せ、指輪をくるくる回しだす子。天真爛漫にはしゃぎ、時折唇の渇きを湿らせる子。なれた顔つきで無関心を装い、肩に掛かる髪の毛先を整える子。本当に様々だ。
そこに至る言い訳にしても様々で、大まかに言うと僕をなじり続け、何かといたぶる台詞を続けるタイプと、逆にことあるごとに僕を褒めようとするタイプ。部屋に上がるまでずっと無言で押し黙っている子もいたし、なにも語らないけどニコニコと頷き、僕を見つめ続けていた子もいた。
それでも僕がある年齢を超えたときを境に、そんな性格の違う彼女たちが、何故か見せる共通の仕草に、不可思議な感慨を胸に抱くようになる。
冷蔵庫の扉を開いて、その薄ら灯りに照らされている横顔。自炊なんかめったにしない男の冷蔵庫の中身を覗いて調査し何に感心するのか、それとも何かを確信するのか。
「ほんとに彼女いないんだぁ?」なんて、のんきそうな声をかけてくる。
またか、と思いつつ鈍感な素振りをして見せると
「ねえ、これっていつから掃除していないの?」としつこくくり返す。
「冷蔵庫って掃除するんだ?」と、ジョークで切り返してみると。
「へ!」なんて、素っ頓狂な声をあげる。
「嘘だよ」と僕は言い「でも、一ヶ月くらいはしてないかも。使ってないから。彼女と別れると男はホントに料理ってしないね。そうそう、流しの下には、みりんが入れてあるよ」なんて付け加える。
「何それ?」
「魔除けなんだって、自炊しない男にみりん持たせとくのが。話の種に置いてたんだけど、面白くない?」
そう言うと、たいてい女の子は、「別れたの?」と聞いてくる。
「別れたよ。……とてもひどい別れ方でね。知ってる? 愛が消えた瞬間の女の涙。緑色に濁ってて、熟れ落ちた時のグミみたいな匂いがするんだ」
「ひどーい」
「だから、オレ、ひどい奴なんだって」
そんな会話を交わす僕の部屋を訪れた女の子たち。彼女たちがみせた冷蔵庫の中を覗き込み中身を調べるという行為は、僕に女の人のリアルな部分を喚起させる。
女性と冷蔵庫。それは男にとっての単なる機器、とはまるで違う結びつきがあるような気さえする。
リアル。それも説明しにくい言葉だ。
例えば恋愛にとって、結婚詐欺師はリアリティーであり、リアルはストーカー……、って何言い始めてんだろう。
とにかく僕がこれから語る話は、例えば冷蔵庫の中を物色している、初めて部屋に上がってきてくれた女の子に聞かせるように話さなきゃいけないっていう、決意のようなものを示しておきたかったんだ。表現というものは、どんなに意思を抑えてもリアルとリアリティーを切り離しては成り立たないと思う。SEXというものが内臓のような粘膜と、囁きのような微笑みを、切り離して果てることがないように……。
*
真夜中、冷蔵庫を開ける。そしてそのまま時を忘れる。そんな行為を日々くり返していた。
ワンルームマンションの玄関から部屋までの短い廊下。限られたスペースであるその廊下に収まる申し訳程度のシンクと、隙間に追いやられた小さな緑色の箱。低い唸りのコンプレッサー音。小さな扉を開けると、暗闇の中奇跡のようにこぼれ出す庫内灯。そして冷気。そういったものの前で、ぼんやりと、そして無意識に呼吸をくり返すことで、確かに僕は癒されていた。オレンジ懸かった光に照らされて、そこに屈み込んだ僕は、死者の手に愛でられているかのような冷気のもやに包み込まれていく。それは、誰も見てはいなかったけど、傍から見ると何かに許しを請うているようだったろう。事実、僕にとっては滑稽なくらいそうだったのだし。
ところで、小さな冷蔵庫の中身に話を移すと、そこには缶ビールや練りからしや房付きのにんにく……。と、貧相で従属的な品々が、がらんどうなオレンジ色の空間に申し訳程度に座していた。ただ、その中に混じって、アルミホイルで包んだ、手のひらに収まる程度の大きさの人骨が密かにしまってある。
その物体について幾人かの女の子や友人に質問されたことがある。が、答えは今まで曖昧にしていた。
