第7話 愚かな家族の要求
朝餉を終え、自室の机に戻っても、その封筒は氷のように冷たかった。
リゼットは椅子に座り、分厚い羊皮紙で作られた封筒の縁を、震える指先で何度もなぞっていた。
中央に押された、禍々しいほどに赤い蝋印。
炎を象ったヴァルモン伯爵家の紋章を見るだけで、あの屋敷の淀んだ空気、父の怒鳴り声、継母の下品な笑い声、エミリアの蔑むような視線がフラッシュバックする。
それらのおぞましい記憶がすべて、この薄い紙一枚の中に押し込められている気がして、ただ見つめているだけで息が浅く、苦しくなってくる。
(……開けたくない)
本音を言えば、このまま暖炉の火に放り込んで燃やしてしまいたかった。
けれど、逃げても事態は好転しない。伯爵家がわざわざ早馬を飛ばしてよこした手紙だ。無視すれば、どんな嫌がらせをしてくるか分からない。
リゼットはギュッと目を閉じ、一度だけ深く息を吸い込むと、決意を込めてペーパーナイフを滑らせた。
中から出てきた便箋には、見慣れた父の筆跡が、冷たく、几帳面に整列していた。
その文面は、リゼットの予想をはるかに超えるほど、身勝手で白々しいものだった。
『愛する娘、リゼットへ
お前が家を出てからというもの、屋敷は火が消えたように寂しくなった。
近頃の我が家の混乱により、お前との間に些細な誤解が生じてしまったことを、父として大変遺憾に思っている。
家族として、腹を割って話し合いの場を持ちたい。至急、実家へ帰領しなさい。
お前の「浄化の力」は、伯爵家のため、そして愛する領民たちのためにどうしても必要なのだ。
すぐに迎えの者を遣わす。屋敷で、お前の好きな菓子を用意して待っている。
――お前を愛する父、ヴァルモン伯爵より』
……愛する娘。
……些細な誤解。
……家族として。
その甘い言葉の羅列に、リゼットは吐き気をもよおした。
言葉は一見すると優しい親の顔という皮を被っているが、その芯にある醜い本質は、実家にいた頃と何一つ変わっていなかった。
「話し合い」と言いながら、“帰ってきてほしい”ではなく“帰領しなさい”という明確な命令形。
そして何より、最後の一行が決定的だった。
――お前の「力」が、伯爵家のために必要なのだ。
リゼットという一人の人間を愛し、心配しているのではない。
彼女が持つ『規格外の浄化スキル』という「便利な道具」が、今の彼らの保身のためにどうしても必要なだけだ。
リゼットは便箋を強く握りしめ、指先の関節が白くなるのを感じた。
(……分かっていたはずなのに)
期待など、一ミリもしていなかった。
それでも、胸のずっと奥底が、ズキリと鈍く痛んだ。
もし、ほんの一欠片でも「生きていてくれてよかった」という純粋な安堵が書かれていたなら。もし、「冷遇してすまなかった」という本当の謝罪の言葉が一つでもあったなら。
馬鹿みたいに、そんなあり得ない幻想を抱いてしまった自分自身が、ひどく情けなかった。
便箋を元の折り目に沿って畳み直そうとした、その瞬間。
コンコン、と自室の重厚な扉が、少し切羽詰まった様子で叩かれた。
「奥様、よろしいでしょうか」
侍従長の声だ。いつもは穏やかで余裕のある彼の声が、今はピリッと張り詰めている。
「どうしたのですか?」
扉を開けると、侍従長は険しい顔で深く頭を下げた。
「……現在、城塞の正門前が少々騒がしくなっております。ヴァルモン伯爵を名乗る一行が、多数の私兵を連れて到着いたしました」
リゼットの心臓が、ドクン!と嫌な音を立てて大きく跳ねた。
「……もう、来たのですか」
手紙が届いたのは昨日だ。早馬の直後に、彼ら自身も馬車を飛ばして辺境へ向かっていたということになる。
「はい。武装した兵を伴い、“愛娘を引き取りに来た。今すぐ出せ”と強硬に主張しております」
机の上で、あの白々しい便箋が、無言の証拠のように横たわっている。
手紙だけで終わるはずがなかったのだ。向こうは喉から手が出るほど「道具」が欲しいのだから、なりふり構わず直接取りに来るに決まっている。
「旦那様は……ヴォルフガング様は?」
「辺境伯様は夜明け前から、新しく開拓する予定の農地へ巡察に出ておられます。急ぎの使いを出しましたので間もなくお戻りになるはずですが……伯爵は、今すぐ奥様との面会を要求して喚き散らしております。いかがいたしましょうか。旦那様がお戻りになるまで、力ずくで門外へ締め出しておくことも可能ですが」
