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無能と蔑まれた身代わり花嫁は、辺境の【狂王】に嫁ぐ  作者: 綾瀬蒼


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9/9

第9話 身代わり花嫁は世界一幸せになる

身勝手な伯爵一行が辺境の地から追放された、翌朝。


城塞は、昨日までのピリピリとした緊張感から解放され、穏やかで活気に満ちた熱気に包まれていた。

窓から朝日が差し込む中庭では、兵士たちが鼻歌交じりに訓練の準備をし、使用人たちが洗い立ての真っ白なシーツを干し、農具を抱えた領民たちが笑顔で挨拶を交わしながら畑へと向かっていく。

誰もが、今日という日を生きる喜びに満ちていた。彼らの瞳の中には、絶望ではなく、確かな『未来』への光が灯っている。


リゼットは、自室の窓辺からその美しい日常の風景を眺めながら、胸の奥が嘘のように、深く澄み渡っていくのを感じていた。


昨夜は、ベッドに入ってからも長く眠れなかった。

十七年間、自分を縛り付けてきた呪いのような「家族」と、自分自身の言葉で完全に決別した。その震えるような余韻が、身体の奥で波のように何度も打ち寄せていたからだ。

怖さがなかったと言えば嘘になる。実の親と縁を切るという行為への、言いようのない悲しみも確かにあった。


(それでも、私はもう、あの冷たい屋敷には戻らない)


私が、自分で決めたのだ。

誰の犠牲にもならず、誰の道具にもならず、私が私として生きる場所を。


トントン、と温かみのあるノックの音が扉を叩いた。


「奥様。お目覚めでしょうか」

侍従長の声だ。いつもより少しだけ弾んだ、嬉しそうな響きが混じっている。

「本日のご準備が整っております。旦那様が、首を長くしてお待ちかねでございますよ」


「……ご準備?」


リゼットが首を傾げながら扉を開けると、そこには満面の笑みを浮かべた侍従長と、数人のメイドたち、そして見慣れない女性が立っていた。


「はい。本日は、お二人の“正式な結婚の儀”を執り行わせていただきます」


「けっ……結婚の儀!?」

リゼットの心臓が、ドキン!と大きく跳ね上がった。


エミリアの身代わりの生贄として送り出されたこの婚姻は、あくまで書類上の手続きだけのものだった。

神殿での神聖な誓いも、純白のドレスも、参列者からの祝福も、永遠を誓い合う指輪すらない。

それでも、この辺境では誰もがリゼットを“奥様”として敬い、温かく受け入れてくれている。それだけで十分すぎるほど幸せだったのに。


「……そんな、急すぎます! それに私なんかのお祝いに、皆さんの大切な時間を割いていただくなんて……」

「急だからこそ、良いのです」

侍従長が、穏やかに、けれど力強く言った。


「昨日、奥様はご自身の過去と決別をなさいました。……ならば今日という良き日に、この地でご自身が“選んだ家族”と正式に結ばれることが、奥様の新しい人生の門出にふさわしい。旦那様も、そして我々辺境の民も、それを強く望んだのです」


言い返せなかった。

胸の奥がカッと熱くなり、嬉しさで息が少し苦しくなる。


「さあ、旦那様からの贈り物でございます」


侍従長が恭しく差し出した小さなビロードの箱。その中には、細工の施された美しい指輪が二つ並んでいた。

派手で巨大な宝石ではない。けれど、その透明な石は、光にかざすと淡い青と緑が混ざり合ったような、不思議で清らかな輝きを放っている。

まるで、蘇った辺境の大地と、澄み渡った清流を思わせる色だった。


「この石は、かつて瘴気に覆われていたこの辺境の鉱山で採れたものです。奥様の浄化によって濁りが消え、これほどまでに美しく光り輝くようになりました。……磨けば光る、奥様ご自身のように」


