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無能と蔑まれた身代わり花嫁は、辺境の【狂王】に嫁ぐ  作者: 綾瀬蒼


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第5話 死の土地が黄金の麦畑に

北の辺境にある城塞の朝は、ひどく早い。


窓の外が白み始め、夜の闇が薄青色に染まり始めたころ。石造りの冷たい廊下には、すでに早起きの兵士たちの足音と、厨房の裏手にある井戸から水を汲み上げる桶の音が響いていた。

しかし、その活気ある生活音に混じって――ここ数日、明らかに「別の気配」が混じっていることにリゼットは気づいていた。


人々の声のトーンが、驚くほど明るいのだ。


「おい、見たか? 今日こそ、あの奥の畑の端まで行けるかもしれんぞ!」

「ああ、空気がまるで違う。昨日までの、あの肺にへばりつくような腐った土の匂いがまったくしないんだ。これなら思い切り鍬を振るえる!」

「奥様が浄化してくださったおかげだ。ありがてえ、本当にありがてえ……」


窓の隙間から漏れ聞こえてくる、希望に満ちた領民や兵士たちの笑い声。


(私は、本当にここにいるんだわ)


天蓋付きの柔らかい寝台から身を起こし、リゼットは用意されていた新しいドレスの袖を通した。

上質な淡い青色の絹布が肌に触れるたび、少しだけ現実感が増してくる。


「無能」「泥かぶり姫」と蔑まれ、死の土地への生贄として薄暗い馬車で送り出されたはずの自分が。

今、こうして温かい部屋で目を覚まし、人々から感謝され、美しい服を着せてもらっている。時折、まだ都合の良い夢の続きを見ているのではないかと錯覚する瞬間があった。


コンコン、と控えめなノックの音。


「奥様。お目覚めでしょうか。朝餉あさげの支度が整っております」

扉を開けると、初老の侍従長が穏やかな笑みを浮かべて深く頭を下げた。

「本日は、朝食後に辺境伯様より“畑の視察へ同行していただきたい”との伝言を預かっております」


リゼットはパチリと目を瞬いた。


「畑の視察へ……?」

「はい。昨日の奥様の浄化によって、領地の土壌がどう変化したのか。奥様ご自身の目でご覧になったほうがよろしい、と旦那様が」


リゼットの胸の奥が、期待と不安でそわりと波打った。

自分の放った『浄化』が、土地をどう変えたのか。昨日、窓から遠くに見えたあの「淡い緑の芽」が本物なら――。


食堂へ向かうと、大きな長机の上座に、ヴォルフガングがすでに席に着いていた。

いつもの威圧的な黒い外套や重い鎧ではなく、領内の見回り用に仕立てられた、動きやすそうな濃紺の上着姿だ。腰に長剣は帯びているものの、ピリピリとした戦場の気配はない。


