第6話 その頃、実家では……
リゼットが、たった一つの小さなトランクと共にアルジェント伯爵家の正門を出た、その日の夕暮れ。
ヴァルモン伯爵領を覆う空は、いつもより異様に低く、重苦しかった。
風がピタリと淀み、鳥の囀りも虫の音も消え失せた。豊かだったはずの畑の上を、薄い黒い靄が不気味に這い回り、地平線に沈む夕陽の赤色が、まるでどす黒い血のように濁って見えた。
領民たちは「今日はなんだか、ひどく嫌な日だ」「空気がカビ臭い」と口々にこぼしながらも、ただの天気の崩れだろうと高をくくり、いつも通りに家路を急いだ。
――彼らの平穏な“いつも通り”で済んでいたのは、その夕暮れが最後だった。
夜半。
屋敷の敷地内を見回っていた若い騎士が、悲鳴のような声を上げた。
「け、結界が……! 領地を覆う防衛結界が、薄れているぞ!」
本来、領地を魔物から守る大規模な防衛結界は、常人の目には見えない。
だが、その魔力が完全に尽き、術式が崩壊し始める時だけは別だ。上空の空気の膜がガラスのように歪み、パキパキと冷たい亀裂の音を立てる。
領地の境にひっそりと佇む古い石標に刻まれた古代の術式が、断末魔のように鈍く赤色に点滅し――そして、プツンと糸が切れたように、永遠の沈黙に落ちた。
直後。
領地の南に広がる深い森の奥から、数十年ぶりに、おぞましい獣の咆哮が響き渡った。
「敵襲! 魔物の群れだ! 南の森から、信じられない数がこちらへ向かってくるぞ!!」
平穏ボケしていた騎士団が慌てて松明を掲げ、けたたましい警鐘が夜の闇を切り裂く。
豪奢な屋敷の窓に次々と灯りがともり、寝巻き姿の使用人たちがパニックを起こして走り回った。
豪奢な応接室で、高価なヴィンテージワインを傾けていたアルジェント伯爵は、報告に駆け込んできた騎士団長の話を聞き、マホガニーのテーブルを蹴り飛ばすようにして立ち上がった。
「何を馬鹿なことを言っている! 我が領地には、建国の昔から強固な防衛結界が張られているはずだろうが!」
「そ、それが……! 結界が完全に消滅いたしました! いえ、消えたというより、まるで最初から存在しなかったかのように、魔力の痕跡すら残っておりません!」
信じがたい報告に、伯爵の顔が怒りで赤黒く染まる。
「あり得ん! 結界は代々、我が伯爵家の強力な魔力によって維持されてきたのだ! 結界石の点検も毎月行っているはずだぞ!」
ソファに座っていた継母が、開いた扇をギリッと強く握りしめ、顔を引きつらせながら言った。
「お、落ち着いてくださいませ、旦那様。仮に結界が破れたとしても、我が家にはエミリアがおりますわ。エミリアの素晴らしい攻撃魔法があれば、下等な魔物など一捻りで追い払えますとも!」
その名が出た瞬間、バンッ!と乱暴に扉が開き、寝巻きの上にローブを羽織った義妹エミリアが駆け込んできた。
日中、練兵場で家臣たちから称賛を浴びていた時の誇らしげで高慢な顔は見る影もなく、今は恐怖と焦りで無様に歪んでいる。
「お、お父様! 外が……! 見たこともないような恐ろしい魔物が、屋敷を囲んでいますわ!」
伯爵は、自慢の娘の肩を強く掴み、怒鳴りつけた。
「怯えるな、エミリア! お前は我が伯爵家の誇り、最高峰の攻撃魔法の使い手だろう! 外へ出て、あの汚らしい害獣どもをすべて焼き払ってこい!」
エミリアは血の気の引いた唇を強く噛み、震える手で愛用の魔法杖を握りしめた。
「……わ、分かりましたわ! わたくしの力、見せてやります!」
◇◇◇
屋敷の広大な前庭。
美しく手入れされた薔薇の生垣と、頑丈な鉄柵のすぐ外側に、おびただしい数の黒い影が群がっていた。
狼のように獰猛な牙を持つもの。巨大な蜘蛛のように低く地を這うもの。
どれも双眸が血のように赤く濁り、鼻先から致死量の毒を含んだ黒い瘴気の靄を吐き出している。
盾を構え、槍を突き出す騎士たちの顔は絶望に染まっていた。
これまでごく稀に結界の隙間から入り込んでいた“はぐれ魔物”とは、規模も、放つ威圧感も全く違う。これは、明確な殺意を持った『軍勢』だ。
騎士たちに守られながら前線に出たエミリアが、高らかに詠唱し、杖を振り下ろす。
「我が血の契約に従い、すべてを灰燼に帰せ! 『炎槍』!」
ドゴォォォンッ!!