喉がカラカラに乾く。足の指先の感覚が遠退いていく。
(会いたくない。顔も見たくない。お父様の声を聞くだけで、殴られた記憶が蘇って震えが止まらない)
けれど、ここで自分が逃げて部屋に引きこもれば、相手はさらに図に乗るだろう。強引に城へ踏み込もうとして、城塞の兵士たちと実家の私兵の間で無用な血が流れるかもしれない。
この温かい城の人たちに、自分の過去の尻拭いで迷惑をかけるわけにはいかない。
リゼットはギュッとドレスのスカートを握りしめ、小さく、しかしはっきりと頷いた。
「……分かりました。私が行きます。謁見の間へ通してください」
侍従長が一瞬だけ、痛ましげに目を細めた。彼が心底心配してくれているのが痛いほど伝わってくる。
「奥様。ご無理はなさいませんよう。旦那様がお戻りになるまでの時間稼ぎで構いません。何かあれば、我々が全力でお守りいたします」
「大丈夫です。ありがとうございます」
大丈夫、と口に出しながら、胸の中はちっとも大丈夫ではなかった。膝はガクガクと震え、胃が締め付けられるように痛い。
でも、今の自分には、伯爵家で生きていた頃には絶対に持てなかった『強さの理由』がある。
ここには、私の味方がいる。
私を“道具”ではなく、一人の“人間”として見て、温かく受け入れてくれた領民たちがいる。
そして何より、私を命懸けで守ってくれる、気高く優しい旦那様がいる。
その事実だけを心の支えにして、リゼットは背筋を伸ばし、冷たい石の廊下を歩き出した。
◇◇◇
城塞の謁見の間は、王都の貴族の館のような華美な装飾はないが、質実剛健で広々としていた。
その中央に、見覚えのある、しかしひどく場違いな一行が我が物顔で立っていた。
先頭に立つのは、実父――ヴァルモン伯爵。
王都の流行を取り入れた豪奢な外套を羽織り、傲慢に顎を上げ、周囲の兵士たちを見下すような目つきをしている。
その隣には、義妹のエミリア。派手なピンク色のドレスで着飾っているが、よく見れば頬はゲッソリとこけ、目の下には化粧でも隠しきれない濃い隈がある。きっと連日連夜、押し寄せる魔物の対処で疲弊しきっているのだろう。
彼らの背後には、数十名の私兵の騎士たち。
彼らの鎧は泥と魔物の返り血で汚れ、目には深い疲労と絶望が滲んでいた。けれど、傲慢な当主の背後に立っている以上、無理やりにでも虚勢を張って胸を反らせるしかないという、哀れな顔をしていた。
リゼットが静かに謁見の間へ足を踏み入れると。
伯爵は彼女の姿を上から下まで値踏みするようにねっとりと見つめ、口の端だけで薄ら笑いを浮かべた。
「生きていたか、リゼット」
数週間ぶりに再会した実の娘への、第一声がそれだった。
「……お久しぶりです、お父様。エミリアも」
完璧なカーテシー(淑女の礼)をしながら、リゼットの胸の奥が絶対零度に冷え切っていく。
彼女の生存を確認したその声色には、安堵の響きなど微塵もない。ただ「自分の求めていた道具が壊れずに無事だった」という、利己的な確認作業でしかなかった。
伯爵は、娘の体調を気遣う素振りすら見せず、さっさと本題に入った。
「迎えに来てやったぞ。さあ、今すぐ荷物をまとめなさい。帰るぞ、リゼット」
「……帰る、とは? どういう意味でしょうか」
「言葉通りの意味だ。今、我が伯爵領は魔物の大群によって未曾有の危機に瀕している。お前の『結界を張る力』がどうしても必要なのだ。話はそれだけだ、急げ」
――それだけ。
長年虐待し、死地へ追放したことへの謝罪も釈明も一切ない。
リゼットはカラカラになった口内を舌で湿らせ、必死に言葉を絞り出した。
「お言葉ですが……私はすでに、辺境伯ヴォルフガング様の正式な妻です。勝手に実家へ戻ることなど――」
「あんなものは、名ばかりの妻だろうが!」
伯爵が、苛立たしげに大声で遮った。
「お前はエミリアの『身代わり』として、この伯爵家の権限と判断で送り出したに過ぎん! そして今、伯爵家の判断で呼び戻す! それだけの簡単な理屈だ。狂王ごときに怯える必要はない、私が話をつけてやる」
すると、横からエミリアが一歩前へ出て、わざとらしく両手で顔を覆い、ボロボロと嘘泣きを始めた。
「お姉さま……ごめんなさい! わたくし、あの時はお姉さまの力がそんなに凄いものだなんて知らなくて……! でも、今はハッキリと分かったの! お姉さまがいてくれないと、領地が滅んでしまうわ!」