大学二年になる春休み、恋人の訃報を告げられた僕は、故郷の海を持つ田舎町に飛行機で戻った。
彼女は片親で育った。彼女の気丈な母親はときにがさつに思えたが、根は親切で誠実であった。そして葬儀のあと大学に戻る僕に、そっと白い骨炭を贈ってくれた。
すべてが片付いた彼女の家は空白に満たされていた。それは晴れた日で、火葬場で燃えつきたあと、残された彼女の壊れた欠片。それを長い箸で拾い集めた時のことを話題にして、彼女の母はぼんやりと話し始めた。
「あの子のことを、憶えていてね」
それはまるで一人言のようだった。
僕は反射的に頷くばかりで彼女の母親にうまく返答することができないでいた。
「なにしろ、あんた達はとても仲が良かった。結局、あの犬がいなくなるまで毎日あの子の散歩の相手をしていたしね」
そう話すと彼女の母親は窓の外の青空に顔を向ける。僕は視点の定まらぬ自分の思考をごまかすように部屋の畳の目を数えていた。
「で、あたしが間違っていたのかなぁ……。あの子はやさしい子だから、あたしには何一つわがままなんて言ったことがないから」
声を詰まらせて身動きしないまま、化粧の剥げ落ちたおばさんの頬を涙がつぅと流れた。
「声の出せないあの子がいわれのない暴力を影で受けていた。思い返すだけで身を切られるよ。現実問題あたしがあの娘を守らなきゃ……。あの子はあの子自身を守れなかった……。最後は悲鳴も上げられないままトラックにつぶされた……。あの崩れた小さな頭蓋骨。……何でだろう?」
葬儀のあと僕は一人で浜辺に立った。
春。とてもたおやかな海。
水平線の遥か向こうで見えない雨が海面をやさしく叩いていた。
親子二人で生きていく。そんなささやかな暮らしのためにおばさんの喉は、夜の街で酔っぱらった男たちを慰め、濁った酒を流し込み、乾いた笑い声を立て続けた。
そこから絞り出された嗄れた声は、悲しみ、という一言の意味を、不謹慎だけど、言葉にできないほど味わい深い崇高さで、実感のもてない他人事のような装いに変えていた。
そんな風にして、僕は昔つき合っていた少女の骨炭を手に入れ、冷蔵庫にしまい込み、時折それを取り出しては眺める、そういった生活に身を染めた。
それはまじないであり、御守りであり、儀式だった。右足から靴を履いたり、毎日通う駅の階段を一段一段数えながら上ったり、そんなことと何ら変わりはない。耳を澄ませば田園都市線のホーム案内まで聞こえる。誰だって。
想うこと、その憤り。
よく冷えたミネラルウォーターをロックグラスに五分目ほど注ぐ。少し力を加えると壊れてしまいそうな白い骨を、そこに浸し、指先でくるくると回す。そしてグラスに唇を当てて大きく開き、舌の上に乗せるようにそれを優しく口腔内に含む。その時、思い描くイメージ。
それは曇り空の静かな海。水と砂と大気が柔らかくくり返す揺らぎ。僕たちがいた場所。ハルは砂浜に腰をおろし、永遠に穏やかな水平線を見つめている。小麦色の肌は、運動好きでもないから遺伝なのだろう。整った作りの瓜実顔で、黒目がちの瞳と細く尖った鼻梁は、笑っても少し泣いているような哀しさが漂っていた。たしかに、目立った目鼻立ちではないけれど、おくゆかしいような、今思うと美しい顔だった。
そして彼女は言葉を話せなかった。
口の中に残るざらつき、そして味覚としての苦味、その固形物の表面が粉として削られ、冷たい水と絡み、僕の体内へと消えてゆく。そしてそれはいつかそのすべてが無くなってしまうという確信。
公平に見て、僕は変態的な資質をもつ人間といえる。それは僕が生きていく上で身に付けたものかもしれないし、先天的に持つ低体温のせいなのかもしれない。僕が人を恋しく思う領域は、同時代に住む人々と緯度や経度は変わらなくても、深度が違うのかもしれない。日の光の当たらない深海でしか僕は人を愛せない、心の闇を共有することでしか僕は他人を認知し共感することがない。