数本の紅蓮の槍が夜空を駆け抜け、先頭にいた数体の魔物の頭部を見事に吹き飛ばした。
燃え盛る炎が魔物の肉体を焼き焦がし、騎士たちから「おおっ!」と安堵の歓声が上がる。
「見なさい! これがわたくしの力よ!」
エミリアが勝ち誇ったように笑った。
だが、次の瞬間。
焼け焦げて炭となったはずの魔物の死骸から、ドス黒い靄が間欠泉のように噴き出し、瞬く間に空中で融合して、さらに巨大で凶悪な別の魔物の形を取り始めたのだ。
「……え?」
エミリアの笑顔が凍りつき、目を見開いた。
「も、燃やしたのに……どうして増えるの!?」
パニックに陥ったエミリアは、無我夢中で二発、三発と高火力の魔法を乱れ撃ちにした。
しかし、倒せば倒すほど、魔物の体内に蓄積されていた瘴気が周囲に撒き散らされ、新たな魔物を呼び寄せる結果となる。物理的な破壊力だけでは、瘴気から生まれる魔物を根本から絶つことはできないのだ。
「気をつけろ! 瘴気が異常に濃いぞ!」
「息を止めろ! 吸い込めば肺が腐る!」
騎士団長が悲痛な叫びを上げた直後。
前列で盾を構えていた若い騎士が、バタッとその場に崩れ落ちた。彼は自らの喉を掻きむしり、口から青白い泡を吹いて痙攣している。
「ひっ……!」
エミリアが、後ずさりしながら震える悲鳴を上げた。
「な、なにこれ……! わたくしの魔法が、効かない……!」
後方から安全な場所で様子を見ていた伯爵が、顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。
「何を休んでいる、エミリア! 撃て! 撃ち続けろ! 一匹残らず消し炭にしろ!」
エミリアは歯を食いしばり、半泣きになりながらさらに強力な広範囲魔法を放った。
巨大な火球が夜空を裂き、魔物の群れの中心で大爆発を起こす。
だが、視界の隅で、その強大すぎる魔法の余波が屋敷の美しい庭園を吹き飛ばし、隣接する小麦畑へ延焼していくのが見えた。
「おい、畑に火が移ったぞ!!」
「消火班、早く! 今年の収穫がすべて灰になっちまう!」
戦場は、完全に地獄の様相を呈していた。
エミリアの持つ攻撃魔法は、確かに派手で強力だ。
だが、それは何もない荒野で敵を殲滅するためのもの。こうして自分たちの領地、守るべき民や財産がある場所では、扱いが致命的に難しかった。
火力を上げすぎれば、魔物どころか家畜や領民が焼け死ぬ。土が焼ければ、数年は作物が育たなくなる。
守るために放ったはずの自慢の魔法が、皮肉にも自分たちの首を絞め、領地を自らの手で破壊していく。
「はぁっ……はぁっ……!」
魔力の過剰消費で、エミリアの呼吸が乱れ、膝がガクガクと笑い始めた。
杖を握る手が痙攣し、立っていることすらままならない。
「お父様……もう、魔力が……空っぽですわ……!」
伯爵家の誇り、天才と持ち上げられ、温室でぬくぬくと育ってきた娘は、命を懸けた長時間の死闘など想定していなかった。
彼女の魔法は、安全な練兵場で家臣たちに「見せびらかし、称賛を浴びるため」の、ただの見世物に過ぎなかったのだ。
「エミリア様が限界だ! 後退しろ! これ以上は前線を維持できん!」
騎士団長が血を吐くような声で退却を命じた。
「黙れ、下賤の者が! エミリアは我が伯爵家の希望だぞ!」
伯爵が狂ったように怒鳴る。
「エミリアは特別なんだ! あの役立たずで無能な長女とは違うんだ!!」
“無能な長女”。
その言葉が、焦げ臭い夜の空気に虚しく響いた。
次の瞬間、伯爵のすぐ背後に控えていた、古株の老侍女が、ぽつりと、しかしはっきりとした声で呟いた。
「……無能、ではございませんでしたよ」
誰にも聞かれないような小さな独り言。
だが、極限の緊張状態にあった隣の初老の執事が、ハッとして振り向いた。
「おい、マーサ。今、なんと言った?」
「……ただの、独り言です」
老侍女は、恐怖で震える唇を噛み締めながらも、毅然とした態度で続けた。