侍従長の言葉に、リゼットの目からポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。

メイドたちが「泣かないでください、お化粧が崩れてしまいます!」と慌てて笑い合いながら、リゼットを手際よく部屋の中央へと導いた。


「初めまして、奥様。王都から参りました裁縫師でございます」

待っていた女性が、うやうやしく頭を下げた。先日ヴォルフガングが手配してくれた、王都で一番の腕を持つギルド長だ。


彼女たちが用意してくれたのは、何段もフリルが重なったような窮屈で派手なドレスではなかった。

雪解けの下から顔を出す春の芽生えのような、柔らかく温かみのある純白のドレス。

最高級の滑らかな絹がリゼットの華奢な体を優しく包み込み、胸元には実りを象徴する『麦穂』の繊細な銀糸の刺繍が。そしてふんわりと広がる裾には、辺境の荒野に咲く小さな野花たちの模様が散りばめられていた。


「辺境伯様からの強いご希望でしてね」

裁縫師が、ドレスのシワを伸ばしながらふふっと笑った。

「『妻が畑で初めて麦の芽を見つけた日、嬉しそうに涙をこぼしたのだ。だから、麦穂と野花をあしらってやってくれ』と。……本当に、奥様を深く愛していらっしゃるのですね」


リゼットは言葉を失い、ただドレスの美しい刺繍をそっと撫でた。


(覚えていてくれたんだわ)


あの日の一瞬の感情を。私が心から喜んだ、あの小さな出来事を。

彼は、私のすべてを大切にすくい上げてくれている。


着替えが終わり、銀糸のような美しい髪が結い上げられ、薄く化粧が施される。

全身鏡の前に立ったリゼットは、そこに映る自分の姿を見てハッとした。


(……これが、私?)


目が違う。顔つきが違う。背筋の伸び方が全く違う。

伯爵家の薄暗い部屋で、いつもオドオドと他人の顔色を窺いながら俯いていた“無能な泥かぶり姫”の姿は、そこにはもうなかった。


ここ辺境で息をして、皆と一緒に笑って、土に触れ、誰かのために生きたいと願うようになった。

ひとりの女性としての自信と、愛されているという確信に満ちた、凜と美しい花嫁の顔だった。


「奥様。準備はよろしいですか。……皆様が、お待ちかねです」

侍従長が、優しく扉を開け放った。


◇◇◇


式は、王都の堅苦しい大聖堂などではなく、城塞の広大な中庭で行われることになっていた。


いつもは兵士たちが剣を振るう無骨で冷たい石造りの場所のはずなのに、今日は魔法のように温かく彩られていた。

手作りの白いリボンや布が風に揺れ、豪奢な薔薇の代わりに、たわわに実り始めた麦の穂と、森で摘まれた瑞々しい緑の枝が美しく束ねられて飾られている。

質素だ。けれど、何よりもこの辺境らしくて、温かい。


そして、中庭には溢れんばかりの領民たちが集まっていた。


泥だらけの手を洗ってきた農夫たちも、鎧を磨き上げた兵士たちも、おめかしをした子どもたちも、城の使用人たちも。

誰もが満面の笑みを浮かべ、新しい女主人の晴れ姿を一目見ようと待ち構えていた。


リゼットが純白のドレスに身を包んで姿を現すと、ワァッ!と、割れんばかりの歓声とざわめきが波のように広がった。


「おおお……! 奥様……!」

「なんてお綺麗なんだ。まるで女神様のようだ……!」

「奥様! ご結婚おめでとうございます!!」


その言葉の一つ一つ、向けられる視線の一つ一つに、損得勘定のない純粋な親愛が込められている。

浴びせられる祝福の熱に、リゼットの胸の奥が甘くほどけていく。


人々がさっと道を空けた花道のずっと先に、一人の男が立っていた。


ヴォルフガングだ。


漆黒の極上な礼装に身を包んだ彼は、息を呑むほど美しく、力強かった。

いつもの実戦用の外套よりもずっときちんとしているのに、彼特有の不器用さは隠しきれていない。背筋をピンと伸ばし、白い手袋をはめているが、視線だけは落ち着かず、リゼットの姿を探して何度も周囲を見渡していた。