彼は食堂に入ってきたリゼットを見るなり、弾かれたように立ち上がりかけて――侍従長の生温かい視線に気づき、慌てて咳払いをして座り直した。


「……おはよう、リゼット。体調はどうだ」

「おはようございます、旦那様。体調はもうすっかり大丈夫です。今日は、外へ連れて行ってくださるんですよね」


リゼットが少し弾んだ声で言うと、ヴォルフガングはホッとしたように目元を和らげた。


「ああ。だが、まだ魔力枯渇の病み上がりだ。絶対に無理はするな。歩ける範囲で、少し疲れたらすぐに私に言え。いいな」

「はい、ありがとうございます」


相変わらずの過保護な言いつけに、リゼットはくすりと笑って席に着いた。


今日の朝餉は、昨日よりもさらに充実していた。

ふっくらと焼かれたオムレツ、柔らかく煮込まれた豆のスープ、香草が練り込まれた焼きたてのパン。どれも素材の味が濃く、“生きている味”がした。


「美味しい……。昨日よりも、お野菜の味がはっきりしている気がします」

「厨房の者が泣いて喜んでいた。水が澄み、土が息を吹き返したことで、貯蔵庫の野菜の鮮度まで蘇ったらしい」

ヴォルフガングは満足げに頷きながら、リゼットの皿にこっそりと一番大きな肉の欠片を乗せてくれた。


◇◇◇


食後、ヴォルフガングの大きな手に引かれて城塞の正門を出ると、外の空気がさらに軽くなっていることに気づいた。

もちろん、広大な辺境の瘴気が一朝一夕で完全にゼロになったわけではない。遠くの山の稜線には、まだ黒い霞が薄く残っている。

けれど、深く息を吸い込んでも、肺が焼けるようなあの痛みは全くなかった。


城塞の中庭を抜けた先、荒れ果てた土地の境界線に、数十人の領民たちが集まっていた。


錆びついた農具を抱える痩せた男たち、小さな子どもを背負った女たち、そして――先頭に立つ年老いた農夫が一人、地面に這いつくばるようにして土を握り、真剣な顔で匂いを嗅いでいる。


「おはようございます。皆様、朝早くからどうされたのですか?」


リゼットが声をかけると、農夫はビクッと驚いた顔で振り向き、次の瞬間、慌てて古びた帽子を胸に当てて深く頭を下げた。


「……こ、これは奥様! お目にかかれて光栄の極みに存じます。わしは代々この城の畑番をしております、ハインツと申します。今朝は、土の様子を見にまいりまして……」


彼が差し出したゴツゴツとした手のひらには、昨日までの黒く乾いた死の土ではなく、ふっくらとした薄茶色の土がこんもりと乗っていた。

粒が細かく、指でこすると少しだけ水分と粘り気が残る。作物を育てるための、生きた土だ。


「見てください、奥様。昨日、試しに城壁のすぐ外を掘り返した場所の土です。……戻っています。百年ぶりに、この辺境の土が生き返ったんです」


その言葉だけで、リゼットの喉の奥が熱くなった。


「本当に……?」

「はい。奇跡です、まさに神の奇跡です……!」


ハインツの声は、感極まって震えていた。

周囲の領民たちも、ポロポロと涙をこぼしながらリゼットに向かって拝んでいる。

これほどまでに純粋で、圧倒的な感謝の声を、リゼットは伯爵家で一度も聞いたことがなかった。


ヴォルフガングがリゼットの隣へ一歩進み出て、よく通る声で告げた。


「奇跡を起こしたのは神ではない。我が妻、リゼットだ」

「……ええ! 奥様が、我らを救ってくださった!」


領民たちの熱を帯びた視線が一斉にリゼットへ集まる。

誰もが彼女に期待している。彼女を頼りにし、これからの未来を共に生きたいと願っている。


その重い期待が、少しだけ怖い。

無能な自分が、そんな大役を背負えるのか。

けれど同時に――胸が張り裂けそうなほど、嬉しい。


リゼットは小さく深呼吸をすると、美しい水色のドレスの裾が汚れるのも構わず、柔らかな土の上へそっと両膝をついた。


「リゼット?」

驚くヴォルフガングを制し、リゼットはハインツを見上げた。


「ハインツさん。少しだけ、この土に触れてみてもいいですか」

「ど、どうぞ奥様! ですが、お召し物が……」


リゼットは構わずに、素手を直接、薄茶色の土に当てた。


ひやりとした感触。

けれど、昨日までの氷のような『死の冷たさ』ではない。春の雨を待ちわびる、眠っている大地の心地よい冷たさだ。


リゼットはゆっくりと目を閉じ、意識の奥底にある泉から『浄化』の魔力を静かに引き出した。

昨日ほどの規模ではない。ただ、目の前の小さな畑の区画だけに、細く、優しく魔力を流し込む。


すると、掌の下で、何かが微かに「ほどける」のを感じた。


土の中に長年こびりついていた黒い毒の膜が剥がれ落ち、大地が深く深呼吸をするような感覚。


ふわりと風が吹き抜け、リゼットの鼻先をくすぐった。


――土の匂いだ。

春先の、雨上がりの森で嗅ぐような、生命力に満ちたあの匂い。


「……すごい」

近くで護衛をしていた若い兵士が、思わず感嘆の声を漏らした。


リゼットが目を開けると、彼女の掌を中心に数メートル四方の土が、さらにふかふかと柔らかく変化していた。乾いた粉ではなく、黒土と腐葉土が混ざり合ったような、極上の畑の土だ。