あるいは同じ島国であっても僕は高山植物かもしれない。さらに標高三千メートルを超える岩肌に漂着してしまった、ありふれた雑草かもしれない。どこにもたどり着けないままそこで呼吸をくり返し、強風に身をさらしながら根を張り続けるしかない。
それは悲しい憤りの中でしか見出せない感性だった。
二人の間にルールがあった。理由を探さないこと。この世に存在する、常識、通念、当たり前のこと、人が属している社会という組織での尺度。声のないこの世界ではそんなものさしで計らないこと。
ハルの隣に座って、霞んだ水平線を眺めると不思議と心が落ち着く。思考はぼんやりしてるのに手を置いた浜辺の砂粒の一粒一粒、顔に当たる風の微かな渦までをも知覚できた。轟火の中でハルの身体は炙られ、溶け出した。あるものは消え、あるものは残った。あの頃の対話によって生み出された物語が、一滴ごとに作られていく鍾乳石のように、あの場所にあったんだと自覚した。
僕は隣にいただけだった。彼女は軽く微笑んだだけだった。まとわりつく風になびく柔らかく長い髪。それがすべてで、何も残らない。
十三歳にして出会った相手が、その後の人生全てを支配することもあるなんて思い付きもしなかった。
だから当時は自分の気持ちを、一目ぼれとか初恋とかいう常套句で認識していた。ただその春は、不思議と奇跡に満ちあふれた春ではあった。学校の帰り、海岸沿いの道を歩いていると、彼女を見つけた。
彼女が最近、家の近くに越してきていたことは知っていた。彼女の声帯が不自由だということも知っていた。彼女がバスで隣の市のろう学校に通っていることも知っていて、犬の散歩のために、夕方になると砂浜にやってくることにも気付いていた。
その犬は、砂浜では鎖から解かれていた。当時はまだ小犬で人を襲うような心配は全くなかったし、それ以降も誰も咎めやしなかった……。ただ一度だけを除いて。
海岸沿いの通りを歩く僕に、小犬がじゃれ掛かってきた。そのままだと車に引かれそうになると心配して、僕は海へ降りる階段に腰をかけ、小犬がジーンズの裾にまとわりつくままにした。彼女は離れた浜辺に座っていた。僕は犬をあやしながら彼女を眺めた。しばらく時が流れ僕は彼女に見惚れていることに気がついた。そして同時に彼女も僕を見つめ続けていることに……、僕は階段から腰を上げ彼女の犬を連れて、彼女に近づいた。
「名前は何て言うの、君の犬だよね?」
彼女は前に立ち止まった僕を上目使いで少しうかがうように見て、手話のような手振りで答えようとした。僕はすぐに手話がわからないことを告げた。彼女は困った顔をしたあと、砂浜にカタカナで「ハル」と書いた。
「ハ・ル。か、いい名前だね」
僕はそれを犬の名前だと勘違いした。
それでしばらく犬をハルと呼んで褒めたりじゃれたりしていた。彼女はそれを見てただ笑っていた。彼女は僕の間違いに気づいたが、手話の通じぬ僕に伝える術もなく、おかしかったのでそのままにしておいた。と後に語った。
その日陽が暮れて彼女を家に送り届けたとき、その間違いを彼女の母親に指摘され、僕は恥ずかしさで耳が熱くなった。そのときもハルは僕を笑った。
そのようにして、僕たちは仲良くなった。
学校が終わった夕暮れや休日の午後は、一緒に砂浜を散歩した。
海岸沿いを延々と歩いて、同じ景色が見える違う場所で長々と座り込んだ。時に灯台や松林を探索したり岩場を冒険したりもした。お互いの意思を伝え合うため、僕はその場所でハルから手話を習った。
その浜辺は声のない世界だった。
そこにあるのは穏やかな潮騒の織り成すうねりや松葉が微かに擦れる音。でも僕たちの耳は日差しの醸し出す波長や砂粒のざわめき、そして犬の呼吸とお互いの表情までをも正確に聴き取れていた気がする。
子供の頃、毎日毎日飽きることもなくその浜辺に通った。高校進学、大学受験と周りの友人たちの顔ぶれや、自分自身の置かれている状況が変わっても、ハルとの海辺の散歩はまったく変わらなかった。心が大人になっていくのも、足並み揃えて一緒にだったのかもしれない。
高校生になる春休み、初めてキスをしたのもその砂浜でだった。