「リゼット様が……この屋敷にいらっしゃった頃は。あの方が無能と蔑まれながらも、屋敷の隅でお掃除をしてくださっていた頃は……こんな恐ろしい魔物など、ただの一匹も出たことはありませんでした」
執事の目が、驚愕に見開かれた。
「……まさか。だが、確かに……」
執事は、震える手で懐の懐中時計を握りしめた。
「領地の境にある結界の石標は、毎朝、ほんのりと清らかな光を放っていた。私はそれを『古い術式の残滓』だと思っていた。だが……最近、その石標の周辺を掃除する者がいなくなってから、光が消えていた」
老侍女は、悲しげに顔を歪めた。
「リゼット様は……誰に命じられるでもなく、よく屋敷の外れに行かれていました。あの石標の前にしゃがみ込み、そっと両手を当てて……まるで泥汚れを落とすように、何かを祈るようにされていたのを、私は何度も見ております」
執事は、完全に言葉を失った。
彼らの会話の断片が、風に乗って、怒り狂う伯爵の耳にも届いた。
伯爵は最初、鼻で笑って一蹴しようとした。
「馬鹿馬鹿しい! あの娘の『浄化』などという、生活魔法以下の地味なゴミスキルで、この広大な領地の防衛結界が維持できるわけがないだろうが!」
だが。
現実が、非情な答えを突きつける。
メリメリメリッ!と、前庭の強固な鉄柵が、魔物たちの圧倒的な質量によってへし折られた。
騎士団が必死に押し返そうとするが、多勢に無勢。完全に決壊したのだ。
屋敷の敷地内に、雪崩を打って魔物の群れが侵入してくる。
同時に、遠くの暗闇の中で、領民たちが暮らす村のあちこちから火の手が上がり始めた。
炎の光が揺れ、遠く離れた屋敷にまで、人々の絶望的な悲鳴と泣き声が風に乗って聞こえてくる。
「む、村が……! 結界が消えたせいで、領地全土が魔物に蹂躙されています!」
「このままでは、アルジェント伯爵領は完全に滅亡します!!」
血まみれの騎士の報告に、伯爵の喉がヒュッと鳴った。
継母は恐怖のあまり白目を剥き、手から扇を取り落としてその場にへたり込んだ。
魔力切れで座り込んでいたエミリアが、呆然と、焦点の合わない目で呟く。
「……お姉さまが、いなくなったから。……結界が、消えたの?」
その場にいた誰もが、ついに理解した。
認めたくはなかったが、認めざるを得ない残酷な真実。
領地を数百年間守り続けてきた結界は、アルジェント伯爵家の『強力な攻撃魔法の血』で維持されていたのではなかった。
当主である伯爵の『優れた管理能力』のおかげでもなかった。
もっと単純で、もっと滑稽な答え。
――リゼットが、一人で結界を修復し、維持していたのだ。
毎日、毎日。誰にも命じられず、無意識のうちに。
「地味で役に立たない」と家族から嘲笑われ、虐げられながらも、彼女が屋敷の片隅でせっせと消していた『黒い靄』こそが――領地を滅ぼす致死量の瘴気であり、魔物を呼び寄せる“地獄への入り口”だったのだ。
伯爵は青ざめた顔を、すぐに自己正当化の怒りで真っ赤に染め上げた。
「そ、そんなはずはない! 偶然だ! あの無能な娘が家を出たタイミングと、老朽化した結界が寿命を迎えたタイミングが、たまたま重なっただけだ!」
往生際の悪い叫びに、もはや誰も賛同しなかった。
継母が、ガタガタと震えながら伯爵のズボンの裾にすがりついた。
「あ、あなた! 連れ戻しましょう! 今すぐ、リゼットを辺境から連れ戻すのです!」
「何を馬鹿なことを言う、あの娘は生贄として追放したんだぞ!」
伯爵は反射的に怒鳴り返したが、すぐに言葉を詰まらせた。
追放した。
自分たちが、邪魔者扱いして死の土地へ捨てた。
だからこそ、今、自分たちが死にかけているのだ。
エミリアが、泥とススにまみれた顔で、ボロボロと大粒の涙を流しながら金切り声を上げた。
「お姉さまが……そんなに凄い力を持っていたなら、隠さずに最初からそう言えばよかったのよ!! そうすれば、追い出したりしなかったのに! 全部、黙っていたお姉さまが悪いのよ! 早く戻ってきてもらえばいいじゃない! わたくしは……わたくしはもう、こんな汚い魔物と戦うなんて絶対に嫌!!」