声は震え、可憐な少女が後悔しているように見える。演技なのか、恐怖による本音なのか、もはや区別がつかない。
けれど、彼女が次に放った言葉で、その浅ましい本性が完全に露呈した。
「だから、お姉さま! 早く戻ってきて、お姉さまの『浄化』で、領地を元通りに綺麗にしてくれればそれでいいの! そうすれば、お父様も今度こそお姉さまを家族として認めてくださるわ!」
――浄化で元に戻してくれればそれでいい。
それは決して「ごめんなさい」という謝罪ではない。
自分たちの尻拭いをしろという、傲慢極まりない『要求』だった。
リゼットは短く息を呑み、ドレスのスカートを握りしめていた拳にさらに力を込めた。
「……私の力を、当然のように無償で使う前提なのですね」
「当然だろう!」
伯爵が、何を分かりきったことを聞くのかと即答した。
「お前はアルジェント伯爵家の娘だ! 我が家が立派に育て上げ、長年我が家の庇護のもとに置いてやったのだ! 今さらその大恩を忘れて、自分だけ安全な辺境で幸せになろうなどと図々しいにも程があるぞ!」
庇護。大恩。
腐りかけの冷たい食事。継母のカビ臭いお下がりの服。
使用人以下の扱いと、毎日のような嘲笑と暴力。そして最後は、狂王への「生贄」としての追放。
それが彼らの言う“庇護”なら――確かに、その恩は一生忘れられない。忘れたくても、トラウマとなって魂にこびりついて離れないのだから。
リゼットは、胸の奥を鋭い刃でえぐられるような痛みを必死に堪え、ゆっくりと、しかしはっきりと言い返した。
「私を育てたのは、伯爵家ではありません。私が生き残るために、私自身で這いつくばって生きてきただけです。恩など、感じる筋合いはありません」
「貴様……恩知らずな言い訳はいい加減にしろ!」
伯爵が青筋を立てて怒鳴りつけた。
「いいか、よく聞け! 今この瞬間にも、領民が魔物に殺され始めているのだ! 美しい村が焼け、広大な畑が荒らされ、お前のせいで結界は完全に消滅した! お前が今すぐ戻らなければ、歴史ある伯爵領は完全に滅びるのだぞ! 自分の責任の重さを理解しろ!」
その言い方も、やはり「命令」と「責任転嫁」だった。
リゼットの脳裏に、あの暗い屋敷で浴びせられ続けた呪いの言葉が蘇る。
“無能”
“家の恥晒し”
“お前など生まれてこなければよかった”
そして今は、“お前が戻らなければ領地が滅びる”。
彼らの都合が悪くなっただけで、リゼットを一人の人間として尊重していない本質は、全く同じだった。
「……戻りません」
リゼットの口から出た拒絶の声は、自分でも驚くほど、静かで、冷たく、はっきりと広間に響き渡った。
謁見の間が、水を打ったように静まり返る。
伯爵の目が、信じられないものを見るように細くなった。
「……今、何と言った」
「私は、ここから一歩も動きません。辺境伯ヴォルフガング様の妻として、そしてこの領地を支える『女将』として――私は、ここで生きていきます」
“女将”。
先日、夕暮れの畑でヴォルフガングに語ったその夢を口にした瞬間。リゼットの胸の奥に、確かな熱と、ブレない強さが灯った。
エミリアの顔が、醜悪に歪んだ。
「女将ぃ!? 馬鹿じゃないの!? こんな泥臭い辺境で女将なんて、正気なの!? あの“狂王”よ!? いつ気が狂って殺されるか分からない化け物なのに!」
「エミリア」
リゼットは、氷のような低い声で義妹を睨みつけた。
「その侮辱は許しません。ヴォルフガング様は、私を絶対に傷つけたりしない。誰よりもお優しく、気高い方です」
エミリアは一瞬その気迫に怯んだが、すぐに負けじとヒステリックに叫んだ。
「洗脳されてるだけよ! どうせ今は機嫌を取って優しくして、お姉さまの浄化の力をタダで使わせてるんでしょう!? ……ああ、なるほどね! 辺境伯もお姉さまの『力』が欲しくて、都合よく甘い言葉で騙しているだけじゃない!」
「――そこまでになさいませ、小娘」
絶対零度の低い声が、謁見の間の空気をスパッと斬り裂いた。
発したのは、リゼットの背後に控えていた侍従長だった。
いつも温和な好々爺の顔は完全に消え去り、歴戦の暗殺者のような凄まじい殺気を放っている。
「我が奥様は、誰の命令で動く方でもございません。ましてや、我が主君が奥様を騙して力を“使わせる”などという妄言――二度と口になされば、その舌を引き抜きますよ」
伯爵が、顔を真っ赤にして侍従長を怒鳴りつけた。