僕らは不思議と言葉を、手話で伝え合うことさえ、なくなっていった。ときおり心の底を紡ぎ出すように、会話にならない、言語でさえもない不思議な比喩を呟き、受け入れあった。
僕はそれを理解していたか?……多分イエス。
じゃあ、それを人に説明できるか?……後ろめたいノー。
同じ共通の経験をもつ人間に、パスワードとしての観念的な飾り言葉を付与し、その深層心理を揺らして、表面的な感情に微細な影響を与えることは可能かもしれない。でも報われることはない。完全なる徒労だ。
彼女はおとなしく、繊細で注意深いものの考え方をする人で、感情を抑制し伝えるべきことだけを外部に伝え、接した物事の大部分を自分の内側で処理していた。
本当に大切なことは誰かに伝えることはできない。
彼女が教えてくれた一つの言葉。ハルの通っていたろう学校の先生から学んだという言葉。
会話を終えると、ハルはいつも通りの一連の動作で砂浜から腰を上げ、表情で誘うように犬を呼び寄せ、犬も素直に従った。僕らは毎日二人と一匹で散歩した。犬はハルの両親が離婚してすぐの頃、八歳のときに拾ってきたもので、それ以前の飼い主か誰かに喉を手術されていたようで鳴き声をたてることはなかった。そしてハルの喉も一切の音が出せなかったから、彼女が声に出してその犬を呼ぶことはなく、結局ハルが十六才の春にその犬と別れることになるまで、その犬に名前が与えられることはなかった。
ある夏の日。
窓の外では無言のまま、水玉模様のガラスの風鈴が、まぶしい夏の日差しに照り付けられていた。じりじりと焼けるアスファルトと大気を眩ませて浮き上がる陽炎。カーテンを閉め切った、薄暗がりの部屋の中の、効きすぎたクーラーのモーター音。
はじめて二人が裸になった日。僕の部屋の白いシーツの中で、ハルは当たり前のように手の平を突き出し、僕の身体中を触り確認していった。どちらかといえば、僕のほうが動じ、たじろいでいた。彼女は僕の手を取り、彼女自身の、小麦色に輝くすべやかな肌に添えて、その変化の全てを教えてくれた。そのキャラメルのように潤った素肌には、いくつかの傷痕や確かな痣が存在した。ハルは僕の手を引いてその一つ一つを指し示し無言で体温の高まりを伝えた。そのようにしてハルはハル自身が秘めていた、体のすべてを僕の前にさらした。
父親、した。暴力。
母親、別れた。
僕の高校一年生が終わる春休みまで、その散歩は果てしなく淡い喜びの気配に満ちたものだった。でも、その春は突然人が変わったように荒々しい態度を取る。
冷たい雨降りの日。暴威は予想もできない方向から振りかかってきた。
その犬がハルの腕に噛みつき、庭を引きずり廻しているのをハルの母親が目撃したのは、仕事に出かけようと迎えの車を待っていた時だった。口と両足を縛られた犬はトランクにほうり込まれ、ハルのもとから連れ去られた。そして犬は二度と戻ってはこなかった。
受話器の側で鈴の音を鳴らすいつもの合図。いつもと違う夜遅い時刻のハルから電話で、緊急事態と察した僕は、家を抜け出し彼女のもとへ向かった。そして彼女の母親が仕事から帰ってくるまで、僕とハルは一緒に彼女の部屋のベッドの中にいた。僕らは何もしないでベッドの中にいた。服を着たままベッドの中にいた。触れることもなく温もりを伝えることもなく、視線を交わすことさえなく。ただ、ベッドの中にいた。お互いの呼吸だけがわかった。窓の外では、静かに夜の雨が降っていた。冷たい雨が……。
彼女はか弱い女の子ではあったが、真っ当に生きていた。強がりの意地っ張りなんかではけしてなかった。
甘えることは、必要なことかもしれないけど、常に媚びて周りを動かして、そんなことを自分の力だと誤解したくはないの。確かに私は弱い立場だけど、誰かにもたれかかって楽をすることを幸せだとはけして思えない。いつも助けてもらっていて、周りに感謝してるけど。迷惑かけてないなんて、とても言えないんだけど……。
「悔しい……、色々と……」