そして、歩みを進めるリゼットの姿を視界に捉えた瞬間。

彼の暗かった瞳が、パッと春の陽光を浴びたように大きく見開かれ、そして激しく揺れた。


驚き。感嘆。安堵。そして、どうしようもないほどの深い愛しさ。


気の利いた愛の言葉などなくても、彼のその表情を見るだけで、すべての感情が痛いほど伝わってきた。


リゼットは、彼に向かってゆっくりと歩き出した。

一歩ずつ、自分の人生を確かめるように。

途中、花道の両脇から、子どもたちが「奥様、おめでとう!」と小さな花びらを投げてくれる。色とりどりの花びらは少なくても、彼らの笑顔が何よりも眩しかった。


ヴォルフガングの目の前に立つと、彼はリゼットの美しさに圧倒されたように、一度深く息を吸い込んだ。


「……息が止まるかと思った。綺麗だ……本当に、綺麗だ」

心底からの本音を絞り出すようにそれだけ言うと、彼は顔を真っ赤にしてスッと視線を逸らした。


無敵の狂王の照れた顔がおかしくて、リゼットは思わずふふっと笑ってしまった。


「ありがとうございます。旦那様も、とっても素敵です」

「……それ以上褒められると、胸が苦しくて言葉が詰まる」

「ふふ、今日はいくら詰まっても大丈夫ですよ」


そう返すと、ヴォルフガングの耳までが完全に赤く染まった。


侍従長が、二人の前に進み出る。今日の式を取り仕切る大役を担っているのだ。


「それでは、これより誓いの儀を執り行います」


堅苦しい王家の儀礼はない。長い神殿の祝詞もない。

ここに必要なのは、お互いを思い合う、二人の真実の言葉だけだと、皆が知っている。


侍従長が、優しくリゼットに問う。


「リゼット様。あなたはこの地を治めるヴォルフガング様を、生涯の夫として選びますか。健やかなる時も、困難の時も、彼の手を離さず共に歩むことを誓いますか」


リゼットは、喉が熱くなった。


“選びますか”。

これまでの人生で、ずっと誰かに「選ばれず、捨てられてきた」自分が、今、自らの意思で愛する人を選ぶ。


リゼットはヴォルフガングを真っ直ぐに見上げた。彼の瞳は真剣で、怖いほど一途で、どこまでも優しい。


リゼットは、広間中に響くはっきりとした声で答えた。


「はい。私が、選びます。……この人と、この地と、皆さんと一緒に、生きていきます」


言い切った瞬間、胸の奥から、過去の冷たい亡霊が完全に消え去った。


侍従長が、次にヴォルフガングへ問う。


「ヴォルフガング様。あなたはリゼット様を生涯の妻として選びますか。彼女を守るだけでなく、共に支え、共に笑い、生涯を懸けて愛し抜くことを誓いますか」


ヴォルフガングは一瞬、言葉に詰まった。

いつもの不器用さだ。けれど、その沈黙は決して逃げや戸惑いではなく、彼が背負う『覚悟』のあまりの重さゆえだった。


彼は、白い手袋を外した大きな両手で、リゼットの華奢な両手をそっと、壊れ物を扱うように包み込み、低く、力強い声で答えた。


「選ぶ。……いや、俺は、出会ったあの日からずっと、彼女を選びたかった」

「……っ」

「彼女を犠牲にした愚か者たちは、彼女を役に立たない道具だと呼んだ。だが俺は、彼女を――」


そこで彼の喉が、ゴクリと大きく鳴った。深く息を吐き出し、広場にいる全員に届くような大音声で、高らかに宣言した。


「――俺の『人生そのもの』だと思った!!」


中庭が、シン……と静まり返る。

誰もが、狂王と呼ばれた男の、あまりにも情熱的で不器用な愛の告白に息を止めた。


リゼットの目の奥から、温かい涙がホロリとこぼれ落ちた。


ヴォルフガングは視線を逸らさず、リゼットの瞳だけを真っ直ぐに見つめて言い切った。


「共に生きる。ただ箱庭に閉じ込めて守るだけではない。君を支え、君を笑わせる。……これまでの君の人生の分まで、俺がすべて幸せで上書きしてやる。二度と泣かせないとは言えないが、もし君が泣いた時は、世界中の誰敵に回しても、俺が必ずその手を取る。……愛している、リゼット」