「ええい、たかが使用人風情が偉そうに口を挟むな! 私は王家から爵位を賜った伯爵だぞ!」
「ここは、あなたの支配する伯爵領ではございません」
侍従長が一歩も引かずに、静かに、重圧を込めて言い返す。
「ここは、王家すら干渉を躊躇う、独立した『辺境伯領』です。他国の領主が、我が領の女主人に対して無礼を働くことは、明確な宣戦布告とみなしますが?」
伯爵の頬が、ピクンと引きつった。
背後にいた伯爵の騎士たちが、そのただならぬ空気に恐怖し、ザワッと後ずさる。
同時に、謁見の間の周囲に配置されていた城塞の兵士たちが、一斉に武器の柄に手をかけ、一歩前へ出る気配がした。
一触即発の空気。
けれど、追い詰められた伯爵は引かなかった。いや、引けなかったのだ。ここで手ぶらで帰れば、領地ごと魔物に食い殺されるのだから。
「ならばなおさらだ! 辺境伯に直接言ってやる! 由緒正しき伯爵家の長女を、こんな辺境の小城に不当に囲っておくことなど許されん! この婚姻は我が家の権限で無効とする! 身代わりの約束など――」
「婚姻が無効かどうかを決めるのは、あなたではありません」
リゼットが毅然として言い放つと、伯爵の目が血走り、完全に理性を失った。
「黙れ、子の分際で親に口答えをするな! お前は私の所有物だ!」
「私は、私です!!」
その魂からの叫びが出た瞬間、リゼットの心臓が痛いほど早鐘を打った。
実家では絶対に言ってはいけない、反逆の言葉。
けれど今は、自分の尊厳を守るために、絶対に言わなければならない言葉だった。
「私はもう、あなたの道具じゃない! 私はここで、皆から『必要』とされています。……私は、大切な人たちと一緒に、ここで生きたいんです!!」
伯爵は、フンッと鼻を鳴らし、ひどく冷酷に笑った。
「必要だと? 笑わせるな。辺境の連中が必要としているのは、お前の中にある『力』だけだ。力さえ手に入れば、お前のような無能で地味な女の本体など、どうなろうと知ったことではないのだ。目を覚ませ、馬鹿娘!」
その言葉の続きは、聞きたくなかった。
過去のトラウマを容赦なくえぐり出す、最も恐ろしい呪いの言葉。
リゼットは血が出るほど唇を噛み締め、両足を踏ん張り、決して視線を落とさずに耐えた。
「さあ、茶番は終わりだ。無理やりにでも連れて帰る。抵抗するなら、痛い目を見るぞ」
伯爵が乱暴に一歩前に踏み出し、太い腕を伸ばして、リゼットの細い腕を力ずくで掴もうとした。
「っ!」
その瞬間。リゼットの身体が、勝手にビクンと強張った。
頭では“もう昔の私じゃない、拒絶できる”と分かっているのに。長年植え付けられた暴力への恐怖が、反射的に彼女の身体を石のように縛り付ける。
(やめて……触らないで……!)
声が出ない。
汚い手が、彼女の腕を掴もうと迫った――その時。
ドォォォンッ……!!
謁見の間の重厚な扉の向こうから、床を震わせるような、凄まじく重い足音が響いた。
一歩、また一歩。
近づいてくるたびに、大気がビリビリと震え、圧倒的な魔力の重圧が広間を満たしていく。
武装した兵士の鎧が擦れる音。
そして、周囲の空気が、一瞬にして絶対零度に凍りついた。
シン……と水を打ったように静まり返った謁見の間に、地の底から響くような、低く、おぞましいほどに冷酷な声が落ちた。
「……その汚い手を、俺の妻から離せ」
伯爵の伸びていた手が、空中でピタリと止まる。
リゼットは、ハッと息を呑んで振り返った。
バンッ!と両開きの扉が蹴り開けられる。
そこに立っていたのは。
漆黒の外套を翻し、深い絶望と殺意を宿した暗い瞳を持ち、背中に巨大な長剣を背負った男。
まさに死神の如き威圧感を放つ、『狂王』ヴォルフガングだった。
そして、その氷のような視線は、真っ直ぐに伯爵一人へと向けられていた。
「もう一度だけ言う。……私の愛する妻に、何をしている」
その言葉が広間に落ちた瞬間、伯爵の顔色からサーッと血の気が引いた。
しかし、腐っても貴族の当主。伯爵は相手の力を測り、どうにかして丸め込もうと姑息な計算をする顔つきを見せた。
だが、ヴォルフガングの瞳に宿っているものは、貴族同士の政治的な計算などではなかった。
純粋な『怒り』だ。
大切なものを傷つけようとする外敵に対する、容赦のない、決して逃げ場の無い本物の殺意。
リゼットの目の前で、宙で止まっていた父の太い指が、ガタガタと無様に震え始めていた。