自分本位で傲慢な、醜い責任転嫁。
だが、その見苦しい言葉が、伯爵にとっては渡りに船だった。
自慢の娘の心は完全に折れ、領地は滅亡寸前。
プライドなど構っている余裕はない。
伯爵は冷や汗を拭いながら、素早く、そして身勝手な判断を下した。
「……手紙だ」
伯爵は執事を睨みつけた。
「至急、辺境へ早馬の使者を出せ! リゼットに今すぐ実家へ戻るよう命じる……いや、違う。一応、頼む形にしろ。
『些細な誤解があった』『家族としてお前を愛している』『すぐに迎えに行くから、屋敷へ戻っておいで』……そう、涙を誘うように書け!」
継母が、まるで名案を思いついたようにパァッと顔を輝かせて頷く。
「ええ、そうですわ! あの子は昔から、私たちが少し優しく声をかけるだけで嬉しそうにする、従順で馬鹿な……いえ、優しい子でしたもの! 私たちが謝って『必要だ』と言えば、喜んで尻尾を振って戻ってきて、領地を守ってくれますわ!」
エミリアも、安堵の涙を拭いながら鼻を鳴らした。
「当然よ。だって、お姉さまはアルジェント家の『家族』なんだから。家族のピンチを助けるのは当たり前でしょう?」
――その“愛する家族”を「無能のゴミ」と呼び、生贄として北の死地に追いやったことなど、彼らの都合の良い頭からは完全に抜け落ちていた。
執事が、顔を引きつらせて一瞬だけ躊躇した。
「……旦那様。辺境伯ヴォルフガング様は、泣く子も黙る“狂王”と呼ばれるお方です。一度正式に嫁がせた娘を、一方的な都合で返せと要求すれば、我が家が辺境伯軍に滅ぼされる可能性が――」
「関係あるか!!」
伯爵が唾を飛ばして怒鳴った。
「狂王など知ったことか! リゼットがまだ生きて無事なら、何が何でも連れ戻せ! あの娘の『結界を張る力』が、我が領地には絶対に不可欠なんだ!」
必要。不可欠。
彼らが、リゼットの人生で一度も与えなかった言葉。
それを聞いた瞬間、伯爵の背後で、老侍女が、心底軽蔑したような冷たい声で呟いた。
「……あの子は、ずっと昔から、この家に必要だったのに。……あなた方が、それに気づかなかっただけではありませんか」
「貴様、今なんと言った!!」
伯爵が激高して振り向くが、老侍女はもう何も言わず、ただ静かに、哀れな愚者を見るような目で当主を見つめ返した。
◇◇◇
夜明け前。
魔物の襲撃をなんとか凌ぎ切り、ボロボロになった伯爵家から、辺境へ向けて一騎の早馬が放たれた。
使者の懐には、アルジェント伯爵家の赤い蝋印が押された分厚い封筒。
表書きには『愛する娘、リゼットへ』。
吐き気がするほど、白々しく丁寧な文字だった。
そして伯爵は、使者を見送った後、焦燥に駆られたように騎士団長へ命じた。
「使者が辺境を往復して戻ってくるのを、のんびり待っている時間はない。動ける騎士をすべて集め、親衛隊を編成しろ。……私も、自ら辺境へ出向く」
「お、お父様!? あんな恐ろしい北の地へ行かれるのですか!?」
エミリアが目を見張る。
「当然だ。あの娘が手紙を読んで渋るようなら、私が父親の権限で力ずくで連れ戻す。連れ戻さねば、この豊かなアルジェント領は完全に終わるのだ」
窓の外で、また魔物の遠吠えが響いた。
空はまだ暗いのに、遠くの村々が赤々と燃え上がり、火の粉が雪のように舞い上がっている。
伯爵はギリッと奥歯を噛み締め、拳から血が滲むほど強く握りしめた。
「……リゼットは、我がアルジェント伯爵家の所有物だ。狂王ごときに、絶対に逃がすものか」
その身勝手な独り言は、娘を案じる親の祈りなどではなく、ただ己の保身だけを願う醜い呪いだった。
――そして、その数日後。
平和と幸福を取り戻しつつある辺境の城塞で。
この自己中心的な手紙の入った封筒が、リゼットの小さな手の中で、重く、冷たく沈んでいたのだった。