それは音のない激しい震えと怒りのような涙だった。ハルが泣いた夜、僕は彼女の本当の強さを知った。“意志”彼女の誇り。僕はハルの震える体を隣に感じ、励ましはしたが、実際はハルの崇高さに包まれているようで、触れもしないまま身を委ねて、弱かった。
僕は彼女といる時間の中で、本当に大切なことをいくつも感じた。
それは僕が、今まで漠然と胸に抱いていた、いや、世間からうまく刷り込まれていた、常識という名を掲げる、社会通念のようなものとは全く異なるものだった。時計の針が二時を越えたことをぼんやり見ていた。でも彼女は天井を見つめたまま、身動き一つしないで、ときおり思い出すように瞬きしていた。
母親が帰ってくるまで、僕はハルの部屋から立ち去ることを忘れていた。玄関の方から人の気配がしてきたとき、僕は焦ってハルの部屋のクローゼットの中に隠れた。母親はハルの部屋に入るとおもむろにベッドの上の彼女を抱きしめ、泣き崩れた。結局僕はクローゼットの中で朝を迎えた。
ハルの母親は、喚くだけ泣き喚いたあと、酒と化粧の匂いを漂わせたまま、そこで崩れるように眠りについた。僕とハルはそれぞれの場所から、そのまま身じろぎできないままでいた。
*
「本当に大切なことは誰も教えてくれない」
手話の語彙がおぼつかない僕に、ハルが繰り返し懸命に伝えたその言葉。ハルが学校の先生から学んだその言葉。
……あなた達にとって本当に大切なことは、あなた達それぞれ自身にしかわからない。
先生にとって本当に大切なことは、もちろん外からの刺激があってのことだけど、先生の中で生まれ、且つ時間をかけ形を作ってきたものです。それはどんなに表現しても、この形のまま、あなた達の誰にも、世界中の誰にも、そのまま埋め込むことはできないのです。空気という何もない空間を介し、文字や映像や音楽、肉声や手話や笑顔や光の下での行動、それらが空白を越えて、ときに時空を超えて、あなた達の表面に触れ、そこから染み込んできたそれに、あなた達の思考であるココロが喚起され、それによって細胞が何かを生み出す、そこでやっと、あなた達の世界にとってそれが本当に大切なこととなるのです。
どうか受け身にならないでください。人から与えられるのを待たないでください。時間は止めどなく過ぎていきます。人が教えてくれるのを待つということに疑問を持ってください。それは楽なことではないし、いままでのように周りの人たちが良くしてくれる環境を、当たり前のように過ごしていくことも可能でしょう。でも、私はあなたたちに、お願いします。本当に大切なこと、あなた達自身だけの本当の本当を、積極的に学び、勝ち得てください。
「本当に大切なことは誰かから教わるものではなく、自分自身で手にすることしかできないのだから」
それでも僕はハルの笑顔を思い出すとき、同時に軽い目眩のような嫉妬が喚起される。冬枯れした並木道の停留所でバスを待つ。あの日のように。
その記憶は冬場に行われるハルの学校の学校祭のものだった。
それは圧倒的な異文化の体験だった。彼らは誰しもが、大きな手振りではっきりと表現する。誰も彼もが僕の正面にきちんと立ち、僕の両目をはっきりと見据えて僕を問いつめ僕を判断する。僕の周りをハルの友だちが取り囲み、むせ返るくらいの、善意と興味と好奇心と信頼を混ぜ合わせたものを寄せてくる。
外の世界。つまり、いつも僕が呼吸している世界の気づかいや、プライバシー、人権、そういったものを愚行に思わせてしまう。
文化祭の帰りのバスはさらに凄かった。
車内はまるでスクールバスのようにろう学校の生徒で満杯だった。仲の良い生徒同士で飛びかう手話と、言葉にならない喉から直接出る笑い声の洪水がそこかしこで始まる。
賑やかなおしゃべりの輪はやがて、すべての生徒に広まり、いつしか共通の話題で一体となり、それぞれが座席から飛び出さんばかりに自己主張し、はやし諭し沸騰したような笑顔が、あふれた。
「いつも、こうなの」
のちの人生で、僕は仕事の都合上、渋谷のとあるライブハウスに出入りすることになる。けれども、そこではどんなに実力のあるバンドでも、こんな盛り上がりを観客と作り上げたことはない。