ヴォルフガングが、心配そうに眉を寄せてリゼットの肩を抱き起こした。


「無茶をするなと言ったはずだぞ」

「はい、ごめんなさい。でも……私の力が、どこまで通用するのか、少しだけ確かめたかったんです」


リゼットは立ち上がり、ドレスの膝の泥をパンパンと払いながら、集まった領民たちへ向き直った。


「皆さんの期待に応えたいのですが、この広大な畑を全部、一度に蘇らせるのは私の魔力でも難しいと思います。……だから」

「それでも十分でございます、奥様!」

ハインツが、食い気味に大声で言った。

「今までは“ゼロ”だったのです! 種を撒いても黒く腐り、麦は育たず、家畜は病に倒れ……。少しでも生きた土が戻るなら、わしらは腕がちぎれるまで働けます!」


働ける。生きていける。

その切実な言葉が、リゼットの胸に真っ直ぐに届く。


リゼットは力強く頷いた。


「では、闇雲にやるのではなく、順番を決めましょう。まずは……水のある場所から」

「水、ですか?」


リゼットは遠くに見える、城塞の古い井戸と、干上がりかけた用水路の方を指差した。


「土だけでなく、この土地の水脈も……瘴気の影響を受けているはずです。水が完全に澄めば、そこに『浄化』の魔力を乗せて畑に撒くことができます。そうすれば、私が直接触れなくても、少しずつ畑を広げられるはずです」


ヴォルフガングが、驚いたように小さく目を見開いた。


「……水脈を利用して、浄化の範囲を広げるだと? そんなことまで考えていたのか」

「えへへ……。昨日、厨房のメイドさんが“井戸水が澄んだ”と喜んでいたので、思いついただけです。これなら、私の魔力も節約できますし」


照れ笑いをするリゼットの胸の奥は、誇らしさで少しだけ熱くなっていた。

自分の何気ない言葉が、この国を支える辺境伯に“戦略的な提案”として真剣に扱われている。伯爵家なら「無能が偉そうに口出しするな」と殴られて終わりだったのに。


ヴォルフガングは感心したように短く頷き、すぐに騎士団長へ鋭い指示を出した。


「聞いたな。手の空いている兵士を集め、井戸と用水路の清掃・確認を行え! 畑番の者たちと組んで、今日中に水を引き込める最初の区画を決定しろ!」

「はっ! 直ちに!」


領民たちも一斉に動き出す。

大工が水路の補強のための木材を運び、農夫たちが鍬を肩に担いで走る。子どもたちですら「僕たちも手伝う!」と、小さな手で畑の石を拾い集め始めた。


その活気に満ちた光景を見ながら、リゼットは胸の奥がじん、と温かくなるのを感じた。


(私がここに来たことで、皆が笑顔で動いている)


“家の恥”と呼ばれた自分が、この辺境の未来を作っている。

その現実が、たまらなく嬉しかった。


◇◇◇


それからのお昼過ぎ。

ヴォルフガングの迅速な指揮の下、最初の畑の区画があっという間に決定した。


井戸から用水路へ水を引き、畑の端を木の杭で囲い、ハインツたちが手際よく土を耕していく。兵士も領民も身分の区別なく、一緒になって泥まみれの汗を流している。


リゼットはその中心に立ち、井戸の源泉に向かって、無理のない範囲で『浄化』の魔力を静かに流し続けた。


土が、さらに柔らかく呼吸を始める。

水が、水晶のように澄み渡り、陽光を反射してキラキラと輝く。

その清らかな水が水路を通って畑に流れ込むと、大地全体が喜んでいるような温かな波動が広がっていった。


「奥様……」

その時、一人の若い母親が、おずおずとリゼットに近づいてきた。

その手には、小さな麻袋が握りしめられている。


「あの……うちに、去年の麦の種が少しだけ残っていて。瘴気にやられていないか、選別して残しておいたものなんです。でも、今までこれを植えても、ヒョロヒョロとした弱い芽しか出なくて……」

「見せてもらえますか」


母親が差し出した布袋の中には、乾燥した小さな種がひと握りほど入っていた。

確かに黒く腐ってはいないが、どこかくすんでいて、生命力が感じられない。


リゼットは手袋を外し、その種を両手でそっと包み込むようにして目を閉じた。

ほんの少しの『浄化』を流し込むと、種の中に絡みついていた見えない“苦さ”がフッとほどける感覚がした。

目を開けると、種の表面に艶が戻り、ふっくらとした黄金色に輝いている。


「……これなら、きっと強い芽が出ますよ」


リゼットが微笑んで種を返すと、母親は両手で口元を覆い、ボロボロと大粒の涙をこぼした。


「ありがとうございます……! 本当に、ありがとうございます、奥様……!」


その姿を見て、リゼットの胸がきゅう、と締めつけられる。


(涙を、嬉しさで流してる)