不器用で、重すぎるほどの誓い。

でも、そこには一片の嘘もない。彼の魂からの叫びが、リゼットの胸の中心に深々と突き刺さった。


侍従長が涙ぐみながら小さく頷き、二つの指輪が乗せられたクッションを差し出す。


リゼットは震える指で指輪を取り、ヴォルフガングの大きな薬指にゆっくりと通した。

次にヴォルフガングが、リゼットの細い薬指へ、もう一つの指輪を通す。剣を握る彼の逞しい手が、少しだけ緊張で震えていた。


「……温かい」

指輪の冷たさよりも先に、彼の手の熱を感じてリゼットが小さく呟いた。

「あなたの手が、とっても温かいです」

「君もだ。君のすべてが、俺を温めてくれる」


指輪がピッタリと収まり、二人の手が重なり合った瞬間。

ワァァァァァァッ!!と、城塞が揺れるほどの凄まじい大歓声と拍手が巻き起こった。


石壁に祝福の音が反響し、子どもたちが飛び跳ねて喜び、年老いた領民たちが「よかった、本当によかった」とハンカチで涙を拭っている。


それは、王都の大聖堂で行われるどんなに華やかな結婚式よりも、ずっと熱く、愛に満ちた絶対の祝福だった。


ヴォルフガングが一歩リゼットに近づき、彼女の腰に腕を回して引き寄せると、その銀髪をかき分け、白い額にそっと、誓いの口づけを落とした。


軽く、短く、それでも魂に刻み込まれるような確かな温度。


「きゃっ……」

リゼットの顔が、耳まで真っ赤に染まる。周りの歓声がさらに冷やかしの熱を帯びて上がり、兵士の誰かが「旦那様、額じゃ足りねえぞ!」と叫んで、ドッと笑い声が広がった。


ヴォルフガングが、リゼットの耳元で恥ずかしそうに小声で囁いた。


「……人前で、こういう恥ずかしい真似をする日が来るとは思わなかった」

「ふふ、私もです」

「だが……君が望むなら、世界一の甘い夫にでもなってやる」


その言葉が、決して冗談ではなく本気だと分かって。

リゼットは胸がいっぱいになり、彼の広い胸に顔を埋めた。


◇◇◇


式の後、中庭の一角で、領民たちも交えたささやかな祝宴が開かれた。


豪奢なフレンチのフルコースはない。

けれど、皆が心を込めて持ち寄ったご馳走がズラリと並んでいる。厨房でこんがりと焼かれた大量のパン、栄養満点の猪肉のシチュー、畑で採れたばかりの瑞々しい野菜、そして――リボンで結ばれた、小さな黄金色の『麦の束』。