ここには単なる声の大きさや勢いだけでなく、一体感があった。
他人と固くつながりあう、その行為は、僕が今まで手にしてきたコミュニケーションを価値の無い浅はかなものに感じさせた。当たり前であることを絶対的に信奉し劣っていることを悪行と非難する健常者の世界で、僕は見えない荷物を背負いすぎてきてしまったようだ。自分をかわいそうと思う自分もいて、そのことをみっともないと思い始め、またみっともないと思う自分を哀れだと気付き始めた。
僕は弱さをさらけ出すことを平然とやってのけるこの集団の中で妙な疎外感を覚えた。
その中で僕はいつまでたっても得体の知れない何かに気取り続け、すがることを止められなかった。それは嫉妬そのものだった。何に対してかわからない嫉妬が、幼い悪意のようなものが確かにその時芽生え、そんな自分の心に僕は懸命に蓋をした。
*
時は流れる。
ハルは隣町の大規模な繊維工場へ就職が決まり、僕は大学へ進学するため街を離れた。
それについては色々あったが、結局そうなった。僕は彼女の知りえない世界を学び取ってこなければいけなかったし、彼女は自分自身が生きていく上での生活の基盤を成しえなければいけなかった。でも、それは言い訳だろう。僕たちはまだ若く、というより幼く。自分たちにある可能性という未来。そしてそれが内包する様々な誘惑に対処するため、確立されたアイデンティティー、つまり、本当に大切なことを探し確かめている途中だった。
新しい環境に慣れ。僕はそこそこ学校に通い。アルバイトを始め、そこでそこそこの地位と戦友のような遊び仲間を得る。その世代の友人達と仲良くなるのは簡単な作業だった。
女の子達はみな同様にいくつかのトラブルや渇きのようなものをかかえ、それに目を反らし依存し続けることが難しくなる年齢を迎えていた。
彼女達はそれに共感してくれ、且つ、すがることのできる人間を一様に求めていた。そして、男達の幾人かは、そんな女の子達の後追いをすることに意義を見出し、幾人かは全く反発していた。
そのとき僕は満たされてはいなかった。
上京してからの、三ヵ月間。ハルと僕の間には、数通の手紙のやり取りがあり、すぐに途切れた。僕が手紙を出せなかったからだ。
それでも、毎晩のようにハルの夢を見た。一人のとき彼女の名前を声に出してみた。ざらついた空間に書き込まれたその二文字は、まるで他人の筆跡のようだった。手紙を出そうと便箋の前に向かうのだが、書いた言葉はすべて嘘のように真実味がなかった。本当に大切なことを文章にして伝えようとすれば、誠実であろうとすればするほど、その行為から遠ざかってしまう。その現実に、愕然とした。
僕たちの間にあったのは砂浜であり、海であり、空間だった。けして言葉ではなく。その事実は、切迫感を呼び起こすこともあった。そして再び筆を取りジレンマに陥る。
そして、すでに話しているとおり、彼女は死んだ。それは不当に自分の思考の一部をもぎ取られた感覚だった。そこに存在していたのは……。
僕はそれを取り戻すために、努力をした。時の中でかすれていく記憶を鮮やかなままにしておくために、何度も反芻した。それを心の中に刻み留めておくため、自分や他人を傷つけたりもした。思い出を都合よく作り替えてしまうことを恐れ、あらゆる方向から否定し反論し、それも結局自分であるという限界に都合よく言い含められ、わけの分からない地点に精神を置き去りにされた。こびりついた染みは永遠に残るだろうと錯覚して傷に傷を重ねたが、白い壁は次第に色あせ、薄汚れ、じきにどこもかしこも元からある模様のようになった。長い時間が平凡に過ぎていった気がする。罪に思うことにさえも慣れてしまっていた。忘れていく自分に納得していた。
想うこと……、そしてその憤り。
悲しくても泣けない、悲しいけど泣けない。さらけ出しても、ひっくり返してみても空っぽで。一人暮らしの、部屋の夜。暗闇の中で、冷蔵庫の音だけが虚しく腹の底に響く。