リゼットの人生において、涙とは「悲しさ」と「痛み」の象徴でしかなかった。

誰かを喜ばせ、嬉し涙を流させる日が来るなんて、想像もしていなかった。


ヴォルフガングが隣に立ち、低く、優しい声で言った。


「……君が、また泣かせたな」

「泣かせた、という言い方は人聞きが悪いです」

リゼットが少しむくれて抗議すると、彼はフッと口角を上げた。


「違う。……君が、彼らを生かしたんだ」


リゼットは言葉を失った。

ヴォルフガングは女性の扱いなど全く慣れていないはずなのに、時々、こうしてリゼットの胸の最も柔らかい部分を、真っ直ぐな言葉で射抜いてくる。


◇◇◇


夕方。

茜色の夕日が辺境の空を染め始めたころ、畑の方からひときわ大きな歓声が上がった。


「芽だ!」

「おい、見ろ! 出たぞ、麦の芽が!!」


ハインツの震える声に、全員が畑に駆け寄る。

リゼットとヴォルフガングも、人垣を分けて進み出た。


柔らかな薄茶色の土から、細く、けれど鮮やかな緑色の「芽」が、無数に顔を出していたのだ。

まだ弱々しいが、夕風に揺れても決して折れない、確かな生命の力強さを持った緑。


リゼットは思わず両手で口元を押さえた。


「……出た。本当に出た」

「ああ」

ヴォルフガングが隣で、感慨深げに頷く。


「これが……やがて、黄金の麦畑になるんですね」

「育てよう。君と、皆で」


その言葉が、すとん、と胸の奥に落ちた。


“君と”。

自分はもう、一人ではないのだ。


リゼットの心臓が少しだけ速くなる。

しかし同時に、一日中魔力を使い続けた疲労がどっと押し寄せ、足がぐらりとふらついた。


「あっ……」

倒れそうになった瞬間、ヴォルフガングが当然のように、極めて自然な動作で彼女の細い腰に逞しい腕を回し、自分の胸に引き寄せた。


「限界だな。今日はここまでだ」

「まだ……あと少しだけ、あっちの区画も……」

「駄目だ。私の妻が倒れることは、私が断固として許可しない」


昨日の寝室でのやり取りを思い出して、リゼットは彼の胸の中で思わずくすりと笑ってしまった。


「……旦那様の許可は、相変わらず厳しいですね」

「当然だ。君の命は、辺境の……いや、私の宝なのだから」


真顔での即答だった。

けれど、その“当然”という言葉の中に、彼女を何があっても守り抜くという強烈な意思が詰まっている。リゼットはもう抵抗せず、彼の温かい体温に身を委ねた。


すると、周囲の領民たちがざわりとした後、どこかニヤニヤと嬉しそうに笑い合った。


「おい見ろよ、辺境伯様の顔がすげえ柔らかいぞ」

「狂王なんて呼ばれてたのが嘘みたいだな。奥様がいると全然違う」

「ヒュー! 旦那様、ごちそうさまです!」


冷やかしの声に、ヴォルフガングが一瞬だけビクッと硬直し、耳まで真っ赤にして大きな咳払いをした。


「……貴様ら、余計なことを言うな! 明日の訓練は倍にするぞ!」

「ひええ、言いたくもなりますって!」


ドッと明るい笑い声が夕暮れの空に響き渡る。


リゼットは、胸の中が幸せでちぎれそうなくらい温かくなった。


(この場所には、温かい笑いがある)