畑番のハインツが、それを恭しく持ってきたのだ。


「奥様、旦那様。ささやかですが、我々領民からのお祝いの品でございます」

ハインツが帽子を胸に当てて、深くお辞儀をした。

「これは、奥様が一番最初に浄化してくださった区画で、奇跡的に早く育った麦の初穂です。まだ量は少ないですが、確かに育ちました。……すべては、あなた様のおかげです」


リゼットは、渡されたその小さな麦束を、何よりも高価な宝石を受け取るように胸に抱きしめた。

とても軽いのに、そこにはこの領地の重い『未来』がしっかりと詰まっていた。


「私一人の力じゃありません。ハインツさんや皆さんが、毎日汗を流して働いてくださったからです」

「いいえ。我々が再び希望を持って働けたのは、奥様が死んだ土を戻してくれたからです。……あなたは、我々の永遠の光です」


言い返せないほど、真っ直ぐで嘘のない言葉だった。


「奥様、奥様! 明日も一緒に畑に行ってくれる?」

子どもたちが駆け寄ってきて、リゼットのドレスの裾に無邪気にしがみつく。


「ええ、行くわ。無理のない範囲で、旦那様に怒られない程度にね」

「やったー!」


コロコロとした笑い声が弾む。


リゼットはふと、遠くの空を見上げた。

国境の向こう側――アルジェント伯爵領の方角には、まだ少しだけ黒い霞が残っている。実家は今頃、あの巨大な魔物の群れに蹂躙され、自業自得の地獄を見ていることだろう。


リゼットの視線の先に気づいたヴォルフガングが、隣に並び立って静かに言った。


「……伯爵領の消滅危機については、今朝、王都の近衛騎士団へ緊急の早馬を出しておいた。王家の直属部隊が向かうだろう」

「……え? あなたが、実家への支援を要請してくださったのですか?」

驚くリゼットに、ヴォルフガングはフッと鼻を鳴らした。


「誤解するな。あのクズ共を助けるためじゃない。罪のない伯爵領の民草と、隣接する他の領地に被害が拡大するのを防ぐためだ。……それに、王家の騎士団が介入すれば、事態の収拾後、結界の崩壊を招き領地を危機に陥れた責任を問われ、アルジェント伯爵家は爵位剥奪、お取り潰しになるだろうな」

「……」

「これで、君の心残りも完全に消えたはずだ。君が、彼らのために罪悪感を背負う必要は、もう一ミリもない」


彼の実家に対する容赦のない徹底的な『制裁』と、自分への『優しさ』。

リゼットは胸の奥がじん、と熱くなった。


「……ありがとうございます。本当に、何から何まで」

「礼を言うな。……言っただろう、君はもう、誰かから奪われ、搾取される側の人間ではないんだ」


その力強い言葉が、リゼットの心に絡みついていた最後の細い鎖を、完全に断ち切ってくれた。


◇◇◇


夜。

祝宴の熱気も落ち着き、冷たい夜風が城塞を包み込むころ。


リゼットは、侍従長に案内され、城の最奥にある新しい部屋――今日から『夫妻の部屋』となる広大な主寝室へと足を踏み入れた。


パタン、と分厚い扉が閉まり、部屋には二人きり。

パチパチと暖炉の火が爆ぜる音だけが響く中、大きな天蓋付きのベッドを前にして、急に静寂が落ちた。


ヴォルフガングが、首元のタイを少し緩めながら、ひどく困ったような、居心地の悪そうな顔をした。


「……緊張しているか」

「少し。……旦那様は?」

「私もだ。いや、戦場で魔物の大群に囲まれるより何百倍も緊張している」


その強面な狂王のあまりの正直さに、リゼットはプッと吹き出してしまった。


「ふふっ。無敵の辺境伯様でも、緊張されることがあるんですね」

「笑い事じゃない。……愛する妻を前にして平常心でいられるほど、俺は枯れていない」


彼が真剣な目でそう言い放ち、一歩近づいてくる。

その瞳の奥に宿るオスとしての熱に当てられ、リゼットの心臓が急激に警鐘を鳴らし始めた。


リゼットはベッドの縁に腰を下ろし、自分の指輪を見つめた。

透明な石が、暖炉の火を受けてキラキラと淡く光る。土と水の色。ここで生きていくという、確かな証。


「ヴォルフガング様」

「……何だ」


リゼットは顔を上げ、彼の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。


「私、今……世界で一番、幸せな花嫁かもしれません」


心の底から溢れ出たその言葉を聞いた瞬間。

ヴォルフガングは雷に打たれたように一瞬固まり、次いで、リゼットの目の前に跪き、彼女の両手を強く、強く握りしめた。


「なら、俺が一生を懸けて……その『世界一』を守り抜く」


不器用で、重くて、どこまでも真剣で、絶対に逃げない誓いの言葉。


リゼットの目が熱くなり、再び涙が溢れた。でも今度の涙は、苦しくも悲しくもない、極上の幸福の雫だった。


「……はい。よろしくお願いします」

「ああ。……覚悟しろ。もう二度と、逃がさない」


ヴォルフガングは、リゼットの手の甲に口づけ、そのまま視線を絡ませながら、ゆっくりと彼女の唇へと、その熱を重ねた。


外で、辺境の北風がヒューと鳴る。

けれどその風は、もう二度と彼女を震えさせることはない。


荒れ果てた死の土地は黄金の畑になり。

冷たい城塞は温かい家になり。

生贄として追放された身代わり花嫁は――自分で選び取った、世界で一番幸せな人生を手に入れたのだ。


そして、リゼットは知った。


本当の『愛』とは、力で支配し奪うものではない。

血の繋がりだけで無条件に許されるものでもない。


ただ、互いに選び、互いに守り、不器用でも互いに育てていくものだということを。

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