それは、あの冷たく広大な伯爵家の屋敷には、絶対に存在しなかったものだ。


◇◇◇


城塞へ戻る道すがら、空はすっかり濃い茜色に染まっていた。


ヴォルフガングが、ふと足を止める。

手を繋がれていたリゼットも立ち止まり、彼を見上げた。


「……リゼット」

「はい」

「君は、この辺境で……これから、何がしたい?」


胸がトクンと跳ねた。

彼の問いが、あまりにも真剣で、彼女の意志を何よりも尊重しようとする響きを持っていたから。


“何がしたい”。

また、彼から人生の選択肢を渡された。


リゼットは夕空を見上げ、自分の心の中にある本当の願いを探り、ゆっくりと言葉にした。


「……畑を、もっと増やしたいです」

「うん」

「子どもたちが……明日食べるパンの心配をせずに、お腹いっぱい食べられるように」

「うん」

「それから……この冷たい石の城塞が、ただ魔物の襲撃に耐えるだけの砦じゃなくて、皆が安心して『暮らす場所』になってほしいです」


言い終えた瞬間、自分の頬がカッと熱くなるのが分かった。

こんなにも自分勝手で、大きな願いを口にしたことなど、これまでの人生で一度もなかったからだ。


ヴォルフガングは少し黙り、そして、ひどく優しい顔で短く頷いた。


「なら、そうしよう」

「……いいんですか? そんな夢みたいなこと……」

「君が望むなら、私は全霊を懸けてそれを叶える。……いや、私もそれを望んでいる」


夕焼けの逆光の中で、彼の横顔がいつもよりずっと優しく、美しく見えた。


リゼットは小さく息を吸い、さらに踏み込んだ言葉を探した。


「私、ここで……皆の『女将』のような存在になれますか?」

「女将?」

「ええ。ふんぞり返る貴族の奥様じゃなくて、皆の暮らしを一番近くで支える人。……伯爵家では、誰の役にも立てなかったから。ここでは、皆の役に立ちたいんです」


ヴォルフガングは一瞬目を見張り、次いで、呆れたように、けれど極上の愛しさを込めて微笑んだ。


「なれる。……いや、君はもうなっている」

「……?」

「君がそこにいるだけで、人々が動き、笑い、未来を語る。君はすでに、この辺境の立派な女将であり、私の最高の妻だ」


リゼットは胸がいっぱいになり、嬉しさで言葉が出なかった。

代わりに、彼の大きな手を、両手でギュッと握りしめた。

昨日のように恐怖から助けを求めるためではない。ただ、愛しい人が隣にいることを確かめるために。


ヴォルフガングの肩が僅かに揺れ、彼は何も言わずに、繋いだ手に少しだけ力を込めて歩き出した。


◇◇◇


幸せな疲労感とともに城塞の門をくぐると、留守番をしていた門番が、血相を変えて慌てた様子で駆け寄ってきた。


「辺境伯様! 急ぎの使者が到着いたしました! 王都方面からの定期連絡ではありません、西の……ヴァルモン伯爵領からです!」


『ヴァルモン』。

その実家の名を聞いた瞬間、リゼットの体がビクッと強張り、繋いでいた指先がスッと氷のように冷たくなった。


ヴォルフガングの目が、一瞬にして冷酷な狂王のそれへと変わる。


「使者を通せ。何の用だ」

「それが、相手は名乗りもせず……ただ、“リゼットに必ず渡せ”と、この手紙を押し付けて去っていきました」


門番が恐る恐る差し出した白い封筒には、見覚えのある、禍々しいほど赤い蝋印が押されていた。


燃え盛る炎を象った、アルジェント伯爵家の紋章。


リゼットの呼吸が浅くなる。


(どうして……? 私を『生贄』として追放したのに、今さら何の用なの?)


ヴォルフガングが一歩前へ出て、リゼットを背中に庇うようにして手紙を受け取り、低い声で言った。


「中身を確認するのは後だ。まずは、君が休むのが先だ」

「……でも、お父様からの手紙なら……」

「何も心配はいらない。私がそばにいる」


その力強い言葉に、リゼットは震える唇を噛み締め、小さく頷いた。


ヴォルフガングの持つ封筒は、紙一枚のはずなのに、ひどく重く、おぞましい過去そのものが詰まっているように感じられた。


遠くの荒野で、冷たい風が鳴る。


畑の芽は確かに出た。辺境の未来の匂いがし始めている。

なのに、背後から――縁を切ったはずの泥沼の過去が、再び彼女の足首を掴もうと、醜い手を伸ばしてきていた。


リゼットは胸騒ぎを抑えきれないまま、ヴォルフガングの背中を追って城の奥へと向かった。

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